暗雲低迷

 ぱしゃっと音を立てて橡の首から下が川の水に浸かった。紫苑はわずかにかいた汗を拭い、橡の脇を持って体を支える。疲労で緊張も忘れてパッと振り向いた。

「これでいいのですか?」

後ろにいた月読命は、ゆっくりと頷いた。しばらく紫苑を放置していたが、効果を訝しむ視線に負けたのか、おもむろに口を開く。

「ここは僅かではあるが私の神気が流れているからしばらくしたら上げれば良い。」

紫苑はよかった、と言うようにほっと息を吐き出した。しばらくして、そういえば、とつぶやく。月読命が視線を向けて続きを促したので、一度口をつぐんだ後に口を開いた。

「月読命は男性だという話が多いのですが、なぜあなたは今女性の姿をしているのですか?」

月読命は紫苑から目を逸らし、しばらく木々の間からのぞく星を見ていた。紫苑は釣られて星を見た後、はっとした。

(まずい。聞いちゃいけないやつか?神の怒りはすごいとかいうし…やべぇ、どうしよう。)

一人で天罰にひやひやしながら悶々と謝罪の方法を考える紫苑を現実に引き戻したのは、月読命の声だった。

「これの父が私を間違った方法で祀っている。夜を司ることは変わらないが、月や星ではなく、闇を司るようにしている。これが教えられた舞も、闇を司るようにと考えられた舞だ。力を削がれて、本来の姿ではここに来られなくなってしまった。彼の監視を逃れるために、今私が扱える力の一部を姿を変えてここに送り込んだ。名前を呼ばれたら私がここにいることがばれてしまうから、月の君とでも呼んでくれ。」

紫苑は弾かれたように橡を見た。先程まで赤くなっていた頬はだいぶ色が薄くなっているが、いまだに辛そうな表情をしている。

「どうすれば…どうすれば、月の君を救うことができるのですか?」

月読命は、星から視線を外し、橡を見つめた。大切なものを眺めるような、優しい視線が紫苑を包む。

「それは、橡からすればとても辛いことになる。」

月読命は、その後しばらく黙った。紫苑が視線を外さないままじっと待っていると、目を伏せて答えた。

「橡が今まで一番多く触れてきた者。情がより多くある者。逆らえない者。彼女自身が、倒さなければならない。そして、彼女の舞を変えなければならない。」

紫苑は、はっと息を呑んだ。その言葉が示す者は、一人しかいない。橡を管理している者、とも言える。彼女に今の生活を強いている者、とも。

「そんな…」

紫苑は自分かと思って反射的に口を押さえたが、紫苑の声ではなかった。橡だ。二人は橡を見た。いつの間にか目を覚ましていたらしく、話を聞いて顔が青白くなっている。

「父上を、倒すの…?」

体が冷えたと言うわけでもないのに、体が小刻みに震えている。紫苑は青ざめて弁解をしようとしたが、月読命が遮って説明しようとした。

「お前の父はな、私を…」

「理由なんて関係ない!父上は、月読命に悪さをする人じゃない!」

橡の悲鳴に近い声が、月読命の声を遮った。月読命が驚いたように橡を見るが、彼女は唇を噛んでかけだしていった後だった。紫苑も、彼女の大声と語調に驚いて後を追えなかった。

 橡は山の頂上へと走っていった。月が一番綺麗に見えるので、彼女の一番のお気に入りの場所だ。しかしそこには先客がいた。

(父上、何をしているのでしょう?月読命のあの言葉を聴いた後では、顔を合わせづらいのに…)

橡が息を潜めていると、雅客の声が聞こえてきた。そっと耳を澄ませる。ぎりぎり聞こえる距離だ。

「月読命、着苦読命、着苦黄泉命…月読命、着苦読命、着苦黄泉命…」

全て同じ音ではあるが、繰り返すごとに妖気が漏れてくるのを感じる。言霊の影響だ。橡はサッと青ざめた。

(父上…まさか、あの禍々しい言霊で妖気を…?それに、父上が教えてくださったあの舞は…私の力が強くなったから、妖気が漂うようになったと…?そんな…)

橡がじっと見ていると、雅客は何かを取り出した。鳥の形をしているものが、赤黒く染まっている。かなり大きな鳥のようだ。そこまで考えて、橡ははっとした。

(鳥…まさか、父上が?今も血は溢れているように見えますのに…それに、まだ生きて…?)

橡の中から今までの信頼が消えていく。疑惑が溢れ出てきた。月読命がいっていたことが正しかったのにも関わらず、あろうことか話を遮って逃げてきてしまったことに後悔しかない。唇を噛んで見ていると、雅客の姿が変化し始めた。まるで皮を脱いでいるように。変化が終わった後、橡はひゅっと息を呑んだ。

(妖異!父上は、人間ではなかったのですか?嘘!)

橡は結局、雅客が去るまで見ていることしかできなかった。そしてその後橡は、いつもの寝所に帰らなかった。

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2024年12月4日 12:00
2024年12月11日 12:00
2024年12月18日 12:00

闇を切り裂く、光の雫 華幸 まほろ @worldmaho

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