第19話

 朝比南高校二年A組は、新たな年度を迎えて三年A組となった。クラスがそのまま進級しただけなので、担任含めて、生徒たちに変更はなかった。席順は都度入れ替えがあったが、なぜか教室の後ろのメンバーは、だいたい同じ顔触れになっていた。

 綾瀬穏香は相変わらずフェローであり、放課後は生徒会関係の仕事を手伝って忙しかった。十文字隼人は、バイトはもうやめているのでヒマがあった。だから、例のごとく化学室の掃除をして彼女との密会をこころみるが、同じくヒマを持て余している修二や田原などがやってきて、穏香が入り込むスキを与えないことが多かった。

 また、二人の仲をことあるごとに邪魔していたナオミ・K・ブルベイカーは、親友とともに大学へ進学してしまった。ド級美女がいなくなって華がなくなったと思われた朝比南高校だったが、新入生にアイドル級の美少女がいると噂になっていた。


「一年生にすごい可愛い子がいるって知っているか。昨日チラッとみたけど、下手なアイドルなんか勝負にならないよ」

 放課後の化学室、黒いテーブルの上でトランプのカードを配りながら修二が言った。

「なんだ、今頃その話題かよ。相変わらず情報がおそいな。彼女、十文字來未っていうんだぜ」

「さすが田原、そういう情報はよく知ってるよ。えっ、十文字って、十文字かよ」

 田原は、隣に座っている隼人をニヤつきながら見ていた。

「まさか十文字の妹か」

 隼人は興味なさそうに頷いた。

「マジか、ホントか」

 修二は、心底驚いている様子だった。

「まあ兄がいる前でいうのもなんだが、すんげえ美少女で、あのナオミ・K・ブルベイカーを超えるかもっていわれてんだぞ。二人が揃ったら外国人美女V大和なでしこだったのになあ」

 相変わらず隼人は表情を変えない。田原のババを引いてしまい、やっと苦い顔をしていた。

「十文字の家って、てっきりホームレスかと思ってたけれど、違ったんだ」

「それはあんまりにも失礼だぞ、修二」

 修二は頭を掻きながら、わるいわるいと言っていた。

「おおー、なんという奇跡。噂をすれば、そのアイドルが来たよ」

 田原が廊下のほうを見て、ヒューと声を洩らした。ニタニタと、いやらしい笑みを浮かべて隼人を見た。

 十文字來未がやってきたのだ。たまたま化学室の前を通りかかったら隼人の姿を見つけたので、ひやかしてやるつもりだった。兄以外にも上級生がいるのだが、まったく気にする様子はない。

「なんか用か。金ならないぞ」

 隼人の後ろに立った美少女に、振り返りもせずに言った。

「べつに。ヤロウたちがガン首そろえて、なにくだらねえことしてんのかなって思ってさ」

 美少女な顔とヤサグレた言動が合致しなく、修二と田原は大いに戸惑っていた。

「ははは、ええーっと來未ちゃんかな。俺は十文字の友達の田原っていうんだ。こっちは修二」

「はあ? きいてねえよ、ハゲ」

 まったく予期せぬ言葉が投げつけられた。田原の顔が引きつり、修二もなにも言いだせないでいる。

「ちょっとこっち来い、來未」

 友人に対してあまりに失礼な態度だったので、隼人は妹の腕をつかんで、そのまま廊下へと引っぱって行った。。

「離せよ、何するんだよ。痛えだろう」

 來未は隼人の足を何度も蹴った。彼女は高校生になってから、言動と挙動がますます一致するようになっていた。

「イタタ。こら、なにするんだよ」

 ひるむ兄に、妹の蹴り攻撃は容赦がない。 

「ちょ、ちょっと、やめろって」

 修二が駆け寄ってきた。兄妹の中に入り仲裁しようとするが、やぶ蛇だった。美少女の蹴りが、今度は彼に集中することになった。

「痛っ、ちょっと、來未ちゃん。乱暴はやめようね。おい、田原」

 來未の暴力は止まらない。修二はたまらず親友に助けを乞うが、これはかかわってはダメな案件だと速断した田原は、一人トランプをやり続けるのだった。

 暴れる美少女を、隼人と修二がなんとか押さえ込もうとしていた。顔は絶妙に可愛いいくせして、來未の力は予想外に強かった。二人は本気を出さなければならなかった。

「チカーン」

 形勢が不利になったので、來未は大声をだした。

「ヘンタイにおそわれるう」

「あなたたち、何してんのよ」

 具合の悪いことに、ちょうどそこに生徒会の女子たちが通りかかった。さも汚らしいものを見るような目つきで、隼人と修二を凝視していた。

「このひとたちが、いやらしいことするんです。助けて」

 美少女は、とびきりの被害者顔をした。女子たちは、隼人と修二を即座に危険人物と認識し、彼らに対して固く身構えた。

「い、いやいや、ち、ちがうって」修二は激しく狼狽する。

「お、俺は身内だから。こいつのアニキだから」

 男子二人は身の潔白を訴えた。だが、美少女vsホームレスとその仲間では、どちらの言い分を信用するか、誰の目にもあきらかだった。

「あら、十文字君と上谷君じゃないの。どうしたの」

 その時、女子たちの後ろから現われたのは穏香だった。生徒会の仕事を一緒に手伝っていたのだ。

「ぐぎゃあーー。でたなー、このう、このう」

 可哀そうな被害者であるはずの來未が一変した。ヒグマに遭遇したヒョウみたいに、鋭い視線を投げつけたまま、シャーシャー唸っていた。

 バレンタインデーのチョコレートを食べて以来、その衝撃的な味付けにショックを受けた來未は、穏香に対してとてもネガティブな感情を抱いていた。

 綾瀬穏香という女を、好きで付き合っている彼氏に対して、下水を濃縮したようなチョコレートケーキを食わせて喜ぶ倒錯者であるとみなしていた。來未にとって、朝比南高校で、もっとも注意しなければならない相手となっていた。

「ぎゃうう、ぎーぎー」

 もはや、なんらかの獣と化した美少女は、ひとしきり威嚇した後、唐突に走り去ってしまった。生徒会の女子たちは呆気にとられている。

「いまのは、なに?」

「わかんない」

 穏香が隼人と修二に対し親しく接しているし、被害者は逃走してしまったので、痴漢容疑を問い詰められることはなかった。あの一年生なんだろうね、と生徒会の女子たちが言っている。彼女たちはそのまま戻った。穏香は、なんとなくその場に残った。

「今日の來未ちゃん、なんかヘンね」

 なにげなく言ってしまったのだが、それは不注意な発言だった。

「綾瀬さんは十文字の妹を知っているの」

 修二にそう言われて、穏香はしまったと思った。穏香と來未との間に親交があるのなら、隼人と穏香の間にも、なんらかの関係があるとわかってしまう。

「う、うん。だってほら、私ってA組のフェローでしょう」

「フェローって、一年生の世話までしてるんだっけ」

「え」

「え」

 二人の会話はかみ合わない。穏香は別な話題をだして誤魔化そうと思ったが、気の利いた話をきり出すことができないでいた。

「綾瀬さんは世話好きだから、一年生の担任に頼まれているんだよな」

 横から助け舟を出したのは隼人だ。もちろん、関係が知られて困るのは彼も同じだからだ。

「そうそう、私って世話好きな女子だから、よく頼まれるの。だって世話好きじゃない、私って。だって世話好きだから」

 動揺しながら話しているので、何度も同じ言葉を繰り返していた

「へえ、綾瀬さんもたいへんだな」

 そこに田原がやってきた。三人の話を聞いていて、とある疑問を言いにきたのだ。

「それにしても、十文字の妹がフェローをまじめにやるタイプには見えないけどな。どっちかっていうと、他の組に見境なくケンカ売って、朝比南のテッペンを目指すんじゃないか」

 兄である隼人が、うんうんと頷いていた。來未をもっともよく知っている男だからこそ、田原の見解に納得できた。

 即座に穏香のつま先が隼人のスネをヒットした。彼女の鋭い目を見て、ここは否定しなければならない場面だと理解する。

「ちょと田原、それは言いすぎだろう。たしかに來未は口が悪くて手が早いうえに、毒ヘビのように執念深く嫉妬深くて非常に扱いづらいけれど、責任感は普通にあるんだよ」

 まったくフォローになっていなかったが、口を尖らして妹を庇う兄の姿に、修二も田原も、それ以上來未の話題を掘り下げようとはしなかった。

「あれえ、みんなで何しるのさ」

 そこに通りかかったのは友香子だ。今日はバイトのシフトが入っていないので、誰かをカラオケに誘おうと探していたのだ。

「綾瀬さんは友香子と違って、まじめだなって話だよ」

 田原がそう言うと、なぜか友香子は胸を張って返答した。

「あたしだってまじめだよ。ふざけたことを、まじめにするんだ」

 はははと笑った。穏香は愛想笑いをしている。

「なあ、これからカラオケに行かないか。今日ヒマなんだよ」

「お、いいね。みんなで行ったほうが楽しいよな」

「友香子のおごりときいては、ぜひともいかないと」

「だれのおごりだって。あんたにはこの前のパンの貸しがあるんだから、今日は修二のおごりだよ」

「じゃあ、飲み食いも修二につけとくか」田原も調子にのっている。

 いつもの三人が仲良くじゃれ合っていた。

 隼人と穏香は、ほんの少し距離をおいている。三人に気づかれないように、微妙なアイコンタクトで彼らの会話圏外から脱出しようとしていた。

「よし、行こう。綾瀬と十文字もくるんだよ」

 友香子は、躊躇なく二人を誘った。この分け隔てのないサバサバした性格が彼女の持ち味だ。女だてらに度胸もあって、クラスでは姐御的なポジションを得ている。

「俺はここの掃除をしなけりゃならないから、そのう、遠慮しとくよ」

「金なら大丈夫だよ。十文字の分はみんなで割り勘するから」

 隼人が窮乏状態であると、いまだに多くの生徒が信じている。

「いや、そういうことじゃないんだ。ホントに掃除を終わらせないと、近藤先生にどやされるから。悪いな」

 さっきまでトランプをしていたので、掃除がまったく進んでいないのは事実だった。

「私もごめんなさい。これから生徒会に行かなくちゃ」

 生徒会の用事はとっくに片づけていたのだが、彼女には行けない理由がある。

「なんだよ。せっかくみんなで楽しくと思ったのにさ」

 結局、友香子と修二、そして田原の三人でカラオケに行くこととなった。隼人はモップを持って、化学室の床を拭き始めた。

「それじゃあ、私は生徒会に行かないと」

 穏香も歩きだした。だが生徒会に行くつもりはない。さっきのアイコンタクトで、隼人と化学準備室での密会の約束を交わしていたからだ。

 したがって、彼女は歩き続ける。もうそろそろ友香子たちがいなくなるだろうと見当をつけて、再び化学室の前を通りかかった。

「あれ、綾瀬、どうしたの」

 しかし、カラオケ組の三人はまだそこにいた。高校生らしくウダウダと、なんとなくじゃれ合っていたのだ。

「え、私は生徒会に行くのだけど」

「いや、ここ化学室だし。さっき生徒会に行くって言ったじゃん」

「そうよ。だから歩いているの」

「だから、ここは化学室だって」

「そうよ、ここは化学室」

「へ」

「え」

 かみ合わない会話が続いた。隼人に会いにきたとは口が裂けても言えない。穏香は、すっとぼけた態度を貫いていた。

「なあ、そろそろ行こうぜ。おそくなると、料金が高くなるからさ」

「もうこんな時間か。ほら友香子、行くぞ」

「う、うん」

 なんだか納得できなくて消化不良をおこしている友香子を、修二と田原がせっついた。

「じゃあ、私も生徒会室へ行くかな」

 一足先に、穏香が化学室をあとにした。

「なんかさあ、最近の綾瀬ってヘンじゃないか」友香子は首を傾げていた。

「そうかなあ。べつにふつうだけども」

「そういえば、なんとなく色っぽくなったような」

「さすがあたしたちの田原。目の付けどころが、相変わらずエロいねえ」

 ワイワイ騒ぎながら、三人の男女も化学室を去った。

 化学室に残されたのは隼人のみとなった。殊勝にも一生懸命にモップを動かしているが、視線は廊下を気にしていた。

 化学室の前を女子が一人通りかかった。彼女は化学室をチラリと一瞥しただけで、そのまま通りすぎてしまった。隼人はモップがけをやめた。周囲に誰もいないことを確認してから、そそーっと準備室へと入った。さらに約一分三十秒後、さっきの女子がやってきて、ささーっと化学室に入り、さらに化学準備室へと入っていった。


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