第16話
待ち合わせをした楽器店の前に十文字はいなかった。寒い中で待っていたので、ひょっとしたら帰ってしまったのではと、綾瀬は心配になった。
「綾瀬さん、こっちこっち」
自動ドアが開いて、十文字が現れた。
「そんなとこに入って大丈夫なの」
楽器店は、用もない一般の人には入りにくい。
「大丈夫だよ。だってここ、親戚がやってるんだから」
「え、そうなの」
その楽器店は、十文字の母親の兄が経営している。彼が幼少期からドラムに目覚めたのも、この店でドラムを触らしてもらっていたからだ。
「中に、ちょっとしたスタジオがあるんだ。とにかく、入って入って」
綾瀬の袖をつかんで、店の中へと引き入れた。
「楽器がいっぱいあるんだ」
ギターやキーボード、トランペットにサックス、とにかくたくさんの楽器があった。
「まあ、楽器屋さんだからね」
店主がやってきた。十文字は伯父に綾瀬を紹介した。
「隼人がドラム以外で興味を示すなんてなあ。まあ、こんなに可愛い女の子なら、むりはないわな」
伯父には、付き合っている彼女だと正直に伝えてある。
「せっかく彼女が来たんだから、ドラムの腕を見せてやれよ」
店主に言われるまでもなく、彼はそうしようと思っていた。
じつは今日のデートの途中に、綾瀬との雰囲気が良くなったころを見計らって、ここに連れてこようと計画していたのだ。
「ジャジャーン」
小さなスタジオに入るなり、十文字はさも自慢げに胸をはった。
「すごい。立派なドラム」
そこには、アコースティックなドラムセットがあった。
「俺の部屋のシンセドラムとは、趣きっていうか、気品っていうか、なんか違うだろう」
十文字は愛しそうな目でドラムを舐め回した後、椅子に座った。スティックを手にして、叩く準備をしている。
「リクエストしてよ。綾瀬さんの好きな曲を叩くから」
突然そう言われて、綾瀬は戸惑ってしまった。音楽はなんとなく聞くくらいで、とくにファンになっているグループなどなかった。
「前は來未に邪魔されたから、今日は最後まで聴かせるよ」
「うう~ん、じゃあ、クラッシックならなんとか」
「クラッシックは叩きづらいなあ。ううん、そうだ。これならどうだい」
曲の伴奏が始まった。音源は、別の機器から流れている。その曲に彼のドラムが加わるのだ。
「ああ、これって、あのアニメの」
昭和時代から放送され続けている国民的アニメのエンディングテーマ曲だった。十文字の手数の多いドラムが、聴きなれて平凡となっているメロディーに香味を与えている。
「綾瀬さん、俺の横に来なよ。そこに椅子あるから」
得意のドラムをたたいて気を良くしたのか、十文字はいつになく積極的だった。彼のリードに促されるまま、綾瀬は丸椅子を持ってきて横に置いた。
「もうちょっと近くの方が聞こえやすいよ」
そう言って、丸椅子を極限まで近づけた。それではかえって演奏しづらくなるのだが、十文字には別の考えがあった。
「え、ちょっと、それは無理」
十文字は綾瀬の手にスティックを握らせて、目の前のタムタムを叩くように促した。
「ほら、このペダルも踏んでみて」
綾瀬はドラマーにリードされるまま叩き、バスドラムのペダルを踏んだ。思ったよりしっかりした音が出たので、うれしくなった。
もう、二人の身体はぴったりとくっ付いている。綾瀬の温もりを、十文字の暖かさを、お互いが感じとっていた。
不意に、綾瀬の手を握っていた力が強くなった。狭いスタジオ内の空気が張りつめた。十文字の顔が、奇妙な角度をもって接近していた。接吻の予感に両者の鼓動は乱れ打ちとなった。
「あやせさん」
「待って」
ギリギリまで接近した十文字の顔を軽く押し戻した綾瀬は、彼の無秩序な髪を両手で絞った。そして、そのまま後ろに流した。
「うん、これでよし」
「ほんとにいいの」
白日のもとにさらされた十文字の顔が許可を求めていた。あのナオミ・K・ブルベイカーの女心を揺さぶった、美しい顔である。
「いいよ」と言い終わる前に、唇同士が触れ合った。
十文字も、綾瀬も、キスは初めてだった。だから、お互いの感情や欲情を求め合うというよりも、ただやみくもに自らの衝動を押しつけているといった様子だった。とくに十文字は、綾瀬の唇があまりにも柔らかいのに感動しきりで、この時が永遠に続けと強く願っていた。
気持ちの高揚感と別に、とても息苦しい状態だった。綾瀬はバスドラムのペダルを何度も踏み続けていた。ドン、ドドドン、ドン、と不規則な重低音が響く。
「ちょ、ちょっと、十文字君。苦しくて」
「ごめん、つい」
二人の唇は、いったん離れた。お互いにやり過ぎたことを認めたが、感情は治まることを知らないようだ。瞳が見つめ合ったままだった。強力な電磁石にスイッチが入ったごとく、若い唇は再び引き合い始めた。
「アニキ、きてるんだって」
ドアを蹴破るように入ってきて、開口一番そう言ったのは、隼人の妹、來未だった。
十文字と綾瀬の唇はあと一センチまで接近していたが、そのわずかのすき間で何かが爆発した。強力な反作用が働き、二人は弾かれるように顔を離した。
「あ、ごめん。なんか、スゲー取り込み中だったかな」
來未は腕を組んで立っていた。疑惑の目線を投げつけている。
「いや、別に。ただ綾瀬さんにドラムの叩き方を教えていただけだから」
「そうそう。だって十文字君、上手だから」
ただでさえ感が鋭い娘である。見え透いたウソなどまったく通用しない。むしろ逆手にとられてしまうのだ。
「あれえ、アニキ、キスマークついてるぞ」
「え、ウソっ」
十文字は慌てて唇をさすった。
「なんだよ、ベロチューしてたのか、ベロチュー」
年下の女子にからかうように言われても、綾瀬は言い返せなかった。まっ赤になりながら、ひたすらうつむいていた。
「そんなのおまえに関係ないだろう。何しにきたんだよ。用がないなら帰れよ」
「伯父さんのとこで片づけのバイトするって、言ったじゃないか。女とイチャつくことに夢中で、人の話しきいてないんだよなあ」
たしかに、來未はそのことを兄に告げていた。
「だったら、バイトしてこいよ」
「いや、だからこの部屋に一時的に荷物をうつすんだってさ」
二人は仕事の妨げになっていることに気づいた。色恋に呆けて、善良な中学生女子の邪魔をしているのだ。
「あ、うん」隼人は、適切な言葉を探せないでいた。
「あと五分待ってやるよ。続きをするんだったらお早めに。じゃあね」
來未は出ていった。
「これは、そうの、ははは」
「今日はもう帰りましょうよ。なんか、いっぱいいっぱいになっちゃった」
綾瀬は急がなかった。
「そうだね、いろいろあったしね。俺、綾瀬さんを送っていくよ」
「そのう、一つお願いがあるのだけど」
「うん、なに」
「私たち、付き合うことになったんだから、苗字じゃなくて、名前で呼び合わない」
若い男女が付き合い始めると、往々にして女子の方が積極的になる。男子は、付き合い始めるまではあれこれ妄想するが、魚が釣れると淡泊になる者も少なからずいる。十文字の情熱が冷めることはなかったが、そういった細かいことには気が回らなかった。
「ええっと、じゃあ、穏香、でいいのかな。はは、なんか呼び捨てじゃあ悪いような」照れくさくて、十文字は言いにくそうだった。
「全然大丈夫だよ、隼人」
ニッコリと微笑む彼女の顔を見て、彼は十分な安心感をもらった。
「あ、でも他の人の前では、いままで通り綾瀬さんでお願いね」
「わかったよ、穏香」
それからきっかり五分間話して、二人はスタジオを出た。
一時、異様な盛り上がりを見せたキスの衝動は、來未の侵入によって抑制されていた。それでも血気盛んな十文字は出際に顔を近づけるが、彼女がやんわりと押し返すのだった。
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