断腸之思
次の日、橡はいつもの稽古をこなしていた。雅客は姿を見せない。橡が帰ったかどうか確認していないのだから、当然といえば当然だが、橡は平然と稽古をこなすことができなかった。転ぶことはなかったが、集中できておらず何度もつまずいていた。陰で紫苑が心配そうに見ていたことにも気が付かなかった。
「おい。」
滝行中、橡は声をかけられたので顔を上げた。声をかけたのは、紫苑だった。
「瑠璃、ちょっと出てこい。そん中だと話にくいだろ。」
橡は稽古をさぼることに一瞬抵抗を覚えたが、雅客のことを思い出してその抵抗を振り切って滝から出た。
「はい。なんでしょう?」
平常を装ってはいるが、橡の瞳は僅かに揺れている。紫苑はそれをはっきりと確認して、こっそりと拳を握った。
「昨日のあの人から伝言だ。いきなり無情なことを言ってすまない。今日の夜説明するから、滝の近くで待っていてくれ。だそうだ。」
橡は驚いたように目を見開いたが、僅かに口角を上げて頷いた。普段はあまり言わない軽口を一瞬で考える。
「はい。事情はなんとなくは理解しましたが、正確に教えていただけるならお待ちしていますとお伝えください。あぁ、今も聞いているかもしれませんが。」
紫苑は、橡の軽口にふっと笑った。神を軽口の対象にするのは普段はしてはいけないことだが、今ならおそらく月読命も許してくれるとなんとなくわかった。
「そうだな。まだ月は昇ってはいないが、聞いてる気がする。軽口の対象には気をつけろよ?神罰かドッカーンっと降るかもしんねえぞ?」
紫苑の軽口に、橡の瞳の葛藤や悲しみの色が、少しだけだが和らいだ。紫苑はそれを見て、少しほっとしていた。
ガラリ、と稽古場の戸を開ける。雅客は相変わらず腕を組んでそれを見ていた。
「来たか。今日は早かったな。昨日の注意点に留意して始めろ。」
「はい。」
橡は扇を手に取った。集中しようと目を伏せる。
(妖気⁉︎)
息を呑んで顔を上げる。しかし、雅客以外に稽古場にはいない。感じた妖気も元々少なく、今はもうほとんど感じ取ることができない。
「どうした、橡。」
訝しげな雅客の声に、橡は首を振った。月読命を間違った方法で祭り、その力を押さえ込んでいる彼に少しでも怪しまれないために。
橡は日が沈む頃、舞うための衣装に着替えて滝の近くにいた。紫苑はすでに着いていたが、月を見ていて橡に気づいていない。
「紫苑さん。その月は眺めない方が良いと思うので、こちらへ。」
紫苑は橡に気づいて振り向いた。その顔は、疑問に思っているのがわかる顔だった。首を傾げて説明を求める仕草をしている紫苑を見て、橡はちらりと月を見た。
「あの月は、妖気に侵されています。舞と父の妖気のせいなのですが…あの月の光は禍々しいのです。あの光を見ていたら、おそらくあなたも妖気にまみれてしまいます。だから、見ないでください。できれば月の光もそのまま浴びないでください。木の下へ。」
橡が嘘をつくことはないので、本当に紫苑を心配しているということがわかる。紫苑は、できるだけ月を見ないようにしながら橡の近くの木の下へ行った。木の下へ行ってから紫苑は、橡が平気で月の光を浴びているのを見て眉を少し寄せた。
「こっち来ないのか、瑠璃。」
橡は僅かに口角を上げ、月を見上げてしばらく黙った。紫苑がしてはいけない質問だったのか、と不安になり始めた頃、橡は口を開いた。
「あの妖気の大半は、私が作り出したものです。私が作り出したものが私に危害を加えるようなことは滅多にありません。それに、私はいくら妖気がまとわりついても大丈夫です。祓う手段を知っていますから。」
紫苑は思わず息を呑んだ。月を見上げたまま微笑む橡は、どこか儚げで、今にも消えそうだった。手を伸ばそうとした。
「瑠…」
「前はそう読んでくださいと言ったので申し訳ないのですが、その名前ではなく、橡とお呼びください。それは私の真名とは違い、父がつけたものです。その名を呼ぶごとに、父に私の居場所がわかってしまいます。私が今日ここにきた意味もなくなってしまいます。」
紫苑ははっとして口を押さえ、頷いた。瑠璃と呼べ、と言われたが、それは橡が雅客を信頼していたからだ。雅客に、いつ襲われるとも限らないから名を問われたら瑠璃と名乗れ、と言われていた。位置が分かればいつでも助けに行けるから、と。しかし信頼が消えて疑惑に変わった今、位置を知らせなければならないわけではない。紫苑はそっと、ため息をついた。彼女は今、何を考えているのだろう。信頼していた者に裏切られ、積み上げてきたものを否定されて。二人の間を冷たい風が吹き抜けた。
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