一心不乱

 ガラリ、と稽古場の戸を開ける。雅客は腕を組んで橡を睨みつけていた。

「遅い。なにをやっていた。」

橡はぴくりと肩を振るわせた。カラカラ、と戸を閉めて素直に謝る。

「すみません。滝行に時間をかけすぎました。」

ふん、と鼻を鳴らす雅客は呆れているように見え、橡は目を伏せた。

「俯いている時間があるならさっさとやれ。時間が勿体無い。」

橡はこくりと頷いた。扇を手にとる。毎日触れている扇の持ち手は、汗で飴色に光っていた。

 ばん、と木刀が床を打つ。橡は舞をやめた。雅客から怒声が飛ぶ。

「そこはもっと滑らかに!その直前はもっとゆっくり!初めからやり直し!」

「はい!」

稽古を始めて数分もすれば、汗が飛び散る。それでも雅客はやめさせない。橡も、休憩を願い出ることはない。何度も木刀で叩かれる。しかし、それは骨が折れるほどではない。気遣われているのだとわかっている。

「あっ。」

しばらくして、汗がたくさん溜まっているところで橡は足を滑らせた。視界が傾く。

(頭をぶつけてしまう…)

頭の隅で妙に冷静にそう考えていたところで、体の動きがぴたりと止まった。上を向くと、雅客の顔がある。どうやら、後ろ側から支えられているようだ。

「危ないだろう。気をつけろ。」

雅客の手も借りて、橡は体制を立て直した。そして深く礼をする。

「はい。申し訳ありません。」

雅客はふんっと鼻を鳴らし、橡の足元を見る。そこでやっと汗で床が濡れていて滑りやすくなっていることに気づいたらしく、ため息をついた。

「拭いておけ。終わったらまた再開する。」

橡は頷き、家の中に雑巾を取りに行った。顔が少し赤いのは、動きすぎたせいだろうか。

(父上、こういう時だけはいつも助けてくれるんですね、相変わらず…)

口元に手をやって緩みそうになる表情を抑える。雅客にばれていないことを願いながら。

 橡は痛む体を引きずっていつも舞を舞うところへ向かった。昼間の稽古はかなり厳しく、何度も叩かれたので身体中にあざができており、何箇所か血が滲んでさえいる。

(痛い…でも、舞わなければ…清めの舞を…妖気が、漂い始めて…)

今にも倒れ込みそうな橡を支えたのは、紫苑だった。橡はそれにすら気づかずにうわごとのように繰り返している。

「おい!お前、何やってんだ!」

橡は眉を顰めている紫苑をぼんやりとした目で見ると、懐にある扇を確かめつつ紫苑から離れた。

「舞を、舞わないと…清めの舞を…妖気が…」

紫苑は途切れ途切れに話す橡を流石に不審に思い、額に手を当てた。そして目を見開く。夜なので見えにくかったが、よく見れば顔も赤くなっている。

「お前っ熱あるじゃん!なんで言わねぇんだよ!」

怒鳴る紫苑をぼんやりとした目で見ながら、橡はただ、舞のことばかり考えていた。

(熱…?それよりも、舞を…清めなくては…いけない、のに…)

驚愕の表情で橡を見る紫苑を傍目に、橡の意識はだんだんと闇に落ちていった。

「おい!死んだのか⁉︎いや、違うか、気絶したのか。ややこしすぎるだろ!ってかここで気絶すんじゃねぇ!どうすりゃいいんだよ、ったく…」

意識がなくなってさらにぐったりとしてしまった橡を腕で支えつつ、紫苑は一人でぶつぶつとどうするか呟いていた。混乱しているせいで家に連れて帰るという方法を思いつかなかった。

「それは妖気に当てられただけ。山の中に川があるから、そこの水につけよ。」

女性の声が聞こえて、紫苑は救いの手、とばかりにほっとし、パッと顔を上げて頷いた。

「はい。山の中の川…滝の近くですか?」

紫苑がこの山にあまり詳しくないので一部しか知らないのだと気づき、女性はくすりと笑った。

「あぁ。そこに行ってもらおうと思っていたんだ。源流に近いところがあるのなら、そこが良いんだよ。ほら、急いで。悪化してしまう。」

紫苑は再び頷き、橡を抱き直してお礼を言うために振り返った。満面の笑みを浮かべている。

「ありがとうございま…す?」

そこには女性がいた。もちろん、声が聞こえたから当たり前なのだが、足が少しばかり地面から離れている。紫苑の笑みが固まった。

「ゆっゆうれっ⁉︎」

驚きすぎてうまく舌が回らない紫苑を目を細めてしばらく見た後、女性はふっと口元を緩めた。

「私はここで祀られている月読命の一部。と言っても、あやつのせいで力がだいぶ削がれたが…これは私を祀っているのだ。こやつが倒れれば元も子もない、さっさと運ばぬか。」

緊張して動きがおぼつかない中、紫苑は必死に腕を動かして橡を抱き上げ、カクカクと滝へ向かった。返事を忘れてしまったせいで月読命が少しだけ不機嫌になったが、それにも気づかなかった。

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