第十二話 夏目漱石

 

 とは言ったものの、さすがに一ヶ月前の記憶を鮮明に思い出すのは無理がある。

 したがって、彼女が指し示したモノはどれも日常的に触れている物ばかりだった。


「ごめんなさい。お力になれんで……」


 有力な候補が見つからないまま、時間だけが過ぎていく。

 時計の針はすでに午後八時を回っている。

 一度中断して弥生に食事を取らせるべきかとも考えたが、あまり悠長にもしていられない。


 焦りばかりが募る中、ふと天満の目についたのは、一階の居間の端にある古い本棚だった。

 『坊っちゃん』の背表紙が見える。

 その隣には『吾輩は猫である』、『三四郎』、『こころ』と、夏目漱石の著書がいくつも並んでいる。


「あ、そういえば本も読んでましたね。誕生日の頃は確か、『こころ』か『坊っちゃん』のどちらかを読んどったと思います」


 天満は返事もせずに『坊っちゃん』を手に取る。

 本文を開き、弥生の様子を見ながらページを捲っていくが、特に異変はない。


 次に『こころ』を開く。

 と、やけに開きやすいページがあり、自然と手はそこで止まった。

 開き癖の付いたそのページは物語の終盤で、登場人物の一人が自殺を決行した後の場面だった。


「……なるほどね」


 天満が呟く。


「その本がどうかしたんですか?」


 身を乗り出して尋ねてくる彼女に、天満は言う。


「この部分を読んでみてください」


 彼女はページを覗き込み、言われた通りにそれを読み上げた。


「『もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろう』……」


 自殺した登場人物の、遺書の一部だった。


 もっと早く死ぬべきだったという後悔の念。

 それを口にした瞬間、弥生の目が驚愕に見開かれる。


「……私、は」


 来た。


 天満は『こころ』を本棚へ戻し、数歩下がって弥生と距離を取る。


 呪いの引き金となったのは、間違いなくこの本だ。

 もっと早くに死んでおくべきだったという遺書の言葉に、彼女は自分の思いを重ねたのだろう。


「そう……ですよね。私さえおらんかったら、母は死ぬこともなかったんです。私は生きてるべきやない。母は私のことを恨んでるんです。だから母は、私を殺しに——」


 彼女がぶつぶつと呟いている内に、突如として部屋の明かりが消えた。

 ブレーカーの落ちる音。

 闇に包まれた部屋の中で、縁側に続く障子の向こうから月の光だけが入ってくる。


「な、何です?」


 弥生が不安げに辺りを見回す。


 始まった、と天満は身構えた。

 呪いの原因を突き止めた今、ここから先は具現化した『呪詛』との戦闘になる。


 カタン、と音がして、二人は同時に目をやった。

 視線の先で縁側に続く障子がすうっと横へ開かれていく。

 月明かりの差す縁側には、一人の女性と思しきシルエットがそこに立っていた。


「……お、かあさん?」


 震える声で弥生が言う。


 現れた女性の影はやけに線が細く、不健康な痩せ方をしていた。

 長く伸びた黒髪。

 青白い肌。

 顔は暗くてよく見えないが、その姿は先ほど天満も見た写真の女性と似ている。

 闇に溶け込むような真っ黒な服は、和装の喪服だった。


「弥生」


 女性は氷のように冷たい声で彼女を呼ぶ。


「お前なんか、産まなければよかった……」


 喪服の袖から、キラリと光るものが覗く。

 枝のように細いその手が握っていたのは、包丁だった。

 弥生の母と思しき女性は、音もなく足を踏み出して、徐々にこちらへと近づいてくる。


「い、いや……いやあああああッ!」


 半ば錯乱状態になりながら、弥生はその場から逃げ出した。

 

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