独弦哀歌

 橡は月読命が話し終わってからしばらくして、やっと顔を上げた。瞳に映り込む光が、わずかに揺れた。それは月に雲がかかったからなのか、それとも。

「父上…」

橡がポツリと呟く。月読命は辛そうな表情で橡を見ると、再び口を開いた。

「妖は倒さなければならぬものだと、教わってきたはずだ…ここから先は、分かるね?」

橡は、俯いてしばらく返事ができなかった。頭と心は、別物だ。頭の整理がつこうとも、心の整理がつくとは限らない。

(なぜ胸がこんなにも痛いの?そもそも、何故父上は、そんなことを?父上を、倒したくない…いえ、そんなことを考えている場合では…でも…)

月読命は、黙ってしまった橡をじっと見てしばらく答えを待っていたが、なかなか答えそうにない様子に気づかれないようにため息をついた。

「あれを倒すことがお主の使命だ、橡。使命を果たせ。お主は使命を果たさねばならぬ者なのだ。その時になったらわかるだろう。私もその日になったらお前に言うから、待っていろ。」

橡がはっと顔を上げた。月読命の言葉を理解した途端、ばつの悪そうな顔になる。月読命に、強制させるようなことを言わせてしまったのだ。特にずっと心を込めて舞っていた橡には言いにくいだろうに、彼女に決断させるために言ってくれたのだ。

「はい…ありがとうございます。使命を果たすべき者として、全力をかけさせていただこうと思います。」

紫苑は橡の横顔をちらりと見て、その瞳の中の危なげな光に静かに目線を落とした。少しも支えになれていないことに気づき、ぐっと唇を噛む。彼女の柱となってきたのは、雅客だけだった。そしてそれは、簡単に変わることはない。

「橡。無理すんなよ。」

その呟きは、風に吹かれて橡の耳には届かなかった。橡は紫苑の心配に気づかず、目線を上げて仄暗い月を眺めている。その横顔は、今までにないほど儚げで、風に吹かれて飛んで行ってしまいそうだった。心の整理をつけようとしたのか橡は少し離れたとことろへ行こうとした。紫苑は、思わずその袖を掴む。橡はぴたりと動きを止めて振り返った。

「どうされましたか?」

自分でもそうしようとは思っていなかった紫苑はパッと手を離すと、正面から橡を見てじっと瞳を覗き込んだ。光はまだ宿っている。まだってなんだよ、と小さく呟いて、紫苑は首を振った。

「いや、なんでもない。」

橡はそう、と囁くように告げて再び歩き出した。月が傾いて、落ちようとしていた。その反対側には、闇夜が広がっていた。何よりも深く、全てを飲み込むような闇が。

 数日後、橡は夜になってはっと気がついた。いつもなら舞う時間だが、妖気を送り届けるための媒介だと知ってからは一度も舞ったことはない。

(舞が…妖気を届けているのでしょうか?私が舞わなければ届きにくいんですよね。妖気が漂うことも少なくなりましたし。ということは、舞を変えれば良いのでしょうか?今度、新月の日に舞を少し考えてみるのも一手かもしれません。)

橡は手の中にある扇をパッと広げた。普通の扇とはどこか違うような気がして、首を傾げる。少し間を広げてみると、何やら紙が見つかった。

「ありました…札?禍々しい気配がするような…これは、見つかったら妖気を出すようなものでしょうか?」

思わず眉を顰めて、早九字を唱えてから近くの蝋燭にかざして燃やす。燃え尽きるのを確認してから、さらにその場を清めた。

「清めよ、天照大神の名において。」

小さく唱える。月読命とは違い、天照大神の光はまだ穢されていない。今、橡が最も頼れるのは天照大神。月読命には無理をさせられない。そもそもその光が穢れているので、その名による言霊も少し穢れているだろう。

(おそらく仕掛けたのは、父上でしょう。念には念を、です。)

犯人は雅客だと確信した瞬間、ため息を吐きそうになった。ぶんぶんと顔を振るが、それでも雅客の顔が頭から離れない。

「違う、あれは敵です。」

様子を見にきた紫苑は、何度も顔を振って俯く橡を心配そうに見ていた。声はかけられなかった。

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