第十三話 対峙

 

 壁際にあった棚にぶつかり、飾られていた物がバラバラと床に落ちる。

 それには構わず、彼女はもつれそうになる足を必死で動かす。

 しかし廊下に出たところで何かにつまずき、派手に床へと倒れ込んだ。


 四肢を投げ出したまま、頭だけを動かして振り返ると、開け放されたふすまの向こうからぬっと母の目が覗く。


「あ……あ……」


 ゆらゆらと近づいてくる母の姿に、弥生は瞬きすらできなかった。


 殺される。

 殺される!


 再び立ち上がろうとしたものの、体が言うことを聞かない。

 腰が抜けてしまったようだ。


「いや……お母さん、ごめんなさい。ごめんなさい!」


 包丁を握る母の手が、ゆらりと頭上へ掲げられ、こちらへと迫ってくる。

 弥生は恐怖でギュッと目を瞑り、やがて来る衝撃に備えた。

 しかし、


「弥生さん!」


 暗い廊下に天満の声が響く。


 まだ衝撃はやって来ない。

 恐る恐る目を開けると、目の前に立つ母は包丁を掲げたまま動きを止めていた。

 背後から、天満が羽交い締めにしている。


「があああ……ああああッ!」


 まるで獣のような咆哮を上げる母。

 天満の腕を振り解こうと暴れる度に、長く伸びた髪が乱れる。


「弥生さん、冷静になってください。これは『呪詛』。あなたが自ら生み出した呪いです!」


 天満は包丁の切っ先を気にかけながら叫ぶ。


「私が、生み出した……」


「そうです! あなたは、母親が死んだのは自分のせいだと思っていた。潜在的に罪の意識を抱えて生きてきた。そして先月の誕生日、あなたはあの遺書の一節を読んで、それまで心の奥底に留めていた思いを抑えられなくなり、呪いを生み出した。あなた自身を殺そうとする呪い——それが、この呪詛の正体です。この女性は、あなたの母親ではありません!」


 母親ではない。

 その言葉に、弥生は震える瞳で目の前の女性を見上げる。


 髪を振り乱し、奇声を上げて暴れる、痩せた喪服姿の女。

 手にした包丁の切っ先は、絶えずこちらを向いている。


「で、でも、東雲さん。母は、私のせいで死んだんです。私を恨んでるんです。なら、こうして私を殺しに来たっておかしくないやないですか。人の心が呪いを生み出すなら、この呪詛は、母が生み出したものやないんですか?」


「弥生さん、思い出してください。あなたのお母上は、実の娘を殺そうとするような冷酷な母親でしたか!?」


 その問いに、心臓が跳ねる。


 脳裏に過ったのは、いつもやわらかな笑みを浮かべていた母の顔。


 あの人は、実の娘を殺すような、そんな残虐なことはしない。

 母は誰よりも優しくて、あたたかくて。

 どれだけ体が辛い時でも、娘のことを一番に思ってくれていた。

 

「ああああ……あああああッ!」


 一際大きな奇声を上げた女性は、ついに天満の拘束を振り解く。

 勢いで吹き飛ばされた天満は廊下の壁に背中を打ちつける。

 その彼の胸を目掛けて、女性は刃を振り下ろした。


「東雲さん!」


 ドッ、と鈍い音が壁を揺るがせた。


 女性の握る包丁は、天満の胸の中心に深々と突き立てられていた。

 

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