第20話
「もう島田さんたち、なかなか帰らないんだもん。焦っちゃった」
化学準備室に入ってくるなり、穏香は開口一番そう言った。その際に、後ろ手でカギをかけることは忘れない。
「早く帰れともいえないし、俺も困ってたんだよ」
隼人は、紅茶のティーパックの入ったマグカップを穏香に手渡した。
「ありがとう」
穏香はティーパックを何度か上下した後、それを取り出した。使用済みを隼人が受け取ってゴミ箱へ捨てた。
「ハチミツはどれくらい?」
「もう、たくさん」
たっぷりの蜂蜜が、ゆっくりとマグカップの中へ落ちてゆく。その様子を、二人の男女がじっと見つめていた。
毎日のように化学室に入り浸っているうちに、そこが隼人の私室のようになっていた。化学室準備室には、電気ポットとコーヒーや紅茶の類が常備された。穏香との密会には欠かせないアイテムである。
それらは二人でお金を出しあったり、家にあるものを持ってきていた。ただし、他の生徒や教師にばれないように、しっかりと棚の奥の奥へ隠している。こうやって二人きりになると引っぱりだして、午後のティータイムを楽しむのだ。
「ところで穏香、連休は空いてるの」
「うう~ん、とくに忙しくはないかな」
もうすぐ大型連休が始まる。
「うちに来ないか。ほら、誰もいないし」
「そうね、久しぶりに隼人のドラムも聴きたいし。フルートを持っていく?」
「いや、それは遠慮しとくかな」
ぷー、と穏香のほっぺたが膨らむ。もちろん、本気で怒っているわけではない。隼人は、人差し指でその膨らみを柔らかく押した。ぶっ、とオナラのような音が出たところで二人は爆笑した。
「私のところも両親が親戚の家に泊まりに行くからいないの。まあ、おかしな人はいるけどね」
フリーターの兄については、穏香からよく話を聞いている。実妹によると、性格的に変わったところがあるとの評価なので、なるべくなら会わないでおこうと思っていた。
「だったら泊まりに来ないか。俺の家に」
控え気味な恋愛に徹していた隼人にしては、じつに大胆な申し出だった。
「な、なに言ってるのよ。どうして泊まるっていう発想になるの。だいいち、來未ちゃんがいるじゃないの」
二人にとって、いまや來未はナオミ・K・ブルベイカー以上の恋愛クラッシャーである。
「來未はいないよ。父さんたちの現場に手伝いに行くんだ。じっさいは、おこずかいを死ぬほどねだるのだけども」
養蜂業者である十文字の両親は、それほど遠くない所にいる。電車で数時間の距離だ。
「はいはい、そんな話はダメなの」
「ええー、なんでだよ。俺たち付き合っているじゃないかよ」
「まだ高校生だから、そういうことをするのは早いの」
穏香が示唆する行為は、いまどきの高校生なら経験済みもそれほど少なくはない。だが保守的な考えの彼女にしてみれば、まだまだ時期尚早となる。
「そういうことって、なんのことだよ」
「そういうことって、そういうことよ」
もちろん、隼人も男である。しかもヘンタイノートを書くほどの妄想男子だ。確信犯的に誘っていることは間違いない。
「わかったよ。でも、泊まらないにしても遊びに来るぐらいはいいだろう」
「それなら別にいいけど。でも、そんなに遅くまでいないからね」
穏香の態度は予想通りだった。性根が真面目なだけに、ある意味扱いやすいといえる。恋愛ど素人な隼人でも、ニヤニヤする程度に楽しめた。
「ちょっとう、なに笑ってるの。私のことがおかしい?」
「いや、別に」
隼人の含み笑いに、穏香は少しばかりカチンときた。
「隼人のくせに」
「え、なにが」
「いえ、別に。あ、窓の外で胸の大きなイチゴ星人が手を振ってるよ」
「え、どこ、どこよ」
隼人の目が窓の外に向かっている隙に、穏香は食卓塩の小ビンを手にとり、内側の蓋をはずした。そして砂のような中身を全部隼人のマグカップに注いだ。
「なんにもないじゃないか」
わざわざ窓際まで歩いていった隼人が、ブツクサ言いながら戻ってきた。
「ゴメンなさい。勘違いだった」
穏香はハイと言って、うやうやしくマグカップを差しだした。紅茶を足しておいたと付け加えた通り、なみなみと注がれていた。
「どういう勘違いしてるんだよ。だいいち、イチゴ星人ってなんだよ」
文句を言いながらも、隼人はマグカップの紅茶をずずっとすすった。
「もわああ、しょっぺええ」
あまりの塩辛さに跳び上がる彼氏を見て、穏香はしてやったりの笑顔だ。
「よくもやったなあ」
「ええ、やりましたとも」
二人は立ち上がってにらみ合った。ただし、お互いの目はつり上がっていない。それどころか、なにかを求める。
瑞々しい唇が自然と引きつけ合う。隼人が穏香の腰に手を当てて、それらが柔らかく触れ合った。
学校内ということもあり、キスはそれほど長い滞空時間ではなかった。廊下の気配を気にしながらなのが、おもな理由だ。
「なんか、しょっぱいね」
「それは、誰かさんのせいだよ」
「えー、なんの話しかなあ」
穏香は、ふいに隼人から距離をとった。窓際に行ってしばし外を見た後、ゆっくりと隼人のもとへと戻った。瞳と瞳が再び釘付けとなる。二人がもう一度触れ合おうとした時だった。
「あれえ、カギかかってる」
化学室との連絡ドアのドアノブを、誰かがガチャガチャと回していた。
「マズい。近藤先生だ」
「え、どうしよう」
「そっちから出よう」
二人は廊下側のドアから脱出しようとした。
「こっちもカギがかかっているぞ」
廊下側のドアノブもガチャガチャしていた。連絡ドアのドアノブよりも、より力強く乱暴だった。
「この声は高嶋先生よ」
「それ、めっちゃマズい」
化学準備室で、二人仲良くお茶を飲んでいるところを高嶋教諭に見つかるのは絶対に避けなければならない。穏香はともかく、隼人には制裁の鉄拳が飛ぶこと間違いなしだ。
また二人が付き合っていることが、朝比南高校全体に公となってしまう。なぜなら、高嶋教諭は生徒の色恋沙汰が大好きであり、しかもすぐに吹聴したがるからだ。
「カギはもってきましたよ、近藤先生」
「そうですか。それではそっちから入ってくれますか、高嶋先生」
高嶋教諭は化学準備室のカギを持参していた。二人の密会に終止符が打たれるまで、あと十秒ほどだろう。
「どうしうよう。もうだめだ」
「大丈夫、私に考えがある。隼人は机の影に隠れて」
そう言うと、穏香は唐突に制服の上着を脱いだ。さらにブラウスを脱いでスカートを下げ始めた。
「うわあ、つ、穏香。なにしてんだよ、こんなところで。そういうことは俺の部屋でやれよ」
その衝撃的な光景は、彼の瞳にしっかりと焼きついた。
「なに勘違いしてるのよ、バカ。あっち向いてて。そのカップをもって早く隠れて」
穏香はスカートを脱いだ。いまこの瞬間を逃してはなるものかと、隼人がモタモタしている。イラついた彼女は、彼の服をつかんで無理矢理机の影へと押し込めた。
「そこから絶対に出ないでよ」
なにがなんだかわからず、隼人は二つのマグカップを持ったまま、いわれた通りに机の影にしゃがんで身を隠した。以前、穏香の足をつかんでしまった時と同じ状況だ。ただし、今回は、穏香が下着だけのあられもない姿であるということが違っていた。
「なんで、カギがかかっているんだよ。開けておいたのに、おかしいなあ」
廊下側のドアから高嶋教諭が入ってきた。間髪を入れずに、穏香が叫び声をあげた。
「キャー、痴漢」
穏香は身をよじってしゃがんだ。悲鳴を聞いて、すぐに愛子担任もやってきた。
「い、いや。俺は何もしてないぞ」
高嶋教諭が必死に手を振っていた。
「綾瀬さんじゃないか。どうしたんだよ」
「ジャージに着替えていたら、いきなり高嶋先生が入ってきて、ジロジロみるんです」
「いや、俺は誰もいないと思ったんだよ。女子が着替えているなんて、知らなかったさ。じろじろなんて見てないぞ」
さすがにバツが悪そうだった。
「はいはい。高嶋先生は、とりあえず席を外しましょうね」
俺にそんなつもりはなかったんだ、と言い訳しながら、高嶋教諭は化学準備室から排除された。
「とにかく綾瀬さん、服着ようか。ところで、なんでここで着替えなんてしてるの。そういえば、十文字が掃除していたはずだけども」
「十文字君は帰りました」
穏香は制服を着始めた。そのすぐ横で、マグカップを持った隼人がじっと見ている。
「じゃあ、綾瀬さんはなんでここに」
「私はジャージに着替えて、これから生徒会の用事に行くんです」
「生徒会の連中なら、もう帰ったよ」
「そうです。生徒会の人たちはカラオケに行きました」
「え、あいつらカラオケかよ」
カラオケに行ったのは友香子たちであったが、ウソを重ねていた穏香は動揺していた。前後の事柄がこんがらがっている。
「で、綾瀬さんは」
「私はカラオケには行きませんでした」
「知ってるよ。で」
あまりにも必死になって誤魔化そうとする真顔の穏香を、愛子担任は弄ぶように尋問する。隠し事をしていると察知していた。
「カラオケには行けませんでしたので着替えていました」
「ほほう。なんで」
「体育祭の準備のためです」
「体育祭は十月だよう」
「知っています。でも、早いにこしたことはありません」
「早すぎるよ。それに着替えているわりには、どこにもジャージがないねえ」
「ジャージはカラオケにいきました」
支離滅裂になっても真面目にシラを切るフェローがおかしくて、愛子担任はたまらず大笑いした。
「ごめんごめん、笑っちゃって。まあ最近じゃあ、ジャージもカラオケに行くほど忙しいかなって思って」
穏香の頭の中は、もうまっ白である。これ以上ウソつくことも、言葉を発することもできなかった。ただ、呆然と突っ立っているだけだ。
「先生はもう行くね」
担任が帰ろうとドアに向かった。なにも言わないまま穏香もついて行った。
「ああ、それからね、今度十文字に会ったら伝えておいてほしいのだけど」
穏香を通りこして、その向こうの方へ大きな声を放り投げた。
「彼女を裸にしてまでコソコソ隠れるのは、男としてどうなのかな、ってさ」
ニコニコしながら近藤教諭は去っていった。穏香は申し訳なさそうに見送った。
「ははは、バレてたみたい。いい作戦だと思ったんだけど」
裸で着替え作戦は、半分成功で半分失敗だった。近藤教諭は隼人の存在に感づいていたし、そこから二人が付き合っているとの結論を容易に導きだしていた。
「ごめん。先生の言う通りだ。穏香にあんな恥ずかしいことをさせて、俺はコソコソと隠れて卑怯だよ。かえって堂々としていればよかったんだ」
「気にしない気にしない。いざとなったら女の方が強いの」
落ち込んでいる隼人を励ますように、穏香は力こぶを作って強さをアピールした。
「俺たちのこと、近藤先生には話しておこうか」
「そうね。先生でなければ、見逃してもらえなかったものね」
二人はスジを通しておくべきだとの結論に達した。それと、心のどこかでよき理解者を求めていたということもあるだろう。恋愛は二人だけのものだけれども、それを二人だけですべて背負い込むのは重すぎるのだ。
だから化学準備室を片付けたあと、職員玄関の横に張り込んでいた。ややしばらくして、近藤教諭がやってきた。まず隼人が呼び止めて、言葉がつっかかりながらも、穏香と恋人同士であると告げた。すぐに穏香が続き、さっきは下手な芝居で申し訳なかったと深々と頭を下げた。
「ははは、いいよいいよ、若いんだからさ。でも、他の先生には知られないほうがいいんじゃないかな」
教師だけではなく、他の生徒にも内緒にしてほしいと頼み込んだ。
「先生は口がかたいから大丈夫だよ。でもね、学校内であんまりイチャイチャするのもどうかと思うよ」
「す、すみません」
「反省しています」
今度は二人そろって頭を下げた。
「そうだ。前に寿司をおごる約束をしてすっぽかしたことがあったけ。ちょっと給料前で寿司は無理だけど、これから牛丼でもどうだい」
隼人と穏香は、お互いの顔を見た。そしてニンマリ笑って頷いた。
「喜んで」
「先生、俺、大盛りでもいいですか」
「もちろん、いいよ。みんなでメガ盛り牛丼を食べよう」
「はい」
「よし、食うぞ」
近藤教諭が靴を履き替えた。そして穏香と隼人に駐車場まで来るように指示してから、ふとつぶやいた。
「そういえば、あの日はバレンタインデーだったな。はは~ん、そうか、だから綾瀬さんがいたのか。あのフルートの腕前でよく来れたなって、おかしいと思ったんだよ」
「先生、穏香はそのう、あのフルートは本気だったみたいですよ」
「え、そうなのか」
「私のフルート、おかしかったかしら」
そういってから、穏香は意地悪そうに微笑んだ。
「はいはい、わかったよ。おまえたちが熱々だってことがよくわかったさ。だから、とっとと駐車場に来い。おいていくぞ」
やや経ってからから、軽自動車が朝比南高校を後にした。後部座席の二人が、お互いの身体をぴったりと密着させていたのは車の狭さだけではないだろうと、運転手はルームミラーをチラチラ見ながら思った。
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