第3話
一週間後の今日は雨が降っていて、どんよりとした空気が街を包んでいた。高い空もいつもより低い気がして、街が小さくなってしまったような感覚を抱きながら、目的の事務所へ向かっていた。
久しぶりに着たスーツは再びクローゼットに仕舞い、今日はカジュアルフォーマルな服装を選んだ。スーツほどぱきっと堅苦しくはないが、清潔感の感じられる格好の方が相応しいのかもしれない、とこれまたクローゼットから引っ張り出してきた服だ。
「太田さん、何名かマッチした方がいらっしゃいましたよ!」
ファイルを抱える萩原の明るい声が廊下に響く。他の利用客が後ろにいたため、亮平は大声で言われると恥ずかしくなり、慌てて「部屋で聞きます」と、急かした。もしかしたら早く詳細を聞きたくてうずうずしているように思われたかもしれない。
白いブラインドは閉められ、代わりに蛍光灯が部屋を白く明るくしていた。
そそくさとソファに腰掛けた萩原はファイルに挟んだ用紙を数枚取り出し、机に並べる。
「どうしても私では絞り切れなかったので、ここからは太田さんと一緒に考えていきたいと思います。どの方も芯のある方で、素敵な方ですよ~!」
どうやら相性の高い三名と面識があるようだ。萩原が担当している利用者もおり、中にはすでに半年以上の付き合いの人もいるらしい。
一通り三名のプロフィールを確認した。三人ともびっしりとプロフィールや性格などが書かれており、萩原の仕事ぶりが窺える。
共通していたのは、三人とも一流企業に勤めるバリバリのキャリアウーマンであるという点だ。
「金銭感覚のすり合わせは大切です。太田さんは年収は高いですがお金を必要とする趣味などはなく、余計なことに使わないため貯金型、でも他人と合わせることや金銭感覚のずれには対応できる方だと思います。一方でこのお三方は、身だしなみや容姿を整えるために美容代や洋服代、食事代に多くのお金を使われます。このような方に年収の低い男性を宛がうと、金銭感覚のずれでストレスになります。男性としても、お付き合いしている方よりも年収が低いのは少し肩身が狭いと感じられる方が多いんです。だから、太田さんの相手は年収の高い女性が良いかと思いました」
これは将来安心ですね! と笑みを浮かべる萩原からは爽やかさが感じられた。お金の話をされるとどうしても卑しさが生まれてしまうものだが、萩原からはそれが一切感じられなかった。
「この方は今副業をされていて、後々はこちらを本職にしたいと考えられているそうです。転職希望があるんですね。その場合は今と年収が変わります。彼女の副業からすると、おそらくですが年収は下がります。お金よりも自分のやりたいことを優先したいという方なので、太田さんと金銭感覚が一番近いのはこの方かもしれませんね」
プロフィールを眺めながら、萩原なりの意見をつらつらと告げていく。仕事とはいえ、現在恋愛マッチに登録している十四万五千人の中から相性のいい人を絞り出すのは途方もない作業に思える。仕事だからと割り切れるのかもしれないが、仕事であってもこなしきるのには労力が必要になる。
仕事には当然向き不向きがある。萩原にはこの仕事が向いているのだろう。
「休日の過ごし方で言うと、この方が一番合っていますね。昼まで寝ていることが多い、できるだけ外には出たくない。普段は丁寧な暮らしを心掛けているけどそれは仮初の姿で本当は好きな時間に起きて好きなことをして好きな時間に寝たい、とご本人様は仰っていました。この方には自分の素を見せられる人が良いでしょうね。今の生活では到底相手を見つけられないから恋愛マッチ、これはナイス判断ですね」
そんなところまで話してしまって大丈夫なのか、と少しだけ心配になる。
萩原と話し合いを重ねた結果、亮平は三枚並べられた内の、真ん中の女性を選んだ。牧絢美。現在副業をしていて転職希望のある女性。
バリバリのキャリアウーマンは仕事の意欲が高く、このまま昇って行ければ亮平の年収をすぐに超すことが予想できた。自分の方が年収が高い方が顔の悪さを補うことができるかもしれない。相性が良かったとしても、自分の不甲斐なさにネガティブなってしまいそうだった。
生活リズムが一致している女性は、それこそ亮平にとっても付き合いやすい人となりそうだが、怠惰さが気になった。もし年収の高い亮平と一緒になった途端仕事を辞めて家に引き籠るようになったら、亮平はそれに対して自分の意見を言うことができるだろうか。きっとできない。ただ不満を抱きながら彼女を養っていくことになるだろう。
それらを踏まえると、残っているのは牧絢美しかいなかった。転職をしたいと考えているということは仕事に対する意欲が少なからずあるということ。亮平よりも年収が低くても自分なりに努力して多少なりとも稼ぎが得られるのなら、養い甲斐が生まれそうだ。
総合判断で、亮平は牧絢美を選んだ。
「いいですね。スムーズに決まって良かったです!」
萩原は他二名のプロフィールをファイルに戻す。
「ここで時間の掛かる方が多いんですよね。こういうの慣れているんですか?」
女性への分析に慣れていたら、今ここには来ていないだろう。そもそも字面から慣れたくはないものだ。
「いえ、そういうわけでは」
「まだお時間もありますし、いまから牧さんに連絡とってみますね! もし都合が合えば、一度話をしてみましょう」
亮平の返事も待たず、萩原は部屋から出て行ってしまった。
一人きりになった部屋で、亮平は体の力を抜いてソファに体を持たれかける。もしかしたら今回マッチした人と会話するかもしれない、と実際に言われてはいたものの、いざその時が近づいてくると焦りのような胸の騒ぎで体が苦しくなる。
恋愛マッチのサイトには、相手と出会うまでの基本的な流れが記載されている。一回目は利用者のことをよく知るために対話を行い、二回目で相性の良い人を確認し、その中から選ぶのは会社側ではなく利用者側である、と。そして、その際の注意書きとして、『相手の顔写真は見せない』と書かれている。
相性の良い人とマッチすることが目的であるためではあるが、どうにもそこだけが不安でならなかった。
顔が好みじゃなかったからと振られた亮平からすれば、それは過去のトラウマの再来でもある。相手との会話は、まずビデオ通話で行われる。写し出された顔を見て、また顔で判断されてしまったら、という不安はぬぐい切れない。
恋愛マッチは中身を重視して相手と巡り会うことをコンセプトとしており、CMなどに使われているキャッチフレーズは、『目に見えない恋をしよう』。顔ではなく中身を意識して恋愛をしていくことをモットーとしているため、顔にコンプレックスを抱いている亮平が惹かれたのはその部分だった。
これなら自分も乗り越えられるかもしれない。恋愛マッチの利用者は亮平と同じような希望を抱いて、恋愛マッチの事務所を訪れるのだ。
二十代後半を迎え、学生時代の同級生が結婚や出産など、次のステップに進んでいく中、亮平は穴から抜け出すことができないでいた。気づけば穴の周囲には誰もいなくなり、穴から出るには自分で這い上がらなければならない。誰も助けてくれない、それが亮平を突き動かす現実だった。
奏多が登録してくれた恋愛マッチが、亮平に最後に差し伸べられた手だとしたら、それを掴まざるを得なかった。いつまでも穴の中にいるわけにはいかない。将来に対する漠然とした不安から抜け出すために、亮平は覚悟を決めたつもりだった。
きっと大丈夫だと自分の気持ちを宥めようとするが、言葉一つで簡単に収められるものではない。亮平は深呼吸をして、牧絢美のプロフィールに目を通して待っていた。
廊下から軽快な足音が聞こえ、勢いよく扉が開かれる。
「太田さん、マッチしましたー!」
萩原が拳を突き上げた入室してくる。
「相手もちょうど別の恋愛マッチの事務所にいるらしく、ぜひお話したいと仰られています! 通話室が開いているので、そちらへ移動しましょう!」
まるで自分のことのように言い放つ萩原に引っ張られ、別室へと移動する。
正面の壁にスクリーンが張られており、そこには白い壁が映し出されている。画面の端には別窓があり、そこに近づいてくる亮平の姿が映し出される。どうやら相手に見えている映像が画面に映し出されているようだ。
「ささ、こちらへ。この椅子に座ってください」
案内された椅子に腰を掛ける。
「相手に会う前に身だしなみです。こちら鏡、顔のコンディション整えますか? あぶらとり紙はこちら、櫛もあります。上着のボタンは一つだけでも止めておいた方がきっちり見えるかもですが、止めなくても程よいラフさが出ていいかもしれないです。他に何か欲しいものは?」
手渡された物を両手に抱え、「いえ、大丈夫です」と告げる。こんなに一度に渡されても手が足りない、と思いつつ、鏡を見ながら身だしなみを整える。
ある程度整え終わり、萩原にそれらを手渡した後、彼女は部屋から出て行こうとする。
「初回は大体三十分くらいですので、あまり気を張らず。自分らしくいることが大切です」
「は、はい」
頑張ってくださいね! と、扉が閉まって見えなくなるまで彼女は手を振っていた。
一気に静けさの増した室内、亮平はスクリーンに向き、椅子を座り直す。端に自分の姿が映っているということは、相手にはもうこの映像が見えているのだろうか。だとすると、相手には既に亮平の顔が見えているということ──、そう思うと途端に体が強張ってくる。写っているのは上半身だけが、足の指先まで力が入る。
自分らしくいることが大切。
萩原の言葉を思い出して深く息を吸い込む。やはり心臓は落ち着かないが、それでも相手が写し出されるのをただただ待った。
スクリーンの映像が乱れる。一度真っ暗になってから再び白い壁が写し出されると、小さく女性の声が聞こえてきた。物音が聞こえて数秒後、画面の端から一人の女性が現れた。
『ごめんなさい、電波が悪くて手間取ってしまいました』
少し画像は乱れているが、相手の姿はしっかりと見ることができた。
真っ直ぐな黒い髪を揺らしながら現れた女性は、少し困ったように眉をひそめながら椅子に腰かけた。切りそろえられた前髪を整え、ふうと息をついている。幅の広いストライプ柄の入ったノースリーブのシャツに、ハイウエストの黒いスキニー。彼女の細い体躯をはっきりと見せる服装は、普段から服装に気を遣っているという印象を感じられた。手入れされた髪を肩の後ろに下ろすと、黒髪は艶やかに煌めく。白い壁がよりその黒さを際立させていた。
『初めまして。牧絢美です』
頭を下げると、先ほど肩の後ろに流した黒髪がシルクのような質感を見せながら落ちてくる。瞳が大きく、二重幅が広い。陶器のような白い肌は生まれたての赤子のようで、しかし光を受けて艶めく肌には大人の身だしなみ程度に化粧が施されている。画面の向こうにいる彼女は想像以上に柔らかく、淑やかな印象が強くなった。
『あれ、もしもし。聞こえていますか?』
返事のない画面に近づき、絢美の顔が迫る。
亮平の体が跳ね、慌てて返事をした。
「す、すみません。聞こえてます!」
勢いよく話し出したあまり、語尾が裏返ってしまう。明らかに可笑しかったはずで絢美にも聞こえていたはずだが、彼女は「良かったぁ」と、安堵のため息と共に言葉を吐いた。
『せっかくマッチしたのに電波が悪くてお話ができなくなってしまうと悲しいですものね。今日はよろしくお願いします』
口元に手を添えた絢美の所作は美しく、彼女の普段の暮らしぶりがうかがえた。休日の午後に紅茶を啜りながら読書を楽しむ姿が、容易に想像できた。楕円形の爪は綺麗に整えられており、ナチュラルな薄桃色のネイル施されている。
指先を揃えて膝の上に乗せると、彼女は再び、ゆっくりと頭を下げた。令嬢を思わせる丁寧な仕草に、まるでアニメの世界から飛び出してきたかのようだ。
「あっ、えっと、初めまして。太田亮平と言います」
『初めまして、亮平さん』
名前を呼ばれ、亮平の心臓は異常なほどに跳ねた。それを誤魔化すために椅子に座り直したが、一度動いてしまうといつまでも体を動かしてしまう。位置が定まらないまま、亮平と絢美の会話が始まっていく。
『私、マッチした方とお話するの初めてなんです。だから少し緊張しています』
「そ、そうなんですね。僕もです」
恥ずかしそうに頬を掻く絢美の笑みに何度も見惚れそうになるが、会話が途切れないように脳を回転させる。
「まだこの間登録したばかりで、ここに来るのは二回目なんです。まさかこんなに早く女性とマッチできるとは思っていませんでした」
『そうなんですね。私はマッチまで時間がかかってしまって、一カ月経ってようやくです。やっぱり、相性が良いと言っても初めましての人とお話するのは緊張しちゃって、勇気が出なかったんです』
「確かに不安はありますよね」
『亮平さんは無かったんですか?』
「ありました。でも、ええいままよと、やるしかないと思って」
『ええいままよ?』
絢美が首をかしげる。こてっと転びそうになる頭は途中で止まり、前髪に隠れていた眉が覗く。アーチを描く眉は、亮平の隣の席で仕事をしている同期とは似ても似つかない。
「えっと、なるようになれ! という感じです」
『ふふ、ええいままよ、って言うんですね』
言葉を聞いてか、それとも慌てる亮平を見てか、絢美は再び口元に手を当てて笑う。細い指が絢美の顔と重なる度に、彼女の指の長さと、顔の小ささが際立つ。
『ええいままよ、ええいままよ』
よほど気にいったのか、絢美は何度もその言葉を繰り返した。話すたびに動く唇には桃色のティントリップが塗られており、ナチュラルなメイクに馴染んでいる。清楚な印象を持つ絢美にはぴったりの色合いで、ええいままよ、と呟くたびに艶めいた。
お気に入りのおもちゃを見つけて気分の上がっているような絢美は、ずっと画面外に目を向けて呟いていた。亮平はその姿をただただ見つめ、彼女の容姿の良さに深く感心していた。
ぱ、と絢美の視線が亮平に向けられる。こちらを認識するはずのない映像の人間と目が合った、とどちらかというと恐怖に近い感覚で体が驚いたが、画面の向こうにいるのは亮平をちゃんと認識している牧絢美がいるのだったと思い至る。
『ええいままよ! って、なんだか魔法の言葉みたいですね』
「魔法の言葉、ですか?」
『はい。ちちんぷいぷい、みたいな感じがします。ええいままよ! の方が必殺技っぽくて強そうです』
そう言うと絢美は人差し指を立てて、空に小さく円を描く。二周ほどしてから指先を亮平に向けると、『ええいままよ!』と言い放つ。穏やかさを感じられるアーチ眉の間にしわを作り、少しだけ睨んでいるようにも思えた。
「う、うん。確かに、少し強そう、です」
『そうでしょう?』
絢美は首を竦めて、嬉しそうに目を細めた。
絢美のお陰ではあるだろうか、思いのほかしっかりと会話をすることができており、強張っていた体は完全にほぐれた。むしろ軽いくらいで、こんな気持ちになったのはいつぶりだろうか。
画面の向こうの明かりと白い壁も相まって眩しく、亮平は目を細め、ゆっくりと視線を落とした。
光に眩んで白む視界の中、過去の記憶が蘇ってくる。今でなくてもいいのに、と吐き出すことも億劫になる落胆と共に、軽かった体が沈んでいく。
『亮平さん?』
絢美が呼びかける。
目を瞑ると、乾いていた瞳が潤う様に瞼の裏がじわじわと熱を帯びてくる。
「……いえ。すごく、楽しいです」
瞼を開ければ零れてしまいそうだったから、目は開けられなかった。度の強い眼鏡のせいで開いているのか分からないような目であることに、安心させられてしまう。
絢美とのビデオ通話を終えて部屋を出ると、真っ先に萩原が駆け寄ってきた。
「太田さん、お疲れさまでした! どうでした?」
友人の恋愛話に興味を示しているかのような若々しさを感じられる勢いで、瞳に溜まっていたものは一気に引っ込んだ。
「ちゃんと話せた気がします。沈黙になることも無かったので……まあ、楽しかったです」
「それは良かったです! 二回目の通話申請もしておきますがどうですか? もう一度お話しできますよ!」
亮平の顔を覗き込む萩原の顔に、絢美の顔が重なる。
──初めまして。
こちらの様子を伺いながら話しかけて来てくれるような謙虚な姿勢。
──ええいままよ!
脳内で巡る絢美の言葉に押され、亮平は緩みそうになる口元を噛み殺して頷いた。
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