第6話


 エルからの不在着信に気づくことができず、スマホにはメッセージだけが残されていた。

『今度東京に行くことになったよ!』


 エルのセンター試験が終了し、合格発表を待つ落ち着かない日々の中だった。大学に合格していても落ちていても上京することになったエルは、両親と共に部屋を探しに東京へ来ることになったそうだ。


 メッセージを受けて返事をすると、すぐに既読が付いた。

『ロムくんに会いたいな』

 どの辺りにする予定なの、という亮平の質問に対する返答ではなかった。しかしそれは確実に亮平の胸を突き刺して、息が詰まるような感覚にさせた。


 小さくてふわふわとした可愛らしい、大きすぎる袖を揺らしてくすくすと笑うエルが、亮平の脳内でくるりと回る。

 スマホ越しで会話するだけだったエルに会えると考えるだけで、体中が熱を持ってうずいてきた。親指が震えて、すぐに文字を入力することができない。


『いいよ。会おうか』

 精一杯、入力できたのはそれだけだった。

 エルの返事は早く、今家族と買い物に来ているから夜に電話することを約束してひとまず終了した。


 亮平の脳内から、エルが離れなかった。両親と一緒に来るため、それほど長い時間一緒に入られないだろう。それでも、たった数分でもエルと会うことができればそれで良かった。亮平の中にいるエルは想像でしかない。エルという形をしたそれが、ようやく本物の形をして亮平の中に現れるのだ。喜びと共に不安もあるが、誰が見ても喜びの方が強かった。


 落ち着かずにSNSを眺めていると、エルのつぶやきが更新される。

『楽しみが増えて嬉しい』

 SNSでは素っ気ないエルの言葉。亮平には、文末にハートマークの付いた絵文字が付いているように見えた。


 エルが東京で暮らすようになったら、きっと会う頻度も増えるだろう。どこへ行こうか、何をしようかと胸を躍らせながら計画する日々が続いていく。勉強が疎かになってしまうのではないかと思ったが、頬が緩むばかりでそれを悲しんでいないと自分で気づく。試しに参考書を開くと文章がすいすいと脳内に入り込んできて、あっという間に数ページを済ませられた。どうやら心配はないようだ。


 ペンを置き、自分の手のひらを見つめる。肉の付いた丸々とした手。エルの手がここに重なることを想像する。小さな手が重なる、その手を包み込むようにそっと閉じると、指の隙間にエルの指が入り込む、その感覚を想像し、天井を見上げた。


『楽しみだなぁ。私そもそもゲームで知り合った人と実際に会うの初めてだから、どきどきする』

 センター試験が終了したため、電話の向こうでエルが勉強することはなくなった。恋人としての時間を多く過ごし、高校時代には感じられなかったときめきに胸を高鳴らせないわけにはいかなかった。


『実際に会うんなら、お互いの顔を知っておいた方が良いのかな? そうじゃないと見つけられないよね』

 写真あったかなぁ、と画面をスワイプする音がして、亮平は慌てて返事をする。

「服装や髪型を事前に伝えておいたら、見つけられるから大丈夫だと思うよ。見つけられなかったら電話をすればいいし」

『確かに、そっか!』


 冷や汗が滲む。それでもと言われてしまえば写真を送らなければならない、下手に拒否すると相手に不信感を植え付けてしまうことになるため、素直にエルが頷いてくれたことに心底安心した。


 通話が終わった後、暗いスマホ画面に映った自分が目に入る。お世辞にも整った顔とは言えない。むしろブスだと言われることが多かった。

 そんな顔を見せて、やはり会わないと言われてしまうことが怖かった。

 正直に言わないのは騙しているようだが、醜い顔を隠してでも、エルに会いたかった。


 そんな不安のせいか、エルと会う日はすぐにやってきた。

 エルとの約束の時間は午後六時。既に日は落ち、街頭やビルの明かりが煌々としている。十分前に到着するよう用意をしていたが、家を出た頃に『早いけど着いちゃった』とメッセージが来ていた。亮平は走って駅に向かった。


 冬だが、着こんでいるため汗がにじむ。電車の中で息を整えようとするも、暖房の効いた車内では汗はひいてくれない。タオルで顔を拭いて体裁だけ整えると、到着した電車から飛び降りて改札へ走った。いくら雪は降っていないと言えど、この寒い冬空の下、女の子を長く待たせるのは心苦しかった。指先を赤くして亮平を待つエルの姿を想像するだけで、運動不足の体もある程度は動いている気がする。


 階段を駆け上がり、改札を通り駅を出る。肌を刺すような風が顔に当たり、乾燥したように肌がひりと痛む。

『今着いたよ。どこにいる?』

『自動販売機の横にいるよ!』


 駅から出てしばらく歩き、亮平は振り返る。駅の出入り口近くに設置されている、明かりを放つ自動販売機、その少し離れたところに、一人の女性が立っているのが見えた。


 長い髪をまっすぐに下ろし、ニット帽を被っている。薄茶色のコートから伸びる足は細く、すらりとした体が目を惹いた。スマホの明かりで照らされた顔は大人っぽく、うっすらと化粧で整えられている。

『ニット帽かぶってる?』

『かぶってるよ!』

 他を見回してもニット帽を被っている人は見当たらない。彼女がエルだ。想像よりも大人びていたエルに困惑したが、しかし確かにそこにエルがいるのだと思うと、自然と息が上がった。


 あの子がこれまで一緒にゲームをしてきたエル。好きだと言ってくれたエル。会いたいと言ってくれたエル。彼女の姿を見つけた途端、心拍数が上がっていく。このまま彼女に駆け寄って抱きしめてしまいたい。目まぐるしく回る思考に視界が歪んでいくが、エルの姿だけははっきりと見え続けた。

「エル!」

 彼女の顔がはっきりと見えるようになったころ、名前を呼んだ。


 スマホの画面を落として顔を上げたエルは、ロムくん──亮平を見つける。

 笑みを浮かべようとしたエルの顔が、硬直する。

 それを見てしまった亮平は足を止め、エルと距離を保ったまま、声をかけた。


「……あ、ごめんね、待たせて」

「……」

「男ならもっと早くについていた方が良かったよね、はは、十分前に着くんじゃ遅かったね。つ、次からは気を付けるよ」

 冗談めかして笑ってみたが、声は乾いている。エルが笑っていないのを見て、亮平の笑いも消えてしまった。沈黙が走る。


「……本当にロムくん?」

 黙ったままだった彼女が口を開く。それはこれまでずっと聞いてきたエルの声で、彼女が確かにエルであると感じることができた。しかし彼女が放つ目の鋭さは、亮平が想像していたものと全く違う。

「そう、だよ」

「……ありえないんだけど」

 放たれた言葉は、ピンク色に染まった唇からは想像できないほど冷たかった。痛みさえ感じられるそれは、冬の風に勝る。彼女が氷山そのもののように思えた。


「全然想像と違う……」

「か、顔を知らないまま話しているんだから、当然だよ。想像はエルの理想だろうから……」

「なんか、声も違うくない?」

「それは、音質とかもあるし、今は走ってきたから息が上がってて……」

「私の知ってるロムくんはもっと優しい声だもん。こんな……こんなおじさんじゃない」

「いきなりそんなことを言われて優しい声なんて出せない」

「普段から優しい声なの。やっぱり声作ってるんだ」


 はあ、と分かりやすく大きなため息をついた。冬の風が喜びそうな空気の中、亮平はただ立っていることしかできない。何を話してもエルの琴線に触れてしまいそうで、恐ろしかった。何でも受け止めてくれるような柔らかいエルはここにはいない。触れるだけで割れてしまいそうな風船のようだった。


「……もういいや。私、帰ります」

「でも、せっかく会ったんだし」

「約束は、会うだけだったから。お母さんとお父さんが待ってるから」

「エルは、僕のこと好きじゃなかったの⁉ 顔で判断するの⁉」


 無理矢理去ろうとするエルを言葉で引き留める。一歩近づいた拍子に彼女が体を縮こまらせたのを見て、亮平の足は止まった。鏡に映った自分の顔がフラッシュバックする。

「……ロムくんのアバターが好きだった」

 スマホの明かりが彼女の顔を照らす。

「ゲームが上手くて勉強もできて頼りになるとは思った。でも、最初に好きになったのはロムくんのアバターだから。……ほんと、ありえないから」


 それだけ言い残すと、彼女は背を向けて駅の中へ入ってしまった。

 辺りを照らしていた街灯が寿命を迎え、地面に落ちていた亮平の影が消えた。

 一か月後、SNSでエルが大学に合格したことを知った。祝福の意味を込めてハートマークを送ると、次の日からエルのつぶやきはこれまでのものも含めて見られなくなった。


 現実逃避をするように就職活動を始め、ゲームもSNSからも離れていった。今でも、それらには触れられていない。


 あの頃毎日向き合っていたパソコンの電源を付けることはほとんど無くなった。たまに終えられなかった仕事を持ち帰って自宅でするとき以外は、画面は真っ暗なままだ。

 輝いていた世界は、闇に落ちてしまった。

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