第14話
翌日、待ち合わせの場所に十文字がいた。綾瀬はまだいない。なぜなら、待ち合わせ時間の二時間前だからだ。今日だけは遅刻してはならないと、張りきっているのだ。
綾瀬は三十分前にやってきた。派手さはないが、可愛らしく小ぎれいにまとまった服装での登場だ。彼氏の胸の鈴が、リンリンと鳴り止まない。
十文字は、ちょっと高そうなジャケットに中年臭いコートとパンツでキメていた。高校生にしては分不相応な服装であり、それでも頑張って着こなしていたが、鳥の巣頭と巨大色眼鏡なままなので、せっかくのオシャレが相殺されていた。
「今日の十文字君はすごいね。なんだかステキだよ」
それでも彼女は彼氏を大いに褒めた。普段はだらしない男が、自分のために精一杯頑張ってくれたことがうれしかったのだ。二人は映画館へと歩きだした。
並んで歩きながら、十文字はそれとなく肘に角度をつけていた。ぜひとも腕を組んでほしいのだが、なかなか言えないでいた。時おり綾瀬を見てサインを送るが、彼女は、ん?という表情をするだけで、微妙な男心に気づくことはなかった。
二人が映画館に到着した。シネコンの売店で、十文字が大きな入れ物のポップコーンとジュースを買った。綾瀬は割り勘を主張したが、十文字は受け付けなかった。今日は全部俺のおごりだと、凛々しく言い放つのだった。それじゃあお言葉に甘えてと、綾瀬は財布をしまった。
チケットは指定席だったが、劇場内には客があまりいなかったので、真ん中付近の席を自由に選んだ。バケツほどのポップコーンを抱えた十文字は、それを綾瀬がとりやすいような位置に掲げた。すぐに、ポリポリと小気味よい噛み音が聞こえてきた。
「綾瀬さんって、ポップコーン好きだったんだね」
小声で言った。ただし、映画が始まっているので顔はまっすぐ前を見ていた。
「私、食べてないよ」
「えっ」
ポップコーンのバケツ容器に手を突っ込んでいるのは綾瀬ではなかった。
「これめっちゃおいしいね。千早も食べなよ」
「ちょっと、ナオミ、それやりすぎだって」
「どうしてよ。だって、そこにポップコーンがあるじゃないの」
二人の真後ろの席に、ナオミと千早が座っていた。後ろから手を伸ばして、ポップコーンをつまんでいる。
「な、なんで先輩たちがここに」
その声が甲高くて、前の席にいた中年男が振り返った。
「なんでって、この映画見たかったから千早誘って来ただけよ。そうしたら後輩が偶然目の前にいて、このポップコーンを召し上がれって、差し出してくれたから食べてるの」うん、これはうまいと、相変わらずのペースでボリボリしていた。
ナオミは、最初っから十文字と綾瀬のデートにまとわりつくつもりだったのだと、さすがの鈍感男でもわかった。二人のデートを見物して、面白がるつもりなのだ。
あのチケットはワナだったのか。ぐぬぬぬ、と心の中で歯ぎしりをする十文字だった。
「ちょっと十文字君、これも予定のうちなの」
綾瀬は口を手で遮って、なるべく声が漏れないように小声で言った。
「ちがう、ちがう。こんなの予定外だよ」
「どうするの」
「どうするって、どうしよう。出ようか」
本日のデートを邪魔されたくないとのおもいは、十文字の方が強かった。
「それはダメ。せっかく来たのにみないのはもったいないし、ここで出たらあの人に負けたようで、くやしいの」
女には女の戦いがあるのだ。綾瀬は一歩も引く気がないらしい。
「ねえ、ヒソヒソしてないで映画をみなさいよ」
ナオミは前の席に身体を寄せると、十文字が手に持っているジュースを、その腕ごと掴んで自分の方へ引き寄せた。そして、すでに使用済みのストローに口をつけて、さらに意味ありげな目線で後輩を見つめながら、盛大な音をたてて吸った。
「はあーあ、このジュースおいしい」
満足したのか、背もたれに身体をあずけてリラックスしている。
いっぽう、目の前で彼氏のジュースをこれ見よがしに飲まれてしまった綾瀬は、心中おだやかではなかった。まだ口をつけていない自分のジュースを一口飲むと、それを十文字に渡した。
「それはブルさんにあげて。かわりに私のを飲めばいい」
「だって、それは綾瀬さんのだから」
「いいの、私はもう飲んだから」
綾瀬は十文字の手から、ナオミに汚染されたジュースをひったくると、自分のカップを渡した。そして後ろを向いて差しだした。
「ブル先輩、どうぞ」
満面の笑顔だが、目はこれっぽっちも笑ってなかった。
「あら、どうもね。ちなみに苗字はブルじゃなくてブルベイカーね」
そのカップを受けとるナオミも、なかなかに好戦的な目つきをしていた。
綾瀬が口をつけたストローをしばし見つめた十文字は、味わうようにジュースを吸いこんだ。ゴクリと喉を鳴らす男子高校生は、なんだか幸せそうだった。
ところで高校生たちが視ているゾンビ映画は、題名はふざけているが内容はハードであって、相当にショッキングな場面が連続した。
十文字はこの手のホラー映画は見慣れているので、それほど怖がらなかった。だが綾瀬はゾンビ映画自体を視たことがなかったので、衝撃的なシーンに度肝を抜かれて、思わず彼氏の腕を強く掴んでいた。
ナオミは綾瀬以上に怖がりなのか、悲鳴をあげて後から十文字に抱きついた。「もうだめ、怖くて顔をあげられないから隼人がかわりにみてよ」と言っている。ちなみにゾンビにまったく興味のない千早は、スヤスヤと寝ていた。
校内一の美女であるナオミに抱きつかれるのは、朝比南高校の男子にとっては本懐なのだが、十文字にとってはありがた迷惑だった。なにせ、彼女との初デートで幸せいっぱいの彼の頭の中には、小さな二次元的な綾瀬穏香が群れをなしている。そこに異国情緒ただようナオミが入る込める隙はない。
「ブル姉さん、ちょっと苦しいです。離れましょう」
「え、気持ちいいって」
「いや、くるしいんですって」
苦しいのは当たり前であった。綾瀬が死人のような目で二人を見つめているのだ。早くなんとかしないと、自分がホラーな展開になってしまうと焦っていた。
十文字は座席から落ちるようにすり抜けて、ナオミの両腕から脱出した。椅子には座らないで、中腰のままの姿勢を維持していた。
「十文字君、前の席にいこうか。ここは騒がしくて、映画に集中できないよ」
綾瀬の身体から不穏なオーラがあふれ出ていた。噴火の予感を感じとった十文字が、ウンウンと頷いた。
「そうだね。そうしよう」
二人は腰を屈めながら席を離れた。十文字は、ナオミに軽く頭を下げてポップコーンのバケツを手渡したが、綾瀬はそのまま無視した。そして数段前の通路側の席に座った。またなにかあっても、すぐに移動できるような場所を選んだ。
「ねえ、ナオミ、あんましやりすぎても逆効果になるんじゃないの」
寝ていたと思われた千早が言った。うす目を開けて、もぞもぞと苦言を呈している。
「まだまだよ。もっと刺激してやらないと先にすすまないの、あの二人は」
「隼人はともかく、綾瀬が可哀そうじゃない。もう少し、生温かい目で見守ってあげたら」
そう諭されたナオミは千早に向き直り、いつになく真剣な顔でしゃべりだした。
「だって、人を好きになるのに少しずつとか言ってるのよ、あの娘。イライラしちゃうじゃない。恋愛はね、もう一直線なの。どこにも逃げ場のない直線道路を、ただひたすら駆け抜けていくしかないの。あらかじめ逃げ道を作っておいて、キョロキョロ様子をみながら亀さんみたいに歩くなんて、そんなのイヤ。絶対にあり得ないから」
「ナオミ、それは人それぞれ。転びやすい道路だってあるんだから」
やや声が大きくなっている親友を、千早は落ち着かせようとしていた。
「転んだらまた立ち上がればいいのよ。何度でも立ち上がるの。ロッキーだって何度も立ち上がったじゃない」
「それとこれとは話が違うって」
「ごめん、昨日のジョーだった」
「いや、そういう話じゃないし。てか、ジョーはあしたじゃなかったっけ」
うるせえぞ、っと誰かが怒鳴ったので、二人は思わず肩をすくめた。
「なんだかあの二人、騒がしいね」
「まさか、ブル姉さんたちが来てるとは思わなかったよ」
十文字と綾瀬は小声で話していた。ナオミの出現によって、二人は映画を視る気が失せてしまっている。
「ねえ十文字君、出ようか」
「そうだね。ちょっと早いけど、お昼にでもするか」
二人は映画館を出ることにした。だが、ここで一つ困難な問題があった。ナオミが、かなりの高確率で付きまとうということだ。十文字と綾瀬は、できれば彼女に知られないように脱出したいとの願いを共有していた。
「ブルさんたちの後ろの席に行けばよかったね」
「ああ、そうか。そうしたら俺たちが出ても気づかないもんな」
いまさら、ナオミたちの後ろに行くのは見え透いた行動だ。あの厄介な三年生女子は、顏もスタイルも抜群だが、頭や勘の良さもずば抜けている。
「そうだ。この映画、たしか後半にもの凄くグロくなるんだよ。耐えられないレベルだって田原が言ってた」
田原は朝比南高校一のゾンビマニアだ。ゾンビに関することなら何でも知っていて、その熱狂ぶりを知らぬ生徒はいない。ゾンビが好きすぎて、有名どころの映画では登場する各ゾンビ一人一人に、サムやロバート、良子などの名前をつけていた。その彼が視聴に耐えられなくなるほどのショッキングシーンが終盤に訪れるという。十文字はともかく、綾瀬は、げんなりとしていた。
「私、ますます出ていきたくなっちゃった」
「グロい場面になったら、さすがのブル姉さんでも目を逸らすから、その隙にでようか」
十文字の提案に、綾瀬は親指をあげて賛同した。付き合い始めた恋人同士というよりも、何年も仲が良い夫婦みたいだった。
それから少し時間が経ち、スクリーンは終盤に差しかかっていた。十文字の友人が言ったとおり、そのゾンビ映画は怒涛のごとくショッキングな場面を映し出した。
「これはキツいな。綾瀬さんはみないほうがいいよ」
「ブルさんたちは、どうなの」
「さすがのブル姉さんでも、これは無理だろう、きっと、目をつむっているんじゃないかな」十文字は振り返って、ナオミと千早の席を見た。
ナオミは、予想に反して怖がるどころか大ウケだった。スクリーンを指さして、キャッキャと笑いながらポップコーンを貪っていた。千早はその横で、今度こそ熟睡していた。
「ダメだ。ブル姉さん、逆に喜んじゃってるよ」
「あの人の精神構造って、どうなってんのよ」
綾瀬も振り返った。すると、ナオミと目が合ってしまった 彼女はポップコーンのバケツを抱えながらピースサインをしている。仕方なく手を振った。
「これでは出られないね」
綾瀬は、ややあきらめ気味になっていた。
「そうだ、トイレに行くふりをして、一人ずつそのまま出たらどうだろうか」
「いい作戦だけど、あの人のことだから、十文字君が出たら絶対についてくるわよ」
十文字の思いつきは却下となった。ひどくショッキングなスクリーンの下で、高校生のカップルは悩んでいた。
ゾンビ映画はいよいよクライマックスへと突入した。そのあまりの残虐なシーンの連続に、数少ない観客のほとんどが直視できないでいた。
「うっわ、この映画グロすぎるよ。綾瀬さん、あの人のことなんかどうでもいいから出よう」
十文字でも耐えきれなくなってきた。その劇場内で純粋に映画を楽しんでいるのは、ナオミだけである。
「私、いいことを思いついちゃった」
小声で話せるように、綾瀬が自分の顔を限界まで近づけた。
「えっ、なに」
十文字の髪の毛が彼女の唇に触れるくらい接近した。生ぬるい息を感じながら、綾瀬の作戦を聞いていた。
「でも、それをやったら、綾瀬さんが恨まれちゃうじゃないのか」
「いいのいいの。私は全然平気だよ」ふふふと笑って、綾瀬が席を離れた。
彼女は、ナオミの前の席に中腰でやってきた。さっきまで、自分たちが座っていた場所だ。
「ブルベイカー先輩、ポップコーンを少しもらっていいですか」
綾瀬は、ナオミにポップコーンをもらいにきた。
「もちろん。もともと隼人のだから、わたしが一人で食べちゃったら悪いなって思っていたのね」
ナオミがバケツを差しだすと同時に、綾瀬の手が伸びた。バケツと手が衝突して、ポップコーンの容器が、ナオミの足元に落ちて中身が散らばってしまった。
「ごめんなさい。私ったら、なにやってるのよ、もう」
「はは、気にしない気にしない。でも、食べられなくなっちゃったね」
綾瀬は一度通路に出てから、ナオミの隣に来た。床に散らばったポップコーンを拾い集めてバケツの中に入れた。もちろん、先輩も手伝っている。
「だいたい拾いきったかな」
「これゴミになってしまったから、私が捨ててきます」
綾瀬はバケツを持った。
「あとでいいんじゃないの」
ナオミは、律儀すぎる後輩に急ぐ必要はないと言った。だが、綾瀬は笑顔で行ってきますと言って姿を消した。
「どうしたの、映画終わった」
千早が目覚めた。
「まだよ。なんかね、この映画全然怖くないんだけど。もっと刺激的かと思ったのに」
「いや、充分刺激的だって」
スクリーンに映し出されているショッキングシーンを、しかめっ面で見ながら千早が言う。
「ナオミはホラー映画とか大っ嫌いだったのに、どうしてそんなに平気になったのさ」
「だって、くやしいじゃないの。ホラーの一つや二つで怖がっていたら、人生もったいないって思ったのね。だからホラー映画ばかりみて特訓したの。そうしたら、全然平気になっちゃった」
「ナオミらしいわ」
天然キャラであるが、じつはとても芯の強い女だと千早は見抜いている。負けず嫌いも人一倍なのだ。
「ところで、あの二人はどうなのさ。仲良くしてるの」
「ポップコーンを取りに来たぐらいだから、うまくいってるんじゃないかな。案外ね、キスなんかしてたりして」
「いやいや」
この映画を視ながら、カップルがそんな行為をすることはあり得ないと思う千早だった。
「あっ、いない。いないよ、あの二人。どこ行ったのよ」ナオミが騒ぎ出した。
十文字がいた座席に人影はなかった。
ナオミは慌てて周囲を見渡した。さほど広くない劇場内には、数人の観客しかいない。十文字がいないことがすぐに確認できた。ゴミを捨てにいった綾瀬も戻ってこない。謀られたことに、ナオミはようやく気づいた。
「くうー、やられた」
「ナオミの行動を読んでいるわね」
綾瀬がポップコーンの容器をこぼしたのはワザとだった。彼女が気をとられているスキに、十文字はまんまと脱出したのだ。
「千早、外に出るよ」
ナオミはすでに立ち上がっていた。綾瀬の、あのときの笑顔を思い出して悔しがっている。
「えー。ちょっと待ってよ。いまから追いかけても、二人がどこにいったかなんてわからないよ。それに、私たちをまくくらい二人っきりになりたいのだから、うまくいってるんじゃないの。邪魔しないであげようよ、ナオミ」
「邪魔なんてしてないよ。わたしは隼人が心配なだけなの」
ナオミは、少しばかりムキになって言った。
「ひょっとして、ナオミは隼人が綾瀬と付き合うのがイヤなのかなあ」
千早は、校内一のアイドルが十文字ごときを好きになるとは、夢にも思っていなかった。
「そ、そんなことは、千早に関係ないじゃないのさ」
だが、親友の狼狽ぶりを見て図星だったのかと気づいてしまった。
「ちょっとマジなの。ナオミは、その気になれば選び放題じゃないのさ。なんで隼人なのさ」
「千早はわかってないの。男を見る目がないんだから。もう、殺人的にないのよ」
「ちょっと、それどういう意味よ。わたしは、ナオミほど悪趣味じゃないだけよ」
「わたしのどこが悪趣味なのよ」
「ナオミといい綾瀬といい、あのボッサボサ頭の色眼鏡のどこがいいのよ。たしかに性格は悪くないけど、もっといい男がいるじゃないのさ」
「はあ、呆れた。千早は、ほんと見る目がないんだから。そんなことだから彼氏ができないの」
千早は立ち上がった。
「ナオミだって、彼氏がいないくせして。人のことが言えるか」
「わたしは理想が高いの」
「高くて、あの鳥の巣頭なの。笑っちゃうわ」
今度は、ナオミが立ち上がった。二人は睨み合ったまま一歩も引かないでいる。
ゾンビ映画はすでに終わっており、エンドロールが流れていた。数少ない観客は、席を立つことなくじっと鑑賞している。ただし、スクリーンではない。ケンカを始めた二人の女子高生に注目し、映画よりもこっちの方が面白いと楽しんでいた。
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