第5話
──ロムくんって、すごく物知りなんだね。
新調したばかりのヘッドセットから聞こえる声は、以前よりクリアに聞こえた。ノイズも少なく、音量の微調整もしやすい。値は張ったがレビューの高いものを選んで良かった。
『学校でも成績悪くて、全然勉強できないの。だから難しいこととか分かんなくて。ロムくんに聞いたら何でも答えてくれるから、これから頼りにしてるね』
そんなことを言われて浮かれていた亮平は、『もちろん』なんて澄ました声色で返事をしていた。
キーボードとマウスの音が響く暗がりの部屋。パソコンが放つ光を真正面に受けながら、ヘッドセットから聞こえる小さな音に耳を澄ませる。音を聞き逃せば命取りとなるパソコンの向こうの世界と、影にもなれない大学生としての現実を行き来していた頃は、これまでで一番生き生きしていたように思う。
あの頃がきっとピークだった。
「興味を持って知りたいって思えば自然と知識が付いてくるよ。エルは今、何か気になっていることは無いの?」
『うーん……ゲームもっと上手くなりたいなとは思うなあ。いっつもロムくんに迷惑かけちゃうから、もっと上手くならないと釣り合わなくなっちゃう』
「迷惑だなんて思ってないよ。初めは誰しも下手だから。僕も最初は目も当てられないくらいで、チームメイトに迷惑ばかりかけていたから。僕で良ければ、いつでも教えてあげるよ」
『ほんと? ……これまでチームを組んだ人は、そんなこと言ってくれなかった。ロムくんは優しいんだね。ありがとう』
「分からないことがあったらいつでも聞いてね。作戦立てとか相手の戦略を読み取る勉強になる動画があるんだけど、良かったら教えようか?」
『いいの? 知りたい!』
「じゃあ動画を送るから、……──」
さりげなく連絡先を交換することができたあの頃は、無敵だったのかもしれない。名を口にすれば感嘆の声を漏らされるような有名大学に合格し、単位も余裕で取得した一年の冬。しばらくゲーム三昧の日々を送ろうと始めた矢先に出会ったエルは、二歳年下の高校生らしかった。
もっと上手になりたいと意気込んだエルと共に練習を毎日欠かさず行った。時には学校をずる休みしてまで特訓を重ねたエルは、人前に出せる程度には上達し、その後もめきめきと腕を上げた。
しかしそれから数カ月もすると、エルはゲームにログインしなくなった。
『私、そろそろ勉強をしないといけないから、ゲームできなくなっちゃう』
ヘッドセット越しでもエルの声色がいつもよりも下がっていることに気が付いた。
『受験があるんだ。お父さんとお母さんに大学に行きなさいって言われてるから、ちゃんと勉強しないと』
「エルは進学したいの?」
『勉強は好きじゃない。でも、大学に行った方が自分のやりたいことの幅が広がるから。私はまだやりたいこととか夢とか無いけど、大学に行ってゆっくり探しなさいって』
「そっか。ならちゃんと勉強して合格できるようにしないとね」
『合格するまではゲームできなくなるの。だから、ロムくんとも遊べない。ごめんね』
「ううん、それはしょうがないよ。ちゃんと勉強して、いい大学に行けるようにね」
『……ロムくんって、どこの大学行ってるの?』
「僕は──」
『ええ⁉ すごく賢いところだよね? ロムくんって本当にすごいんだね』
「そうだ。勉強で分からないところがあったら教えてあげるよ。前に交換した連絡先にメッセージくれたら返事する。メッセージでも通話でもなんでも大丈夫だから」
『本当に? ロムくんって本当に優しい。頼りになるなあ』
「エルよりもお兄さんだからね。うんと頼りなさい」
『はーい! お兄さん頼りにしてます』
聞き慣れない〝お兄さん〟という響きに、頬の緩みを抑えられなかった。
目の前にあるのはモニターで、うさ耳を付けた三頭身ほどのキャラが、亮平が操るアバターの周りをくるくると回っている。それと同時にヘッドセットからはマウスとキーボードの音と共に、エルの楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
それから間もなくエルはログインをしなくなり、最終ログイン日から数字が大きくなっていく。エルは本当に亮平に電話をかけてきたし、亮平も約束通り勉強を教えた。高校レベルであれば悩むことなく答えを導き出せる。エルの問いに間を開けずに解説を入れると、
『もう分かるの? 覚えてるの?』
と、困惑の混じった声が聞こえてきた。
「分かるよ。高校生の時に勉強したから」
『でも、高校生の時って二年前だよね? 忘れちゃわない?』
「大学でも使うんだ。だから忘れることは無いよ。高校の勉強が大学でも活かされるから」
『そうなんだ。じゃあ、ちゃんと勉強しなきゃね』
スマホの向こうから、ノートを走るペンの心地良い音が聞こえてくる。いつもはゲーム上の通話機能を使って会話しているが、勉強を教える時は交換した連絡先を使用するため、スマホで電話をしている。少し音質は悪いが、ベッドに寝転びながら聞くと心地良い胸の高鳴りを感じられて、眠ってしまいそうになる。
部屋の明かりを落として、スマホから聞こえる音に耳を傾ける。ひとりごとのようなくぐもった声が時折聞こえる。口元に手を当てて考え込むエルの姿が想像できて、このまま夢を見てしまいそうだ。
一度も会ったことのないエルの姿を想像できるなんて、可笑しな話だ。エルのアバターからイメージして組み立てられたエルの中の人は、小さくて女の子らしくて、まるでアニメから飛び出してきた妹のようだ。可愛い妹のためなら何でもしてやる、という兄の気持ちが身に染みて分かる。
『聞いて! この間の模試で、B判定貰ったの!』
亮平の中で飛び跳ねて喜ぶエルに拍手を送る。
「すごい! 今の段階でBなら、もっと頑張ればA判定まで行けそうだね」
『うん! ロムくんが教えてくれたおかげ! 本当にありがとう!』
いつもならメッセージを一言入れてから掛かってくるはずの電話が急にかかってきて、亮平の心臓は不規則に跳ねている。急にかけてくるなんて相当の用事、勢いで掛けてくるほどの大きな用事に、亮平は胸を高鳴らせていた。
『お父さんとお母さんも凄いねって褒めてくれてね! 明日家族でお寿司を食べに行くの』
「いいね、たまにはちゃんと休まないと体が疲れちゃうから」
『うん! 私、サーモンが好きなんだぁ、いっぱい食べなきゃ!』
張り切るエルの声はいつもよりも大きくて、袖を振り回しているのか何かが風を切るような音が時折聞こえてくる。
「そういえばエルはどこの大学を目指しているの?」
そう質問をすると、スマホの向こうの音声が聞こえなくなる。電波が悪くなったかなと確認するが問題は無く、どうやらただエルが静かになっただけのようだ。
『……えっとね、前にロムくんが通ってる大学、教えてくれたでしょ? ……そこに行きたいなって』
「……僕と同じ大学?」
間を開けてから、うん、と頷く声がした。名前を出せば誰もが凄いと言う有名大学だが、その分合格率は低く難易度は高い。勉強が苦手だと言ったエルが目指すには難しいはずだが、実際にエルはB判定を貰い、合格圏内にいる。
『ロムくんと同じ大学が良いなって思ったから。同じ大学だったらもっと勉強教えて貰えるし、ゲームも一緒にできるから』
「……そんなに僕と一緒が良いの?」
『だってロムくん、物知りだし頼れるから。私一人暮らしすることになるけど、困った時に頼れる人がいた方が安心するし』
「そんなことないよ。エルよりも年上だから、そういう風に見えるだけ」
『ううん、違うよ! ちゃんとカッコいいよ!』
「……カッコいいの?」
聞き返すと、どうやら口を滑らしてしまったのか、あ、と言葉を溢したようなエルの声が聞こえた。
ベッドが軋まないようゆっくりと体を起こし、スマホを持ち上げる。強い明かりを顔面に受けながら、浮かび上がる名前を見つめた。
「……〝寿梨〟」
エルの本当の名前を口にする。
慌てふためく声が聞こえ、何かを落としたような物音がスマホから鈍く聞こえた。え、え? と問いかけるようだったが、亮平はただ画面を見つめた。静かに待っていると、その意味を汲み取ったのか、スマホの向こうのエルはゆっくりと口を開く。
『…………カッコいいよ。ロムくんのこと、好きだもん』
ごもごもとした声だったが、はっきりと聞き取れた。布と布の擦れる音が聞こえ、どうやら落ち着かずに何度も座り直しているようだった。スマホではなくヘッドセットで聞きたかったと悔やみながら、亮平は奥歯を噛み締める。勢いよく吐き出そうとする息を何度も飲み込み、呼吸を落ち着かせる。しかし心臓の鼓動と呼吸が噛み合っていないため、酸欠で顔が燃えるように熱くなった。不可抗力の呼吸を手で押し殺す。
『ロムくん……?』
不安げなエルの声。亮平は大きく息を吸い込み、取り込んだ酸素をゆっくりと溶かしながら、言った。
「じゃあ、付き合う?」
叫び声にも聞こえるエルの声の後に続いた、いいの⁉ という返事を受け、亮平とエルの交際が始まった。
出会ってから十カ月が経った、もうすぐ雪が降ろうかとしている頃のことだった。
付き合ったからと言って亮平とエルの日々が大きく変わったかと言えばそうではなく、エルが受験生であることは変わらないため、勉強を教える夜が続いていた。せっかく貰ったB判定を無駄にしないために、以前よりも増してエルは勉強に打ち込んでいる気がしていた。
合格すれば同じ大学、それがエルを突き動かしていたのだろう。
夜の十二時を回ると翌日の学校のためにエルは眠ってしまう。
『もうそろそろ寝るね。今日もありがとう』
「ううん、お疲れ様。明日も頑張ろうね」
『うん! ……ねえ、ロムくん』
いつもならそのまま通話終了となるはずが、エルから名前を呼ばれる。ん、とスマホを耳に充てると、
『大好きだよ』
と、囁くような掠れた声が、亮平の鼓膜を突き刺した。脳の中心まで届いたその声に一瞬眩暈を覚えたが、かぶりを振って姿勢を正す。
「僕も大好きだよ」
そうして愛を伝えあってから通話を終了する夜に変わり、亮平の緩む頬を抑えるのに必死だった。
勝手に上がってしまう口角を隠すように口元を覆い、スマホの画面を落とす。
スマホに写った自分の顔に、高鳴った胸が一気に沈んでしまう。ときめきのとの字も感じられない弛んだ顔。顎のラインは何周にも膨れ、固まった脂肪はいくら燃焼しても取れる兆しがない。開ききった毛穴まで見える始末だ。
亮平は重ねた布団にスマホを投げつける。潜り込んだスマホから通知音が聞こえたが、枕で覆い隠した。スマホを持ち上げた途端、その向こうにいるエルにこの顔が見られてしまうような気がして恐ろしかったのだ。いつまでも隠し通すことのできることではないと分かっているのに、浮かれた日々に盲目になっていた。
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