第2話


 自宅から電車を乗り継ぎ、駅前に立つ高層階のビルを見上げる。青い空を突き抜けるように伸びるビルは建設時から大きな話題を呼んでおり、テレビにも何度が映された。その後は駅前ということもあり、当然のように目にする建物となった。当初はその大きさに毎度感動していたが、見慣れればそれはただのビルに過ぎない。


 亮平はスマホの画面を確認する。恋愛マッチ事務所、三階。担当萩原。

 マッチングアプリならアプリで済ませられるものだが、奏多が勝手に登録した『恋愛マッチ』は少し異なっていた。

 エレベーターで三階まで上がる、その先は受付になっている。

「太田亮平と言います。萩原さんはいらっしゃいますか」

「お待ちしておりました、こちらへどうぞ」

 受付の女性に連れられて廊下を進み、突き当たりにある扉をノックする。中から快活な返事が聞こえて、受付の女性は扉を開けて中に入るよう促した。どうやら彼女はここまでのようだ。


 中はシックな色合いのテーブルと、向かい合う形で白いソファが置かれているだけで、シンプルな印象だ。ブラインドの隙間から入り込む明かりが室内をぱっと明るくしており、青い空が突き抜けて遠くまで見える。

 女性は厚めのファイルを閉じると、亮平の方を向いて立ち上がる。

「お待ちしておりました! 本日は誠にありがとうございます!」

 高校の運動部を思わせる、はっきりと通る声。活気のある方だと若干のけぞりながらも、亮平は挨拶をする。


「初めまして、太田亮平です。よろしくお願いします」

 自分で登録したわけではないが、と奏多のしてやったりな顔を思い出しながら軽く頭を下げる。

「初めまして、担当の萩原です。よろしくお願いします!」


 差し伸べられた手はすらりと長く、女性にしては少し太い。丸みを帯びた爪は綺麗に整えられており、健康的に焼けた肌色が、やはり体育会系を思わせた。伸ばされた手をじっと見つめていると、萩原ははっと気づき、失礼、と手を引いてしまう。

「あまりフレンドリーにしすぎるなとお𠮟りを受けたばかりでした。失礼しました」

「いえ、とんでもないです」

 手のひらで後頭部を撫でる。わざとらしさには何も言わずソファに座り、早速恋愛マッチに向けた話が始まった。


 恋愛マッチとは相性の良い異性とマッチングするためのサービスだが、スマホ一つで簡単にできるマッチングアプリではない。恋愛マッチ専属の先導員が日本各地におり、彼らに趣味や好み、理想の異性像などの情報を伝えることで、相性のいい異性と巡り合うことができる。つまり、AIによる相性診断ではなく、人間による診断の元マッチングするのだ。


 AIでは入力されて情報を元に一般的な基準でマッチングする中、恋愛マッチは対象者の性格や希望を最大限汲み取った上でマッチング相手を選定してくれる。先導員は相手のことも熟知しているため、実際に話す前に相手の印象などを知ることができるため、相手が一体どんな人なのかというマッチングアプリ特有の不安が軽減されるのが特徴の一つだ。


「恋愛マッチは、結婚はまだ考えていないけれど将来のことを考えて恋人は欲しい、という方も大歓迎です。レズビアンやゲイの方など、LGBTの方もご利用いただけます」

 最近テレビCMで流れることも多くなっている。多様性が重視されるようになった時代に、恋愛マッチは寄り添うように変化しているのだ。それに関しては他のマッチングアプリと何ら変わりはないのだが、数年前の出来事があってからマッチングアプリの数は大幅に減った。


 AIへの信頼度の低下だ。

 AIの機能自体に問題は無く、質問の通りに回答を送ればほぼせいかくにまっちんぐすることができる。しかし生成AIなどの問題が相次ぎ、AIへの信頼が低下。AIに情報を与えることを恐れた利用者は、AIの質問に正確に答えないことを多くなり、その結果正確にマッチすることができなくなったのだ。一度〝AI〟自体に悪い印象が付いてしまえば、その他にも影響を及ぼす。AI業界をざわつかせた出来事により、AIを使用していたマッチングアプリは姿を消していった。


 そんな中で、AIを使用しない恋愛マッチが急速に伸び始めたのだ。

「登録時に亮平さまの個人情報は入力いただいております。平成八年十一月二十日生まれ、四年制大学を卒業後一流企業へ、現在は主任。……エリートじゃないですか!」

「いえ……」

 自分のことのようにうれしそうに語る萩原から視線を逸らし、曖昧に返事をする。

先入観のようなもので、このような恋愛や結婚に関する相談所は堅苦しい印象があった。しかし堅苦しい敬語や息の詰まるような空気もないこの部屋では、亮平だけが墓石のように鎮座している気がした。


 開放感のある白い壁と差し込む日差しが眩しく、萩原のフレンドリーな雰囲気もあり、亮平の体から次第に力が抜けていく。

 これならあまりかしこまらなくても良かったか、と就活時代に着ていたスーツを見下ろす。久しぶりに着たが、現役で使うには少しきつい。


「それではこれから質問をしていくので、楽にして答えてくださいね。あまり硬くなられちゃうと良い人を紹介できないので。ひとりごとくらいの感覚でお願いします!」

 胸ポケットから取り出したノートを開き、握ったペンは机に置いてあったファイルで位置についている。右手にペン、左手にノート、万全の態勢で亮平を見上げた。

「いいですか」

「あ、はい」


 戸惑いながら返事をすると、萩原は亮平に言葉を浴びせる。趣味、休日の過ごし方、相手の好み、仕事とプライベートの割合、ご飯を食べる時間帯、休日の起床時間、これまで付き合った人と別れた原因……、そう聞かれたところで、亮平は言葉を詰まらせる。体の中心で固まったまま出てこない言葉は飲み込むこともできず、何度も咳き込んだ。

「大丈夫ですか、お茶どうぞ」

 差し出されたペットボトルのお茶を受け取り、キャップを回すとぺきりと音を立てて新品の音がした。勢いよく喉に流し込むが、詰まったものの隙間をお茶が流れ込んでいくだけで違和感は拭えなかった。


「これまで付き合った人と別れた原因は?」

 もう一度投げかけられた質問に、また咳き込んでしまう。巻き戻しをした後に再生したかのような同じ時間が流れる。あまりにも分かりやすい反応をしてしまうことに恥ずかしささえ覚えるが、脊髄に触れられたように反応してしまうのだからどうしようもない。

「……それって、絶対に答えなきゃだめですか」

「相性のいい方と巡り会いたいのであれば!」

 満面の笑みは作り笑いのようにも思え、亮平は顔を引きつらせる。

 勝手に登録されたとはいえ、実際興味を持っていないわけではなかった。約束の時間十分前にスーツを着て現れるくらいだ、興味がないと言っても信じてもらえないだろう。


 返答に時間をかけていると、萩原が言う。

「辛い過去を乗り越えて、先に進む勇気も必要ですよ。私たちはそのお手伝いをします。だから、大船に乗ったつもりでいてください! 絶対にいい人と巡り会わせてみせます!」

 そう言って拳を握り掲げる。どこか奏多のような雰囲気を感じ取ったのは、いつも取引先と楽しげに会話をしている奏多を見ているからかもしれない。仕事と割り切っているのではなく、プライベートでも変わらない萩原が垣間見えるような隙が、フレンドリーさを際立たせているのだろう。


 亮平はもう一度お茶を飲み、キャップを閉めて机に静かに置いた。

「顔が、好みじゃなかったらしいです」

「顔?」

 萩原はきょとんとした顔を浮かべる。

「顔です」

「顔が?」

「顔が、好みじゃなかったから」


 そういえば萩原は、亮平に寄り添う、とは言ってくれなかった。そうでなければ、あからさまに表情を変えたり傷口を抉るように何度も聞き返したりしないはずだ。

 言ってしまったことは取り消すことはできない。しかし無意識に傷口を抉られるほど、誰かを恨むこともできずどうしようもないものだ。萩原の明るさが無ければ、亮平の傷はあっという間に開いていたかもしれない。


「そんな理由で振られたんですか⁉ まだとんでもない女性が世の中にいるものですね!」

 部屋の外まで聞こえてしまいそうな声量に、亮平は何故か慌ててしまう。

「いや、人に好みはありますから。気持ち悪いと思われても仕方がないです」

「どうせ年を取ったら自分もよぼよぼになるんだから、顔なんて二の次三の次四の次でいいんですよ。ブスは三日で慣れます、私もそうでしたから」

 萩原の左手で光る指輪が目に付いた。シンプルなデザインのシルバーリングは彼女の指にぴったりと合っている。指輪を付け続けているとその指だけ細くなってしまう、とどこかで聞いた話を思い出した。


「私の夫は誰もが振り返るほどドがつくブスですけど、賢くて料理ができて動けます。結婚したらずっと一緒にいるから見ていられる顔の方が良いって言う人もいますけど、私は顔よりも頼りがいを取って、夫と結婚しました。お陰でほとんど任せっきりです」

 白い歯を覗かせる萩原を見ているとふと、自宅に帰ってから夫に甘えている姿が想像できてしまった。スーツのままソファに寝転んで仕事の疲れを漏らす彼女に優しく声をかける伴侶まで現れる。先導員としててきぱきと仕事をこなしてくれる萩原だが、やはり彼女にも人間らしい裏があるのだと思うと、彼女との間にある壁が一つ壊れた気がする。


「……そういう考えの人じゃなかったんです。その時はまだお互い若かったので、結婚じゃなくて恋愛の楽しさを大事にしていたのかもしれません」

「でも、別れたってことは一度は付き合ったってことですよね。ということは好みじゃない顔を越える魅力があったってことです。そこを存分に引き出していきましょう!」

 急に私の話もしちゃってすみません、と萩原は謝りを入れてから、質問を並べたノートに目を向ける。再度陰り出した心のまま、亮平は質問に答えていった。


 今日は質問に答えるだけで、マッチングするのは後日となった。萩原が出した質問に答えたり、関係の内容な会話をしたりと、亮平の情報や成りを知ることに費やされた。顧客と距離を縮めることは大事だよな、とどんな仕事でもそれは変わらないのだと改めて感じていた。


 来週の同じ時間に予約をして、この日は終了した。事務所から出て姿が見えなくなるまで見送ってくれた萩原に最後、頭を下げると、小さく手を振ってくる。

 太陽の日差しを遮る日陰に入ると、体を包んでいた熱が一気に冷めていく感覚があった。


 ビルの大きなガラスには、スーツで身を包んだ亮平が写し出されている。嫌でも目につく自分の顔をじっと見つめる、いつもと変わらない自分がそこにいる。

「こんな顔だったって知ったら、別れたくもなるか」

 本当、ブスだな。自分に言い聞かせるように口にした言葉は、誰もいない路地にぽつりと落ちる。誰も拾ってくれない、教室の隅で空気になっていた頃みたいに、それは捨てられたまま誰にも届かないのだろう。


 頬についた肉は顔を丸々と見せ、にきびを潰しすぎた肌は凹凸が目立つ。過剰に分泌される皮脂が不健康な印象を与え、度の強い眼鏡は目を小さく見せる。整え方の知らない髪は自由に動き回り、そのくせボリュームが無い。同年代と比べると明らかに老け顔。成人した時からほとんど変わっていない容姿が年齢に追いつくのは、一体何年後だろう。


 元カノが中身に惹かれて恋をしたというのは間違ってはいないだろうけれど、別れたくなったのであれば、それ以上に顔を受け付けられなかったというだけの話だ。至極簡単、だからこそどうしようもなくて心を痛めるしかなかった。


 相手との都合が合えば、来週にはマッチした女性と会話することになるらしい。

 帰り道にあるドラッグストアに寄り、スキンケア用品の並んだエリアに立ち寄る。脂性肌向け、男性の皮脂汚れに、と書かれた製品を見比べる。そんなに色んな種類があると本当にどれがいいのか分からなくなってしまう。とりあえずCMで見たことのある洗顔料を、と手に取ろうとした時、背後を女子高生が通って行った。

「マジやばくない?」

「やばいやばいやばい」

 くすくすと笑い声を漏らす女子高生に、亮平の体が固まる。冷房の効いた店内で滲む汗を抑えようと深呼吸をすると、荒い鼻息が不自然に漏れ出す。悟られないように静かにしていようと思うのに、勝手に指先が震えてしまう。丸くて短い指。短くてぼろぼろの爪。こんな手と誰が繋ぎたいと思うんだ。


 ──本当にロムくん? ありえないんだけど。


 何年も前に聞いた言葉なのに、今も鮮明な声色で亮平の脳内に蘇ってくる。人が一番に忘れるのは声だと聞いたことがあるのに、顔さえ思い出せない彼女の声だけが五年以上経った今でも録音した音声のようにはっきりとしている。


 亮平は伸ばした手を引っ込めると、足早にドラッグストアを後にした。レジに並んでいた女子高生とすれ違うと、手元のスマホで流している動画を見て笑っていた。


 家の近くの牛丼屋でチーズトッピングの大盛りを食べてから帰宅した頃には落ち着いてきたが、その反動でより疲れてしまったように思う。流れるようにベッドに倒れ込んでから、シワになると面倒だと思いスーツとズボンだけ脱ぎ捨ててもう一度、今度は深くベッドに寝転んだ。重みでしばらく上下に揺れるベッドから見える天井は白くて、恋愛マッチの事務所でのことを思い出した。


 ──でも、別れたってことは一度は付き合ったってことですよね。

 どうして付き合おうと思ったんですかね、なんて聞かれることが無くて良かった。あの時のことを詳しく話したいと思えるほど傷は癒えておらず、今でもたまに悪夢のように見るほどだから。

 姿も形もない、影すら持たないそれが今も、亮平を見ている気がしている。

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