第17話

 正式な初デートからしばしの時が流れた。

 隼人と穏香は、順調に彼氏彼女を続けている。ただし、熱いキスはスタジオでした一回のみで、それ以降はなかった。親密になるのを、両方とも急がなかったからだ。むしろ、プラトニックな付き合いがどうしようもなく心地よくて、淡い時を楽しんでいた。

「そうだ、隼人。十四日はあいてるでしょう」

 モップをさも忙しそうに動かしながら穏香が言った。

「その日はダメだよ。休みだから朝からドラムの練習なんだ」

「え」

 否定的な答えが返ってくるとは予想していなかった。穏香はモップの手を止めて、彼を見つめた。

「なあんてね。そんなわけないじゃん。しっかりヒマだよ」

「っもう」

 モップの柄で、彼の頭をコツンと叩いた。その力が少しばかり強くて、隼人は痛そうによろめいた。

「ごめんなさい。ちょっと強すぎた」

 二人は、放課後の化学室を掃除している。

 ここ最近、隼人が愛子担任に掃除をさせてくださいと直訴していたからだ。優等生でもない隼人がなぜ掃除などやりたがるのか。もちろん、化学室に利用価値があるからだ。そこで掃除をしているフリをして、彼女と密会している。

 穏香は、フェローとして仕方なく手伝っているというサル芝居をしていた。クラスメートの女子は、綾瀬が可哀そうであると十文字の陰口をたたく者もいた。真相を知ったら穏香の立場は危うくなるだろう。

「おう、やってるかー」

 穏香が彼の頭をさすっていると、近藤教諭が唐突に入ってきた。両名は、弾かれたように離れた。

「なんだ、十文字。また綾瀬さんに迷惑かけてるのか」

 担任は隼人と穏香の仲に気づいていない。男欠乏症なうえに日々の酒量増加のため、恋愛脳がすっかり錆びついていた。

「そうなんです。十文字君がサボるんですよ、先生」

「こらあ、十文字。ここの掃除はおまえが志願したんだぞ。女の子に押しつけるのは、男として卑怯だな」

 担任の後ろで、穏香は舌を出していた。隼人は、後で無理矢理キスをしてやろうかと考えていた。

「そういうことならキツい説教をしてやらないとならないが、まあ、今日のところは勘弁してやろう。というのもな、ちょっと十文字に頼みたいことがあるんだよ」

 担任がすり寄ってきた。物理的な何かをされるのではないかと、隼人は緊張した。

「そう身構えるなよ。そんなに悪い話じゃないぞ」

 愛子担任からは、隼人を逃がさないように束縛のオーラがあふれ出ていた。

「じつは甥っ子が、ていうかまだ小学生なんだけれども、どうやら音楽に目覚めたらしいんだ。しかも、太鼓だよ太鼓。英語でいうとドラムだね」

 なにか違うんじゃないかと思った穏香だったが、あえて口は挟まなかった。

「高嶋先生にきいたんだけど、十文字、おまえはドラムをやるそうじゃないか」

 朝比南高校にいる者で、十文字がドラムをしていることを知っているのは、穏香のほかには高嶋教諭だけだ。高嶋は自身も中年バンドを組んでいるので、街の楽器店のスタジオを利用している。そこで、ドラムを叩いている十文字を見かけたのだ。

「ええっと、少しですけど」

 面倒なことを注文されそうなので、隼人は控えめに答えた。

「スタジオにドラムがあるって聞いたぞ」

「ほんの少しですけど」

 さらに面倒なことをさせられる予感がしたので、目を合わせないようにやや下を向いた。

「よし、わかった」

 なにを了解したのか隼人にはわからなかったが、とりあえず要求がなかったのでホッとした。

「だからさあ、ちょとでいいから、甥っ子に叩かせてやってくれないか」

 しかし、時間差をおいてしっかりとやってきた。

「ええーっ」

「なあ、たのむよ。もう姉貴にOKしちまったんだよ。わたしのメンツがかかっているから、今さら断れないんだよ。甥っ子も喜んじゃってるし。一回だけでいいんだ。タダでとは言わないからさあ。お昼に駅前の回転すし屋で死ぬほど食わせてやるから」

 回転すし屋で食べ放題はとても魅力的だったが、せっかく買った新品ドラムを、小学生なんぞに叩かされるのはイヤだと思っていた。傷をつけられたり、最悪壊されたりする可能性が高い。すぐに断ろうとした時だった

「この通りだ。たのむよ、十文字君」

 愛子担任に初めて君づけされた隼人は、大人が両手を合わせて自分を拝んでいるので、イヤとは言い出せなかった。    

「それは、是非とも教えてあげるべきよ」

 穏香が愛子担任の味方をする。顔はニヤニヤしていた。彼氏を困らせて、よろこんでいる小悪魔なのだ。

 ふー、と息を吐いてから隼人が言う。

「はいはい、わかりました。でも、一回だけですよ」

「ありがとう。十文字君ならそう言ってくれると思ったよ」

 愛子担任はなにかと面倒見はいいが、いっぽうで毒ヘビのような執念深さを持っていると、生徒たちの間では噂になっていた。無碍に断って恨みを買うのは得策ではないと、極めて妥当な判断をした。

「頑張ってね。十文字君。ふふふ」

 教師の背後で、小悪魔がダメを押すように言った。慣れないウインクなどして、彼氏を挑発している。あとで、キスどころか抱きしめてやろうと隼人は企んでいた。

「じゃあ十四日の十時に、楽器店に甥っ子を連れてい行くからな。朝飯は食ってくるなよ。寿司を腹いっぱい食わせてやるから」

 愛子担任は、上機嫌で化学室を出ていった。

「ちょっとお、十四日はあけておいてって言ったじゃないの」

「え、あ、そうだ。うわあ、なんでよりによって十四日の日なんだよ」

 二月十四日はバレンタインデーである。穏香は手作りチョコレートを作って、隼人の部屋へ押しかけようと計画していたのだ。

「どうするのよ」

「どうするって、穏香があおるようなこと言うからじゃないか」

「だって、まさか十四日にするなんて思わないじゃないの」

 まさかその日にぶつけてくるとは、穏香は考えもしなかった。

「バレンタインの日に、知らないガキんちょと一緒って、なんの罰ゲームだよ」

「私だって、いろいろ考えていたのに。隼人が安請け合いするからよ」

「そうしろって言ったのは、穏香じゃないか」

「言ってない」

「言ったよ」

 化学室の真ん中で、十文字隼人と綾瀬穏香が言い合いをしていた。たまたま通りかかったA組の女子がその様子を見て、掃除をサボる男子をフェローが叱りつけていると判断した。まさか痴話げんかしているとは思わなかった。

「まだ職員室にいるはずだから、断ってきなさいよ」

「いまさらそんなことできないよ。穏香だって近藤先生の執念深さを知っているだろう」

「ま、まあ、そうね。女子からもヘビ女っていわれてるから」

 困ったことになった。どうしたらよいのか、二人はしばし無言で考えていた。

「わかったよ。土下座してでも断ってくるから。職員室に行ってくるわ」

 隼人にとって、十四日の行事はなんとしても遂行しなければならないのだ。

「いや、ダメよ。そんなことしたら、あとで絶対なにかされる」

「ならどうするんだよ」

 穏香はニヤリとした。妙案をひらめいたようだ。

「行くのよ。そしてちびっ子にドラムを教えるの」

「そんなことしたら、せっかくのバレンタインデーが台無しだよ。その日は穏香と一緒にいたいんだよ」

「それは大丈夫。私もあの楽器店に行くから」

 穏香は楽器店に行くつもりだった。正々堂々と、さらに真正面から行く旨を隼人に告げた。

「そんなことしたら、俺たちが付き合ってるってバレるじゃないか」

「それも大丈夫。この稀代の策士、綾瀬穏香にまかせなさいって」

 どんな作戦なのか訊ねても、彼女は言わなかった。ただ、ふふふと自信ありげに笑うだけだ。

 隼人が準備室のドアを開けて、中へと穏香を誘った。先ほどの決意通り、彼女の身体にやさしく手を回して引き付けた。そして、二人は熱のこもったキスを交わすのだった。

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