第22話

 隼人と穏香が十文字の家に戻ったときには、すっかりと日が落ちていた。共同で食事の後かたづけをして、まだ食べていないシチューは冷蔵庫にしまいこんだ。それから居間で紅茶を飲みはじめた。少しばかり、重たい空気が漂っている。

「なあ穏香」

「なに」

 穏香のカップは、すでに空になっていた。

「今日泊まっていかないか。そっちの親もいないんだろう」

「え、それはダメよ。前に言ったでしょう」

 穏香は否の言葉を返すが、それほど強い拒絶ではなかった。

「そうだったな、ゴメン。なんとなく一人になりたくなくてさ」

 隼人の言葉に嘘はなかった。十七歳の未熟な男にとって、老婆の危機は相当に衝撃的だった。うわついた下心など、どこかに吹き飛んでいた。

「うん」

 それはある種の微妙なサインなのだが、隼人は気がつかない。

「じゃあもう遅いし、送っていくよ」

 隼人はカップをおいて立ち上がった。  

「うん」

 穏香は、もじもじと身をよじって立とうとはしなかった。

「ん、どうしたの」 

「そのう、やっぱり泊まっていこうかな。なんだか、おばあちゃんのことが気になって、私も一人はイヤかなって」

「え、あ、そうか、そうだよな。ははは」

 期待していなかっただけに、予期せぬ穏香の変節に、隼人は戸惑ってしまった。  

「じゃ、じゃあ、今夜は來未の部屋で寝るといいよ。たしか、あいつのパジャマがどっかにあったような」

「なに言ってるの、バカ」

「え」

「私は隼人の部屋で、一緒にいたいの」

 穏香を誘ったのは自分だったが、いまさらながら、その意味するところの重大さに気づいた。隼人の鼓動は猛烈に早くなった。それは穏香も同じで、心臓が張り裂けそうだった。

「そうだ、俺風呂入ってくるかな。ばあちゃんのことで汗かいちゃったし」

 隼人は逃げようとした。とりあえず一人になって今晩の戦略を考えるのだと、自分に言いきかせていた。

「私も一緒に入るから」

「えっ」と言って、隼人は固まった。信じられないモノを見てしまったような目つきで、穏香を凝視した。

 彼の心情は複雑である。期待、興味、喜び、不安、焦り、通過儀礼することへの一抹の恐怖、などが激しく渦を巻いて一緒くたになっていた。

「ウソよ」

 穏香は素っ気なく言った。

「うそ、だよな」

 ふうと大きな息を吐き出して、隼人は胸をなでおろした。

「私が先に入るの。いいでしょう」

「う、うん、もちろんだよ」

 隼人は風呂場へと穏香を案内し、簡潔に使い方を説明した。

「うん、わかったよ。私の家とあまりかわらないから」

「そう、そうれはよかった」

 隼人は脱衣所を出ていこうとはしなかった。頭の中が白くぼやけて、なにも考えていなかったのだ。

「私はこれから服を脱ぐけど、隼人はずっとここにいるの」

 彼女の瞳は冷ややかだった。一瞬後、隼人は蹴飛ばされたようにその場を離れた。

 穏香が入浴している間、隼人はとにかく落ち着きがなかった。泊まってほしいなどと、あんな大それたことを言わなければよかったとさえ思っていた。あれこれ性的な想像力は人一倍たくましいのだが、いざその状況が現実になりそうだと、まるっきし度胸のない男だった。

 しばらくすると、入浴を終えた穏香が居間にやってきた。

「あれえ、そのパジャマ、どうしたのさ」

 彼女は、すでにパジャマ姿であった。髪はまだ濡れていて、バスタオルで拭いている。

「持ってきたのよ、もちろん」

「え、いま?」

 入浴中の穏香が自宅に戻ってパジャマを持ってくることは、常識的に考えると無理なことだろう。

「バカじゃないの。あらかじめ用意していたのよ」

「なんで」

 彼氏のあまりにも鈍感な言葉にさすがにイライラしたが、それでもキョトンと捨て犬のような瞳で見つめられてしまって、穏香は心をしずめるしかなかった。 

「女の子は、いろいろ考えることがあるの」

「そうなのか」

 穏香はソファーに座った。いい香りが、ふわっと隼人にまとわりついた。來未も入浴したあといい香りがするが、穏香のほうがきつい匂いだと隼人は思った。

「俺も入ってきていいかな」

「どうぞ。だって隼人の家なんだよ」

 隼人はキッチンに行って、冷蔵庫からジョースを持ってきた。それを穏香に渡してから風呂へと向かった。

 熱いお湯に深く浸かりながら、隼人はあれこれ考えていた。パジャマまで持参しているということは、穏香は泊まることを想定していたことになる。口ではイヤと言いながらも、その行動はすっかりお泊りモードだ。

 これは自分がしっかりと彼女をリードしなければならないと思う隼人であったが、具体的にどうしたらよいかわからなかった。そして、あれこれと妄想していると重大な事実に気がついた。

「そうだ、このお湯、さっき穏香が入っていたんだ。なんか、すごいことだぞ」

 隼人はさらに深く湯に浸かりながら、味わうようにその熱さを感じていた。

 風呂からあがった隼人は、茹でガエルのごとくのぼせていた。なんとかパジャマを着たものの、酔っ払いのようにフラフラとした足取りで居間に戻ってきた。

「ちょっと、どうしたの隼人、具合が悪いの」

 穏香が立ち上がり、隼人はその空いたソファーに倒れ込むように横になった。

「大丈夫?なにかあったの」

 彼女の残り湯を満喫していたとは、さすがに言えなかった。

「なんか、長湯してしまった」

「のぼせたんでしょう」

 暑い息を吐き出し続けている男子を、その彼女がウチワであおいでいる。穏香の表情が、どことなく緩んでいるように見えた。それを隼人に見透かされているような気がして、その恥ずかしさを読まれないようにした。

「疲れちゃったね。もう寝ましょうか」

 隼人は、生唾をごくりと呑み込んだ。

「お布団を一組貸してくれない。床に敷いて、私はそこで寝るから」 

「それなら、穏香は俺のベッドで寝ればいいさ。おれは下に寝るよ」

「でも、それじゃあ」

「いいっていいって。彼女を下に寝させることなんてできないよ」

 二人は隼人の部屋に行った。シンセドラムを片付けて、一組の布団をベッドのすぐ脇に敷いて、隼人がそこで寝ることになった。穏香はベッドである。

「それじゃ、おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

 穏香が照明のリモコンをオフにした。すぐに真っ暗になり、やがて目が慣れてくると物の輪郭ぐらいはつかめるようになった。

 隼人は、当然のことながら目が冴えきってしまい寝るどころではなかった。すぐ近くで女の子、しかも大好きな穏香が寝ているのだ。ただじっと横になっているだけでも、鼓動の早打ちがおさまらない。いつもなら若者にありがちの逞しい創造力で女子のアレコレを妄想するのだが、いまの彼は極度の緊張でそれどころではない。  

 彼氏の動揺は、じつは彼女である穏香も同じだった。

 努めてすまし顔で振舞っていたが、内心はドキドキが止まらなかった。ひょっとしたら泊まる可能性があるのではないかと考えてパジャマなどを用意してきたが、自ら堂々と宿泊を宣言した大胆さに驚いていた。

 この状況で隼人に無理矢理求められても、断りきれないだろうと思った。自分はいったいなにをしているのだろう。いや、なにをしたいのだろうか。それともなにかをされたいのだろうか。自分がこんなに能動的な女であったかと、隼人のベッドで自問を繰り返していた。

 下で寝ている隼人が起き上ろうとしていた。穏香はとっさに身を固くしたが、それでも口では平静を保っていた。

「どうしたの。眠れない?」

「ちょっと、トイレに」 

 隼人は照明を点けずに、忍び足で部屋を出た。男の気配が去ってから、女は落ち着け落ち着けと、自分に言いきかせていた。

 ほどなくして隼人が帰ってきた。少しばかりまごまごしていたが、なにごともなく無事に布団の中に収まることができた。

 張りつめた空気が、さらにその硬度を増した。二人は息をする音にも気をつかうようになっている。隼人がいきなり立ち上がろうものなら、穏香は大音響の悲鳴をあげそうな緊張感だ。

 部屋の中が乾燥しきってしまい、穏香の鼻がつまってきた。口で呼吸をすると、息遣いが激しいようで、そう思われるのがいやだった。だから、そっと鼻から音がしないように空気を吸い込むのだが、ピューと音が出てしまった。

「・・・」

「・・・」

 ぷっ、と隼人が笑った。それを合図に穏香も笑いだした。

「はっははは」

「ふふふふふ」

 二人は大爆笑となった。隼人がリモコンを手にして、照明に火をともした。穏香は起き上って、腹を抱えて笑っている。

「なんかさあ、スゲー緊張してないか、俺たち」

「私、緊張しすぎで息が苦しくなっちゃった」

 ひとしきり笑った後、生温かな静寂が訪れた。

「そっちにいっていいか」

 隼人の問いかけに、穏香は素早く返した。

「ダメ」

 ええー、マジか、と落胆する隼人に、さらに追い打ちをかける。

「私が行くんだもん」

 ベッドから転がるように落ちた穏香は、そのまま抱きついた。がっしりと受け止めた隼人は、彼女を抱きしめたままゆっくりと仰臥する。

 彼の背中がうすっぺらな敷布団に接した刹那、彼女の唇が柔らかく触れた。すぐにそれは強い圧迫となって、お互いを求め合うように舌が交差する。ややしばらく続けた後、二人は体勢を入れ替えた。一度起き上った隼人が、背部を臥床したままの穏香をじっと見つめる。彼女の顔が気恥ずかしそうな表情をした。彼の手がパジャマの胸の部分に触れた。穏香は、とくに嫌がることも抵抗を試みることもなかった。されるがままを受け入れている。

 淡い朱色の光が、さっと落ちた。穏香がリモコンで照明の灯り消したのだ。隼人はその暗さを、むしろありがたく思った。

 彼の手がブラジャーを外そうとしたが、そこで穏香が待ったをかけた。

「自分で外すから」

 そう言うと、上半身を起こしてブラジャーを外した。

 形の良い乳房が隼人の前に露わになったが、それは一瞬であり、すぐに穏香の腕が隠した。彼は驚異的な忍耐強さで潮が引けるのを待っていた。ぱっちりした瞳がひとしきり左右に揺れた後、崩れるように防壁が落ちた。

 いいよ、と彼女が言う。

 うんと頷いて、隼人の両手が乳房を覆った。押し込むように揉むと、穏香の口からかすかな音を伴った息が漏れた。女性の乳房は妄想していたよりも余程柔らかくて、そのとりとめのない感触に、隼人は焦りを感じていた。

 指の間を乳首が滑ると、穏香は明確に身をよじった。ごめん、痛かった、と謝る隼人に、そんなことはないと大仰に首を振ってみせた。ぎこちないが、愛のこもった行為が連続していた。二人は再び仰臥する。その頃には、どちらも身体につけているものはなかった。

 お互いが未経験同士のセックスであるので、その行為の内容が満足するほど濃かったかどうかは疑問だろう。ひとしきりの営み終わった後、男の方はやや放心状態であり、女の方も努めて動こうとはしなかった。余韻を楽しむといったゆとりは二人にはなかった。隼人は彼女を傷つけていないか、穏香は彼をガッカリさせたのではか、とお互いを過剰に気づかっていた。

 さっきとは違った種類の話しづらさが部屋に充満していた。せっかく身も心も愛し合えたのに、この沈黙はツラすぎると、隼人はやや品のない話題を口にした。

「穏香は、今日はこういうことになると思っていたの」

「どうして」

「だって、コンドームを持っていたから」

 避妊具は穏香が用意していた。隼人は性的な妄想が大好きな高校生だが、その実際の手順において用意を抜かりなくするような、マメな男ではなかった。

「女はいろいろ考えるのよ」

 それは正直な回答だった。穏香はかしこい女であると同時に、考えすぎるという性格なのだ。その場の成り行きによっては万が一もありえると、可能性を十歩先まで考えていた。  

 あるいは、女の感がこの日を予期していたのかもしれない。そして、そのための用意も抜かりなく行っていた。昨日、ドラックストアでコンドームを買う時は、あやしい変装をしてまでの大人な女を演出し、それでも店員の失笑を買うほどの狼狽ぶりを披露していた。人生でもっとも緊張した買い物となった。

 それから二人は、クラスメートのこと、趣味のこと、自分の性格の長短などをいろいろと話し合った。セックスのことについては、そんなことがなかったようにまったく触れなかった。

 話しているうちに、穏香はいつになく甘えるような声色で話し、隼人は、さも頼りがいがある男を演じていた。いくつかの話題で笑い、クラスメートのことで同時に憤慨したり、納得したりした。

 そのうち、二人の会話は自然と止まった。はじめての性体験や老婆の急病で疲れてしまったのだろう。隼人と穏香は、ぴったりと密着したまま寝入ってしまった。


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