第21話

 連休の初日。午後になって、穏香が隼人の家へとリュックを背負ってやってきた。中には、料理の本と材料などが入っている。夕食を作って二人で仲良く食べようという魂胆だ。

 今日この日に十文字家にいるのは、隼人と穏香だけだ。両親は養蜂業で地方に出ているし、妹の來未も、手伝うという名目で親のもとへ泊りがけのお小遣い催促に行っている。学校でもないので、修二や田原などのお邪魔物件も出没しない。二人の恋愛にもっとも障害となった金髪碧眼の美女、ナオミ・K・ブルベイカーの姿もない。思う存分、イチャイチャできるのだ。

「ねえ隼人、ちょっと味見をしてくれない」

 今日の穏香の献立は、得意のクリームシチューである。チーズをたっぷりと入れたそれは、とろけるような美味さ、だと本人は確信している。

「それは晩ご飯までの楽しみにしておくよ」

 いま食べてしまったらもったいないと、居間のソファーでのんびりとマンガを読んでいる隼人は思っていた。

「それじゃダメなの。私の味付けと、隼人の好みが合わないかもしれないでしょう」

 穏香は小皿に少量をとって、キッチンにあるテーブルの上に置いた。

「ここにあるから、早く味見してよ」

「はいはい」

 隼人がマンガの本をおいて、立ち上がろうとした時だった。

「こりゃ年寄りには、ちょっと濃いねえ」

「うわあ」

 キッチンテーブルの横から突然現れた人影に驚いた穏香は、思わず持っていたお玉を放り投げてしまった。

「もうちょっと薄めておくれよ。お湯じゃなくて、牛乳でやるといいよ」

 駄菓子屋の老婆だった。味見用の小皿の汁をずずっとすすって、忌憚のない意見を述べた。

「ばあちゃん、なんでここにいるんだよ」

 キッチンにやってきた隼人が、小さな身体をマジマジと見ていた。

「なんでって、來未っ子が来てくれって言うからさ。今日はな、誰もいなくなるから、おめえに晩ご飯を作ってくれってさ。だから、わざわざ老人会をすっぽかしたんじゃろうが」

 老婆が十文字家に来るのは、これが初めてではない。じつは、隼人の両親も小さいころから駄菓子屋に通っていて、そのまま懇意になっていた。一人暮らしの老婆と一緒に食事をしたり、老婆も惣菜などを作っては遊びに来たりしていた。

「あいつ、なんで今日という日がわかったんだ」

 穏香が来る日を予想して、そこに障害物をぶつけてきたと兄は考えた。その読みは正解である。來未は、あのバレンタインデー以来、穏香を敵だと認識していた。自分の兄と仲良くすることなど、まして恋人同士になるなど許容できないのだ。

「まあ、めんこい彼女もいるから邪魔はしねえさ。だけんどなあ、せっかく来たから、なんか作って帰るぜよ」

 老婆は、持参した手さげ袋から食材を引っぱりだし始めた。

「うん、それはいいかも。シチューだけじゃ、なんか物足らないしね。私、肉じゃがとかうまく作れないの。おばあちゃんに教えてもらおうかな」

 隼人と違って、穏香はイヤな顔一つ見せなかった。一緒に料理したいとの気持ちは、わりと本心だった。

「肉じゃがなんてなあ、そったらババ臭えもん作らんぞ」

「え、それじゃあ、なにかな」

 年寄りなので、当然和風でぬかミソくさい料理だと穏香は決めつけていた。

「まんず、アヒージョだな。それと稚内からタコ送ってきたから、カルパッチョにすんべか。パンもあるぜよ」

「あひ、あひ、なんとかって、なんだよ」

「オリーブオイルとニンニクと鷹の爪で、いろんな具材を煮込むのよ。私も一度作ってみたかったの」

「ばあちゃん、そんな西洋的なモノ作れるのかよ。無理しないで、イモの煮っころがしでもいいのに」

「田舎者のコジキ男はすっこんでろ。いま美味いもんこさえてやるからよ」

 老婆は十文字家のキッチンを知っている。手ごろな鍋や皿を引っぱりだして、手早く料理の支度を始めた。なにかと逡巡する穏香とは違い、まったく無駄がない動きだ。

「私は、シチューを作ってますから」

 穏香が負けじとシチューを作っていることをアピールする。老婆は、空中のなにかをはらうように手を振った。

 ほどなくして料理が出来あがった。時間は早めだが、老婆が老人会に行くというので、急ぎの夕食となった。

「この、あひ、あひなんだっけ」

「アヒージョ」

「そうそう、アヒージョ。ニンニクが効いてて美味いなあ」

 本来の小皿料理なアヒージョとは違い、老婆のは、とにかくボリューム満点だった。オリーブオイルがたっぷりなそれを、隼人は美味そうに食べていた。とくに老婆が持参した大エビは絶品であり、自分が作ったシチューも忘れて穏香もかぶりついていた。

「あつ、あつ、熱くて、おいしい」

「ほら、おめえたち、タコも食えや。この水ダコ、買えば高いんだぞう」

 カルパッチョは比較的簡単な料理なので穏香もよく作るが、老婆のこのカルパッチョのような味には及ばない。

「うん、このタコ、うめえなあ」

 隼人は、うんうん頷きながら食べ続ける。トーストした大量のバケットも、ほぼ一人で平らげてしまった。

「そうだ、シチューもあるんだった」

 せっかく作った自慢の料理を忘れてしまっては困るとばかりに、穏香は大ナベを持ってきた。それを、とくに隼人の皿には溢れるばかりにてんこ盛りした。

「はい、どうそ」

 すでに腹八分目な隼人であったが、ここで遠慮するわけにはいかないので、満面の笑顔を彼女に見せながら苦しそうに食べ始めた。

「すごくこってりして、おいしいよ」

「でしょう。チーズたっぷりなの」

 三人は和気あいあいと食事をしていた。とくに穏香と隼人はことのほか楽しそうで、そんな若者たちを老婆は目を細めて見ていた。

「さて、そろそろ帰るかな」

「なんだよ、ばあちゃん。全然食べていないじゃないか」

「な~んかな。おめえたちの仲ええの見てたら、腹がいっぱいになったで」

 年季の入った皺顔が、ふふっと微笑んだ。隼人はバツが悪そうにあっちを見き、穏香は顔を赤らめながらうつむいた。

「さあってと、そんじゃまあ・・・。ととと」

 椅子から立ち上がろうとした刹那、老婆はよろけてしまい、そのまま床に倒れ込んでしまった。

「おばあちゃん、どうしたの」

 横にいた穏香がすぐに起こそうとするが、老婆は立ち上がれない。

「なんだかおかしいぜよ。腕もうごかないよ」

「ばあちゃん、大丈夫かよ」

 隼人も駆け寄ってきた。

「隼人、救急車を呼んで」

「え、そんなにひどいのかよ」

 具体的な返事はなかったが、本気の目線がことの深刻さを物語っていた。 

「わかった」隼人は、すぐに電話をかけた。

 穏香は前に一度、これと同じような症状を見たことがあった。父方の実家に遊びに行ったときに、祖母が突然倒れたのだ。すぐに病院に運ばれて命を落とすことはなかったが、半身に少しばかりの麻痺が残った。老婆の症状はその時と同じく、脳こうそくの典型だった。

 二人は必死に介抱した。老婆はいつものように軽口をたたく余裕もなく、ただ、ああーああー唸っていた。寒くないようにと、穏香がタオルケットを持ってきた。他人の家なのでどこになにがあるのかわからなかったが、唯一知っている隼人の部屋へダッシュで行ってとってきた。

 救急車はすぐにやってきた。十文字家と消防署がわりと近かったのだ。

 老婆は、意識はあったが朦朧としていた。自分の名前や症状を訊かれるが、うまく答えるとこができない。かわりに穏香が答えた。

「ご家族の方ですか」

 救命士に質問されると、穏香は一瞬とまどったが、隼人は、はいと即答した。家族みたいなものだし、細かいことを説明している余裕がなかった。

「では、一緒に付き添ってもらえますか」

「私も行く」

 救急車には穏香も乗った。幸いたらい回されることもなく、すぐに病院へ到着した。ストレッチャーの上で、老婆はウンウン唸って嘔吐している。穏香は彼女の手さげ袋を持ってきていた。財布も入っているので、おそらく保険証もあるだろうと気を利かせた。

 老婆が処置室にいる間、穏香は老婆の手さげ袋にあったケイタイを取り出した。

「おばあちゃん、家族の人とかいるの」

「息子さん夫婦が近くにいるとか言ってた」

 老婆のケイタイの電話帳を検索すると、それらしい名前があった。かけてみる?っと穏香がそれを隼人に手渡そうとしたが、「俺、ケイタイとかもってないから使い方がわからないんだ」と言ったので、彼女が電話をかけた。

 老婆の息子へとつながった。穏香が事情を説明すると、十分ほどでやってきた。彼は高校生である二人に丁寧に礼をすると、もう帰って大丈夫だと言った。

 そこに医師がやってきて、老婆の容体を説明した。診断はやはり脳こうそくだったが、幸いにも重症ではなくて手術は必要なしとのことだった。しばらくは入院しなければならないが、後遺症もほとんどないようだ。

「それでは、俺たちはこれで。落ち着いたら見舞いに来ると伝えておいてください」

 隼人と穏香は帰ることにした。ここにいても老婆の力にはなれないし、家族の人がきているので、部外者はかえって邪魔になると考えた

 母親の命を救ってくれた二人に、老婆の息子はタクシーを呼んでくれた。タクシーチケットを手渡してから、あらためて礼を言った。

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