蜃気楼の中に帰ろう
真木
蜃気楼の中に帰ろう
今どこにいるのと、いつか母がメールをくれた。
かすみは笑って、他愛ないことのように母に返した。
ふもとから見えるでしょう? 時々蜃気楼の中に隠れるだけで、この町はお母さんが歩いてでも行けるところだもの。
でもそれ以上の返信は、今もなかった。
かすみがそれを思い出していたとき、誰かに声をかけられた。
「お疲れさま、かすみ。今日は終わりだよ」
就職のために母と離れて暮らすことになったのはつい最近のことなのに、なんだかずいぶん前のことのように感じる。
返事をしそこねたかすみに、誰かはまた優しく呼びかける。
「かすみ?」
はっと顔を上げると、傍らに社長が立っていた。
かすみは慌てて手元のメーターを確認して言う。
「少し色素が落ちているようですから、薬剤を追加した方がいいのでは」
かすみが眉を寄せて仕事の話をしたら、ふわりと気配が近づいた。
彼がかすみの上から屈みこんだのか、袖同士が触れた。どうしてか袖の下で肌が粟立って、かすみは顔が上げられなかった。
作物の葉を手で確認して、社長は言う。
「大丈夫。これでいい」
春風のような声で告げて、社長が笑う気配がした。
離れていく袖を惜しいように見ている自分に気づいて、かすみは目を逸らす。
社長は仕事を終えて、何気なくかすみにたずねる。
「今日も夕ご飯を食べていく?」
かすみは少し迷って、返す言葉を考えている自分が不思議だった。
今日もと社長が言うのだから、以前もそういうことがあったはずだ。でもかすみの中には初めてのような違和感もある。
社長は迷ったかすみに困るでもなく、そっと促す。
「おいでよ。いつものように」
社長が優しく言うのを聞いたら、小さな疑問は霧のように散った。
うなずいたかすみに、社長が朗らかに笑う気配を感じていた。
社長は、一つ一つが繊細な作りをしている。
失礼かもしれないが、かすみは彼と向き合うとどうしても細工という言葉を思い浮かべてしまう。
社長の声が、いつ聞いても優しいからかもしれない。
「もうちょっと取る?」
たとえば鍋を指す長い指先、高くも低くもない心地いい声、社長には粗いところがどこにもない。
かすみは笑ってありがとうございますと言うと、続けて返した。
「大丈夫です。お腹いっぱいです」
かすみは未だに社長の顔を見ることができない。叱られたことも、まさか暴力を振るわれたわけでもないのに。
かすみはこの会社に就職してから、時には社長と向き合って食事をごちそうになっているのに、社長の喉元から上に視線を向けることはない。
どうしてか考え出すと、いつも疑問がとろけるように消えてしまう。
社長は手を引っ込めると、椅子を引きながら言った。
「僕もここまでにしようかな。コーヒーでも飲もう」
彼はそんなかすみの不自然さを、優しくなだめているようだった。苛立つことも怒ることもなく、穏やかに相槌を打つ。
社長は台所に立ってコーヒーを淹れてくると、かすみの前に差し出しながら言った。
「ミルクを少なめにしたよ。いい豆だからね」
社長は社員のかすみのことも、会社で育てている作物のことも、慈愛をもってみつめている。そういう社長のことを、かすみは尊敬している。
社長が自ら作ってくれる夕食も、淹れてくれるコーヒーもとてもおいしい。
だからということではないが、かすみは気づけば彼の口元が笑みを刻んだのを見ていた。
「かすみ、その豆はうちの農場で育てたんだ。一緒に見に行く?」
薄く形のいい唇を目に留めた後に、覗いてはいけないところを覗いたような罪悪感がこみあげた。
かすみはとっさに首を横に振って、言葉を返していた。
「あ、いえ……もう遅いので。これで失礼します」
かすみは慌てて食器を片付けに席を立つ。
そのままでいいよと社長が言うのを聞きながら、急いで食器を洗う。
かすみは逃げるように部屋を後にして、外に出た。
社長の家を取り囲むようにして会社の農場が広がる。暗闇の中、かすみは家に向かって歩き出した。
月の無い夜、舗装もされていない農道は闇が覆いかぶさるようだった。道がだんだん狭くなって、やがて消え失せるような錯覚を抱く。
そんなとき、社長がいつも側にいてくれた気がするのは……どうしてだろう。
かすみの側で、社長の声がしたのはすぐだった。
「家まで送るよ」
社長は不安に足を止めそうになったときいつも、かすみの手をすくいあげる。
「まだ時々、君が道に迷わないか心配になるから」
驚いたのははじめだけで、包み込む社長の手の暖かさには抗いがたい力があった。
かすみは社長の確かな年齢を知らないが、彼は男性なのだと今更ながらに思った。昼間なら一歩離れるはずが、手を握り返していた。
街灯も懐中電灯もない道、その中をしばらく無言で歩くうち、かすみは奇妙な既視感を抱く。
ふいに社長は昔話をするように話を始めた。
「何度目でも、こうして歩くのは気持ちが踊る……なぜって」
社長は足を止めて、かすみを見下ろした。
「帰るたび、育つはずのない植物を見て君ははしゃいでくれるから」
そのときかすみには、闇の色が変わるような錯覚があった。
ここはどこだっただろう。唐突にわからなくなった。
赤道直下で育つはずのコーヒーが、生き生きと実をつけるここは……どこにあるのだろうか?
社長はかすみの手を持ち上げて、うやうやしく口づけた。
「今日も帰ろうか。……私たちの家に」
冴え渡った闇色の瞳をのぞいたとき、吸い込まれるようにかすみの体から力が抜けていった。
たぶんこれは夢なのだろうと、かすみは思う。
かすみはたまらなく愛おしい思いで闇をなでて、闇のような手がかすみの頬をなでている。
農場には誰もいない。たわわに実る果実だけが、風に揺れている。
かすみはずっと見てきた。農場で育っていく異様な植物たちと、会社どころか一度も人がいたことがない町を。
かすみと彼はもうずっと前から、二人でいる。
彼は今日も、呪いのような愛の言葉をささやく。
「好きだよ、かすみ。一番幸せなときを二人で、何度も辿ろうね」
そこは、天にも地にもないところ。
蜃気楼の中には異のものが棲み、異の時が溜まっている。
蜃気楼の中に帰ろう 真木 @narumi_mochiyama
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