明かりの道

薮 透子

第1話


「竹中さん、寿退社だってよ」

 短針が十二を差した頃、奏多と共に訪れた食堂はいつものように閑散としていた。立て付けの悪い扉は風が吹くとかたかたと音を立て、エアコンはほとんど意味を成していない。毎年異常気象だと言われる夏をどうにか扇風機だけで乗り切った歴史ある食堂は、もうすぐ店じまいとなる。近くに新しい飲食店が次々とオープンしており、食堂が無くなったところで困るのは奏多と亮平くらいだ。


 亮平は日替わり定食のしゅうまいを口に入れる。あつあつのしゅうまいの熱を吐き出すのと一緒に、奏多の言葉に返事をする。

「へえ」

「やっぱ女の人は結婚したら仕事辞めるもんなのかな」

 どこか愚痴るように言い放った奏多は、卵焼きを口に運ぶ。綺麗な形をした卵焼きは焦げのない綺麗な黄色をしており、食欲をそそられる。弁当全体の色どりもよく、栄養バランスを考えられて作られていそうだ、と日替わり定食に添えられた白米を口に運びながら思う。


「弁当を作ってくれるんだから良いじゃん」

「確かに、料理はめちゃくちゃ旨い。結婚してから三キロ太った」

 顎に手を添える奏多は、眉間にしわを寄せてさも重大な課題を目の前にしているような、小難しい表情を浮かべている。彼の腹に視線を向けると、わずかにベルトに乗ったふくらみがあった。そこにあるのはただの脂肪ではなく幸せなのだろうと思うと、亮平の腹にある脂肪があまりにもみじめに思えて、少しだけ力を込めた。胃に溜まる日替わり定食が苦しい。


「結婚したら専業主婦になるってずっと言ってて、可愛い彼女のためなら! って結婚するじゃん。そうすると見えてくるんだよ、お金の動きとか生活の余裕とか。俺一人の収入で生活できないことはないけど、将来のこと考えるとな、俺だけでは足りないんだわ」

「自分の家が欲しいんだっけ」

「家欲しいよなー。持ち家あった方がかっこいいじゃん」

「そういう問題か?」

「そうしたら家族を増やしたいって思うだろうし、そしたらそしたら大きい車もってなると思う。絶対」


 空の弁当に蓋をして、小さな弁当袋に片づける。まだ半分も食べられていない亮平だがそれもいつものことで、もそもそと自分のペースで食べ進める。今日はみそ汁の味が控えめで美味しい。

「亮平もそう思わねえ?」

「……まあ、将来的には、そりゃ」

 結婚して、家を持って、子供ができて。家族のためにと仕事に打ち込むような人生もきっと楽しいのかもしれない。支える家族を持つ男がどれほど頼もしいのか、先に結婚していった人を見ていれば、それは身に染みるように伝わってくる。


「でもその前に、僕には彼女もいないし。結婚なんてまだまだ先の話かな」

「そんなお前にいいものがあるんだ」


 唇を歪めた笑みに嫌な予感がして、きゅうりの漬物をぽりぽりと噛んだ。無視に徹しているがそれは奏多には通じず、随分楽しそうに亮平のスマホを手に取る。ロックの掛かっていない不用心なスマホは簡単に操作され、日替わり定食を完食した頃、奏多はスマホの画面を亮平に向けてきた。


「じゃーん、これ知ってる?」

 柔らかな色合いの画面に、『恋愛マッチ』と丸みを帯びたフォントで書かれている。手を繋いだイラストが、人と人を繋げることを意味しているということはすぐに察しがついた。


「なにそれ、……マッチングアプリ?」

「似たようなもん。登録しておいたから、今週末ここに行って来いよ」


 え、と漏らした声も聞きとられず、奏多はマップを開く。ここから三十分ほどの場所にあるビルは、何度も通ったことがあるためすぐに分かった。

「亮平の担当は萩原さんだってよ。マッチのプロだって、これは頼りがいあるぞー」

「ちょっと、何勝手に」

「まあまあいいから」

 調子に乗った高校生みたいなノリはいまだに抜けていないようだ。そろそろ精神的にも大人になった方が良いのにとため息をついたところで、昼休憩終了の音楽が鳴った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る