第23話

 あくる朝、二人はほぼ同時に目覚めることとなった。偶然、同じ時間に自然と目覚めたのではない。その時刻に、強制的に起こされることになったのだ。

「アニキいるかあ。お父さんからお小遣いもらったから、アニキにも渡してくれって・・・」

 ノックもせずに、突然ドアを開け放ったのは來未だった。

「ああーっ、おめえらなにやってんだよー」

 隼人は起き上ったが、少しばかり寝ぼけていた。つられて起きた穏香も、目をしょぼしょぼさせ、しっかりと開ききらない瞳で周囲を見渡した。

 隼人は妹がなぜ朝っぱらから喚いているのかわからないし、穏香も、なぜ隼人や彼の妹が寝起きの自分の部屋にいるのかしらと、ぼんやりと考えていた。

「ああー」

「うわあ」

 ことの重大さに気づいたのも、二人同時だった。

「ち、ちがう。これは、そのう、なんだ。ええーっと、よくわからん」

 適切な言い訳が思い浮かばず、兄はただ狼狽するだけだった。

「か、勘違いしないでね、來未ちゃん」と言うのが精一杯な穏香だった。

「なにを勘違いするんだよ。おまえらエッチなことしたんだろう」

 來未の真っ直ぐな詰問に、二人はそろって下を向いた。それは肯定していることの証左となった。

「やったのか。ちくしょう、アニキのくせに。あたしだってまだしたことないのに」

 不埒な行為に関して、美少女が地団駄を踏んで悔しがっていた。それはもう、涙を流さんばかりだった。

「わ、私、帰るね。そうだ、帰る、帰るかな、あはは」

 浮気現場を直撃で見つかったみたいに、穏香はパジャマのまま部屋を出て行こうとした。

「ああ、帰るがいいさ。ちなみに、下にはお父さんとお母さんがいるかね。アイサツしていったほうがいいよ」

「なにいー」

 來未が帰ってくることすら思いもよらなことだったのに、滅多に帰らない両親までいるとは、隼人は驚きで頭の中がさらにまっ白になった。

「な、なんで」

「なんかあ、いい物件を見つけたから、一回家に帰るってことになったんだよ」

「そ、それは困ったわ、ど、どうしよう」

 不安でいっぱいの顔が隼人を見つめた。

「そ、そうだな。ええ、それじゃあ、そうだ、いま遊びに来たっていえばいいさ」

「いまは朝の六時半だぞ。こっちは朝の三時に向こうを出発してきたんだよ。車で突っ走ってさあ」

 朝六時半にパジャマ持参の女友だちが息子の部屋にいると、ふつうの母親だったら気分を害すことだろう。 

「來未、たのむ。あの二人をおさえといてくれ。そのスキに穏香を逃がすから」

「イヤだよ、アニキや綾瀬はさんざんエッチなことして楽しんじゃったくせに、なんでわたしが苦労するのさ」

 二人を軽蔑するような口調だった。

「そんなにしてない」思わず穏香が声をあげた。

「そんなにしてないけど、したんだろう」

「それはそのう、ちょっとだけ」  

 穏香は申し訳なさそうに言った。來未が相変わらず冷ややかな目で見ていた。

「そんなことはどうでもいいよ。とにかくたのむよう。千円やるから」

 隼人は妹を拝んでいた。來未は、仕方がないという表情をした。

「お父さんもお母さんも外にいるよ。物置で道具を片付けてるさ」

 危機的なカップルに一筋の光明がさし込んだ。二人はお互いを見つめた。

「いまのうちに、私は外に出るわ」

「ダメだよ。物置から玄関が丸見えだからね」

「屋根から逃げるしかないんじゃね」

 來未はテキトーなことを言ったつもりだったが、穏香と隼人は大きく頷いた。

「え、マジかよ」

 穏香は、すでに窓を開けて片足を屋根の上にのせていた。隼人は部屋を出て玄関に急行する。彼女の靴を取りに行ったのだ。

「綾瀬さあ、まさかパジャマで外歩くの」

「え」

 あまりにも慌てていたために、いまの自分がパジャマ姿であることを忘れていた。バックを忘れていたことにも気づいて、あたふたと狼狽する。

「きゃっ」

 すると足が窓枠に引っかかってしまい、そのままバランスを崩して屋根の上に転んでしまった。たいていの家がそうであるように、屋根部分は傾斜がついている。穏香はコロコロと転がって、二階の屋根から落ちてしまった。

「あ、ヤバ」と來未がつぶやいた。

 幸運だったのは、落ちた場所に段ボールが積まれていたために、それらがクッションとなって、彼女はまったく怪我をすることはなかったことだ。

 不幸だったのは、ちょうどそこに隼人の母親がいたことだ。

 母は、自分の息子の部屋のあたりから落下していた女子に驚き、彼女が何ら怪我を負うことなく立ち上がったことに安堵し、彼女がパジャマ姿であることにすべての事情を悟った。少々よろけている可愛い女子高生を、來未以上の冷ややかな目で見ていた。

「これはこれは、大きな野良猫が落ちてきたねえ。しかも寝巻き姿で。いったいどこのメス猫かしら」

 穏香は、目の前で腕組している中年の女が、隼人の母親であると確信した。

「しずかー、大丈夫かー」

 隼人が叫んでいた。

「死んだ死んだ、絶対死んだ」と來未が喚いている。

「おはようございます。わ、私は綾瀬穏香と申します。そのう、十文字君とはクラスメートです。学級フェローをやっています」

 直立不動のまま、手短な自己紹介となった。

「おはようさん。そうなの、フェローをしてるんだ。しずかちゃんは真面目なんだねえ」

 母は、その言葉とは裏腹の意味合いを、イヤミとして投げつけていた。気の強い女子高生である穏香だが、さすがに反抗する気にはなれないどころか、たじろいてしまい言葉が出なかった。

「あら、しずかちゃんのクビにキスマークがついてるね」

「え、うそ」

 穏香は必死で首筋をさすり、指摘のあった痕跡をかき消そうとした。

「隼人とそういうことをしてたんだあ。なるほどねえ」

 それが母の誘導尋問であるとわかっても、時すでに遅しだった。ますます冷たい目で見つめている中年女の前で、真面目なフェローは無言のまま、ただただ小さくなるしかなかった。

「あ、母さん」

 そこに隼人がやってきた。急いでいたために、靴を履いていなかった。ただし、手には穏香の靴を持っていた。そして、この絶好の場面を見逃してはならないと、來未も駆けつけてきた。

「彼女は、そのう、なんだ、ええーっと、そうだ、クラスが一緒なんだよ。俺の前の前の前の席にいて、よく勉強を教えてくるんだよ。同級生だよ、同級生。ははは」

「そうそう、ただのクラスメート」

 隼人の苦し過ぎる言い訳に押されて、ようやく穏香が発言した。

「パジャマ姿で勉強を教えてくれるなんて、しずかちゃんは優しいのね。ところで何を教えてくれたの。国語、それとも保健体育かしら」

 穏香も隼人も、ほぼ垂直に真下を向いた。一言も言い訳できない状況に追い込まれ、息をするのもはばかられるほどの気まずい空気が充満していた。

 來未は、ネチネチと崖っぷちまで追いつめる母を目の当たりにして、親の偉大さを痛感し、さらに自分の時はどうやって誤魔化そうかと考えていた。

「まあとにかく、しずかちゃんは今日のところは帰ったほうが良さそうね」

「はい」

 ほとんど聞き取れないような声で、穏香が返事をした。

 自分の名前をちゃん付けで呼ばれていたことに、この時になって気づいた。子ども扱いされたということは、昨夜の行為は自分たちにはまだ早かったと、母が判断しているのだ。

「すみませんでした」穏香は謝ってしまった。

 母はその場所から離れて、商売道具の整理を夫と共にしていた。二人はひとまず部屋に戻った。穏香が着替えている間、隼人は廊下に出ていた。すぐに穏香が出てきた。 

「こんなことになって、スマン。まさか母さんが戻るとは思わなかった」

「いいのいいの。なんだか考えもしないで無理に背伸びしちゃったのは、私たちの方だし。お母さんに怒られるくらいでちょうどいいのよ」

 荷物を持った穏香が、十文字家の敷地を出て行こうとしていた。隼人は彼女の家まで送っていくつもりだった。

「隼人、こっちきて手伝いなさい」

 母が息子を手招きしている。横で後片付けをしている父は、無言で作業をしていた。

「俺、これからちょっと用があるんだ」

 だが隼人は、母よりも穏香を優先しようとした。

「私は一人で帰るから大丈夫よ。隼人はお母さんたちを手伝ってあげて」

「でも」

「いいからいいから」

「ああ、うん」

 穏香に背中を押されて、隼人は両親のもとへと行った。すぐに來未もやってきて、一家そろって家業の後片付けをし始めた。父親にあれこれと指示されて、兄妹は忙しそうに動いていた。

 そこに入り込む隙はなかった。帰り道を一人歩きながら、あの家では自分は部外者であると、穏香はつくづくと思うのだった。


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