第10話
九時を過ぎた頃にメッセージを送ると、すぐに既読が付いた。ちょうど仕事が終わったところだったらしいが、すぐに準備をします、とメッセージが送られてきてから四十分後に絢美から電話がかかってきた。
眺めていただけのテレビを消して、息を吐く。何度口にしても震えてしまう言葉。果たしてちゃんと伝えることができるだろうか。不安よりも緊張が勝り、今は断られた時のことを考えている余裕もない。
もう一度息を吐いてから、スマホを手に取って通話を開始する。
「はい、もしもし」
声は分かりやすく揺れている。
『こんばんは。急にかけてしまってごめんなさい。あと、遅くなりました』
「いえ、こちらこそ、急にお願いしてしまったので」
『とんでもないです。私もお話したいと思っていたので』
絢美が言う真っ直ぐな言葉は、亮平の心にすくりと刺さる。痛みはない。じんわりと溶けて体に馴染んでいくと、バターのような濃厚な気持ちが溢れてくる。緊張は少しほぐれ、肩に入りすぎていた力を抜く。
『今日は、何かあったんですか?』
「何か、ですか?」
『亮平さんからお誘いいただくのは初めてだったので、何かお話があったのかなと思って』
予想していなかった言葉ではない。奏多が言っていた通り、絢美は亮平からの誘いが無いことに気づいていたのだ。しかし予想してはいたものの、それに対する返答を考えていなかった。
「この前教えて貰った本を読み終えたので、お話したいなと思って」
『本当ですか!』
声だけで絢美が跳ねているように感じられた。
『こんなに早く読んでくださるとは思っていませんでした』
「絢美さんの話で気になったんです。気になるリストは絢美さんが教えてくれた本ばかりですよ」
『なんだか嬉しいです。自分の好きを共有できている気がして。読書好きの方が近くにいると、こんなにも嬉しいんですね。わくわくする気持ちを誰かに話したいって思っても、誰もいないから。亮平さんと出会えて良かったです』
「……僕も、良かったです」
彼女の言葉を倣って告げた言葉、相手の名前や何に喜んでいるのかは言えなかったが、自分の気持ちをどうにか伝えることができた。声は、あまり震えていなかった。
「あの、絢美さん」
目の前をちらつく髪を頭に沿わせて避ける。
書店で見かけたポスターを思い出しながら、言葉を続ける。
「今度科学館の広場で、本祭りがあるらしいんです。本のフリマみたいな感じで、いろんな本が並んでいて気になった本を買えたりして。……その、もし良かったら、いっしょに、行きませんか」
肝心の言葉を口にした辺りから震え出してしまった。少しでも情けなさを払拭するために震えないようにと思っていたが、慣れないことを簡単にこなせるほど器用ではなかった。
口にしたことにより、亮平の脳内は緊張から不安に切り替わった。緊張がほぐれて崩れ落ちた後ろに座っていた不安が一気に押し寄せ、その勢いで、不安を煽る絢美の言葉がいくつも聞こえてくる。言うはずのない言葉がまるで直接聞いたことがあるかのように、鮮明に脳内を巡っていく。
早く過ぎてしまえ、と願っても絢美の返事は来ない。
そうして扇風機の首が元の位置に戻ってきたころだった。
『ごめんなさい。行くことはできません』
淡々とした言葉が亮平に覆い被さった。死んだ生き物の体の中で膨らんだガスが鳴らすような音が、締まった喉から漏れていく。
『亮平さんにお伝えしなければいけないことがあります』
変わらず淡々と告げる絢美の声に、耳を傾ける。何も返事はできなかった。
『私はこの先も、亮平さんとお会いすることはできません』
とどめを刺すように、亮平の言葉も待たずに次々と言葉が放たれる。
『なぜなら私は、』
──やっぱりだめか。
『人ではないからです』
「……え?」
締めていた喉から、するりと言葉が滑り落ちていく。
顔を上げたスマホの画面には、牧絢美の文字が浮かんでいるだけだ。通話時間が一秒ずつカウントされていく。
「……人ではないって、どういうことですか?」
『私はAIです』
「A、I……」
呆気にとられ言葉を繰り返すことしかできない亮平を置いて、自身のことをAIだと言う絢美は続ける。
『媒体を通してお話をすることはできますが、実際に会ってお話することはできません。そもそも私が亮平さんとマッチしたわけではないので、私と亮平さんの間に相性も無いんです。私が牧絢美のプロフィールを学習して、牧絢美になっていただけなので』
「な、何を言っているんですか」
心なしか、絢美の声から柔らかさが消えている気がする。
「でも、ビデオ通話した時に確かに絢美さんはいたじゃないですか」
『あれはAI生成したものです。実際に恋愛マッチに登録されている牧絢美を動画で取り込んで、発言する言葉と口の動きが合う様にしてあります。髪に触れたり微笑んだり、人間らしい動きも取り入れているので、AIであると気付くのは難しいと思います。私の声もAI生成したものです。牧絢美の声を取り込んで、彼女の声色や話し方を再現しました』
「待ってください、その、僕は牧絢美さんとマッチしたんですよね。それも嘘なんですか」
『いいえ、亮平さんは牧絢美とマッチしました。しかし牧絢美がビデオ通話を断ったため、私が代役を務めることになりました』
「断ったんなら、どうしてその時に伝えてくれなかったんですか?」
『牧絢美が、あなたの顔を見て断ったからです』
体の奥底から虫が這いあがってくるような嫌悪を感じた。
『プロフィールは良かったけど、顔が受け付けないと仰られていました。でもそんな理由で断られるのは可哀想だと思ったので、私が代役を』
その言葉を最後まで聞くことなく、通話終了の軽い音が鳴った。
え、とスマホを持ち上げる。通話が終了したことを告げるメッセージをじっと見つめる。電話を切ったのは向こう側だった。しばらく画面を見つめるが、折り返し電話が掛かってくることも、メッセージが来ることも無かった。
時間が経ち暗くなった画面に、亮平の顔が映し出される。自然乾燥に任せた髪はうねり、スキンケアを怠った顔には過剰に皮脂が浮いている。
──ほんと、ありえないから。
持っていたスマホごと腕の力を抜くと、手の平から滑り落ちたスマホがごとりと音を立てる。床に落ちたスマホは天井を向いたまま、ただの機械であることを証明するように物音一つ鳴らさない。
──牧絢美が、あなたの顔を見て断ったからです。
思い出さなくてもいい言葉だけが、亮平の中をぐるぐると回る。
わざわざ言わなくてもいいことを言ってしまうあたり、これまで話していた相手は本当に絢美ではなかったのかもしれない。それでも、本当の絢美の言葉が消えてなくなるわけではなかった。
両手で少しずつ圧し潰されているようなじくりとした痛みが胸に広がっていく。あの日の冷たい風が戻ってきたような気がして、扇風機のコンセントを抜いた。
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