第8話

「あ、あのう綾瀬さん。これからどこに行くのかな。へへへ」

 二人は朝比南高校を出て住宅地を歩いていた。

 綾瀬の背中を見ながら後をついている十文字は、不安でたまらない。例の小説は彼女に返したので、そろそろ解放されてもいいと思い別れを告げるが、そうすると、あの死んだ魚の目で見つめてくるのだ。逃げるタイミングをどうしてもつかめない。ドナドナを歌いたい心境だった。

 綾瀬は無言のままである。もうすぐ日が暮れかけようとしていた。

「あ、あのう、俺そろそろバイトが」

 十文字が申し訳なさそうに言ったところで、突然綾瀬が止まった。振り向きもせず、左腕が真横にすーっと上がった。なにかを指し示したようだ。 

 そこは空き家だった。古い一軒家であり、人が住まなくなってしばらく経っているようで、もう廃屋に近かった。

「ええーっと、ここは綾瀬さんの家なのかなあ~」

 そんなわけないだろうとの意味を込めた鷹の目が、キーッと睨んだ。

「す、すみません」

「入って」と言うと、彼女が先に進んだ。

 玄関の引き戸にはカギがかかっていない。しかし建て付けが悪くなって、少しの力では滑車が滑らなくなっていた。

 女子高生は、かまわず力ずくで引いた。ガタガタと大きな音をたてて半分ほど開いた。二人は土足であがり、居間を通りこして奥にある和室へと入った。室内は、それほど汚れていなかった。

「私の小説に書いてあったことを言うでしょう」

 和室の真ん中で、綾瀬は静かに言った。

「い、いや、そんなことはない、あり得ないから」

 十文字は両手を振って否定した。現実に、そうする気などまったくなかった。  

「いいえ、あなたは言うわ。だって、人間だもの。人間ってねえ、他人の秘密が大好きなの。そしてね、それを言いふらすのはもっと好き」

 あの小説に書かれていたことは、綾瀬にとっての琴線であり、けして誰にも知られてはいけない事柄だった。それは絶対に知られてはいけない優等生フェローである綾瀬穏香の心の暗部であり、生涯にわたって隠し通さなければならない汚わいなのだ。

「痛くないから」

「えっ、な、なにが」

「そんなに痛くないって言ってるの」

 ジコジコジコと音がした 綾瀬の右手に、いつ間にかカッターが握られていた。しかも大型タイプだ。よく切れそうな黒刃が、薄がりの中でもギラリと目立った。

「な、なにしてるの、綾瀬さん。はは、はは、そういう危ないものは、しまっておこうね。だって、間違って切れたりしたら、シャレにならないっていうか、そのう、ははは」

 ヘラヘラ笑いながら、十文字は一歩二歩と後ずさった。カッターの刃を出し入れしている綾瀬が、一歩二歩とにじみ寄る。

「大丈夫、首の頸動脈を切れば、すぐに出血多量で死ぬから。痛いのも、ちょっとの間だから」

 なにが大丈夫なのかわからないぞ、と十文字は心の中で叫んでいた。

「心配しなくていいよ。私もすぐに行くから。そして天国で十文字君に、おにぎりを作ってあげる」

 そんなのまったく嬉しくなんかないと、やはり心の中で叫ぶ十文字であった。

 この時、綾瀬が本気で十文字を切り裂こうとしたのかは 彼女自身もわからなかった。ただ、心の闇を見られてしまったとの絶望だけが、普段は良心的な女子高校生を無謀な行動へと駆り立てていた。論理的で理性的な思考をすることなど、この時の彼女には無理な相談だった。

「痛くないからね」

「ひいい」

 絶体絶命の危機に、十文字は思わぬ行動に出た。朝比南高校の男子、いや、日本全国の男子高校生のうち、いまの彼と同じ行動をするものは、ほぼ皆無といっていいだろう。

 突如、直立不動の姿勢をとった十文字は、すぐに制服の上着を脱ぎ捨てた。そう、観念したのね、と綾瀬が冷えた視線で見た。

 次にシャツを脱いだ。首筋が露わになる。そう、切りやすくなったわ、と綾瀬は相変わらずの鉄仮面ぶりだった。

 その次にズボンを脱いだ。Tシャツと柄物のトランクスだけとなった。室内は存外寒いが、お構いなしだった

 え、なに、なによ、そこまで脱ぐことないじゃないの、と綾瀬は少し焦ってきた。

 さらに十文字はTシャツを脱ぎ捨てた。あとはトランクス一枚を残すのみである。

 綾瀬の目が点になる。目の前の男子がなにをしようとしているのか、まったくつかめなかった。

 十文字は躊躇することなく、そのトランクスまでも脱ぎ捨てた。廃屋の和室で、全裸でありスッポンポンな男子高校生が、鋭利な刃物を手にした女子高生と対峙していた。

「ちょ、な、なによ、そこまですることないじゃないの。っていうか、なんかヘン、ヘンになってる。ヘンになってるって」

 綾瀬は烈しく狼狽していた。カッターを持った手で自分の顔の前をブロックし、全裸な同級生を見ないようにしながら、どうしても見てしまっていた。

 ただでさえ男子の全裸だけでも衝撃的なのに、さらにもう一つ、見過ごせない現象を目の当たりにしていたからだ。     

「ちょっと、なによ、なんでそんなになってるのよ。いや、イヤー」

 十文字が興奮しきっていたのだ。彼の下半身の一部、生殖をつかさどる棒が、著しくも猛々しく屹立し、これでもか、と綾瀬に向かって突き出ていたのだ。

 間髪を入れず、十文字はズンズンと前進した。

「ヒャッ」

 踏み潰された子ネズミみたいな悲鳴を上げて、綾瀬が後ろにさがる。カッターを落としてしまい、それを拾おうとしたが、全裸な男子がズンズンくる。

 綾瀬は、これは乱暴されると確信した。極秘小説を読まれたうえに、なにかと世話を焼いた男子に凌辱されるとは、今日で私の人生は終わったと思った。

 だが、十文字は彼女に触ろうともしなかった。和室の引き戸付近に置いた自分のカバンを拾った。そして、中から一冊の学習ノートを取りだした。その様子を、綾瀬は声も出せずに見ているだけだった。逃げようと考える余裕もなかった。身体が動かなかったのだ。

 ノートを持った全裸の男子が、再び綾瀬の前に立った。あの部分は、相変わらず屹立している。え、え、っと戸惑っている女子に向かって、彼は、大きな声で読みはじめた。

「今日のオカズは新垣雪菜さんだ。まずは、恥ずかしがっている雪菜さんのパンツを、さっとずり降ろす。そしてちょぼちょぼとOがOえたOOOに、俺のOをOれて、グリグリした。Oら~とOがOれてきて、それをOでOOた。それから四つん這いになってもらって、丸見えのOOOに俺のOをOOて、ころOOになったので、いよいよOOOをズOズOとOOて・・・」

 新垣雪菜とは、二年A組の女子生徒である。少しばかり小太りだが、愛嬌のある顔立ちをしていた。ちなみに、十文字の斜め右側の席だ。

「えーーーーーーー、ちょっと、な、なに言ってのよ。どんなヘンタイなのよ」

 文章で書けば、OOOと文字を伏せなければならないが、十文字から直で聞いている綾瀬には完全無修正だ。

「石川陽菜はOOOイがデカいので、ひとまずバシバシと叩く。OOOをつまんで右に左に引っぱると、十文字君もっとと、甘ったるいOOが俺を誘う。OOOをはぎ取って、さらにOOOO返しをして、陽菜のOOOに俺のOOをOOOんで、OOでレOレOしたら、もっともっと陽菜がせがむ・・・」

 石川陽菜も十文字のクラスの女子だ。さほど可愛いわけではないが、胸の大きさには定評があった。

「だから、やめなさいって、そのいやらしい朗読をやめなさいって、いってるでしょう。それと、その、その、ヘンになっているものを仕舞って。早く仕舞え、もう、いや」

 それから十文字は、二年A組の女子をさらに四人ほど凌辱した。綾瀬は途中から耳を塞ぎ目を瞑って、さらにアーアー言って聞こえないフリをしていた。

 突如として朗読が終わった。静かになったので綾瀬が目を開けた。

「これを綾瀬さんに預かってほしいんだ」

 十文字は、淫らな行いが書かれているノートを彼女に差し出した。

「へっ」

 綾瀬はそれを触りたくなかった。とても汚いモノのように思えたのだ。

「俺はどうしようもないヘンタイで、クラスの女子を、そのう、妄想してるんだ。毎日のように。そして、それをこのノートに書きとめてるんだ。だから、そのう、趣味にしてるんだよ。サイテイだけど、そうなんだ。もしこれが知られたら、俺は自殺するくらい恥ずかしい、ていうか、たぶん死ぬ。そうだ、死んじゃうよ」 

 思春期の男子高校生らしく、十文字は夢見がちなヘンタイだった。ヘンタイなので、ヘンタイであることを告白している最中にもかかわらず、ヘンタイ心が疼き、ヘンタイとしての証を屹立させてしまったのだ。

「俺は綾瀬さんの秘密を知った。だから、俺の秘密も知ってほしいと思った。もしこのノートを預かってくれないのなら、切るなり焼くなり、どうとでもしれくれ」

 十文字は、両手両足を大の字に拡げた。綾瀬の目線はどうしても真ん中に向いてしまう。

「わ、わたったわよ」

 綾瀬は、十文字の手からひったくるようにしてノートを奪った。

「だから、そんなことより、早く服を着てよ。はやく、その、ヘンなものを、どうにかしてっ」

 いまだ猛っている十文字のモノを指さして、綾瀬がキーキーと言っている。

「え、あ、す、すいません。ははは、これは、そのう、つい興奮しちゃって。俺って、ヘンタイだから」

 全裸男子は、ようやく服を着始めた。動作がもたもたしているので、綾瀬は少しイラつきながら横目で見ていた。

「ックシュン」ズボンを履いているときに、十文字はくしゃみを出してしまった。

「っもう、風邪ひいたんじゃないの。こんなところで脱ぐからよ」

 綾瀬に叱咤される。脱いだおかげで流血沙汰にならなくて済んだのにと思ったが、口に出すことはなかった。

「それにしても、よくもここまで妄想したわね。クラスの女子がほとんどヤラ、いや、そ、その、ひどいことされてるじゃないの」

「はははは」ヘンタイ男子は、笑って誤魔化すしかなかった。

 綾瀬はしつこくノートを見ていた。内容を熟読していたわけではない。パラパラとめくって、とある項目を探していたのだ。

「あ、あのう、綾瀬さん。そんなに読まなくてもいいんじゃないかな。だって、ほら、それ刺激が強いから」

「私のがない」

「え」

「クラスのほとんどの女子が書かれているのに、私のがないって言ってるの」

 ちょっと不機嫌そうだった。このヘンタイノートの中で綾瀬をこねくり回したら、それはそれで激怒しただろうと思ったが、十文字はあえて言い訳しなかった。

「はははは」と、相変わらず笑って誤魔化した。

「いいわ。それじゃ、お互い秘密を厳守するってことね。私の小説も渡すのかしら」

「いやいや、そこまではいらないよ。それは綾瀬さんが持っていてくれ」

「これって、十文字君の大事なモノじゃないの」

 綾瀬は、親指と人差し指でヘンタイノートをつまんで、ビラビラと振ってみせた。

「まあ、俺の場合は頭の中にあるから。ノートがなくても平気だよ」

 ウンと頷いて、なぜか自慢そうに両腕を胸の前で組む十文字を、綾瀬は軽蔑の眼差しで見ていた。

 お互いの秘密については厳守するということで決着したので、これでそれぞれが帰宅するはずなのだが、なぜか二人ともウダウダしていた。なんとなく去りがたく、もう少し話したいと感じていた。いや、もう少しお互いを理解したい欲求がふつふつと湧き上がっていた。

 どうしたらよいのかわからず口をきかいない。薄暗い廃屋に、少しばかりの静寂が訪れた。 

「そうだ、綾瀬さん。これから俺の家に来ないか。うまい紅茶をご馳走するよ」

 その沈黙がたまらず、十文字がきっかけを作ろうとした。

「イヤよ。こんなノート見せられたんだから」

 身をよじって否の態度を見せつける綾瀬であった。女子として、警戒するのは当然である。

「ははは、大丈夫だよ。俺、基本的に妄想しているだけで、そんなことする気もないし、度胸もないよ。それに、家には妹もいるはずだから」

 たしかに、目の前にいるのはそんな悪辣な男ではないし、また無理矢理女の子に手をだせるほどの度胸はないと思えた。

「妹さんがいるの。知らなかった」

「中三なんだ。もうすぐ受験だから、最近はピリピリしていて、いっつも突っかかってくるけどさ」

「でも、私がいったら気をつかわせてしまいそうで、家の人になんだか悪いし」

 日が暮れる時刻となっている。早い家庭によっては夕食の支度時間になってしまうので、突然の来客は歓迎されないだろうと考えていた。

「両親はいないよ。妹だけ。まあお茶ぐらいしかだせないけど」

 両親がいないのは、以前から聞かされている。家の中で二人っきりの状況はさすがにマズいと考えたが、もう一人、とくに女性がいるのなら安心である。

「少しだけなら、寄っていこうかな。お茶を一杯だけ飲んだら、すぐ帰るから。ホント、すぐ帰るから」

「よし、行こうか」

 十文字の家へ行く道すがら、十文字は小説の内容について、一切触れることはなかった。クラスの人間関係や学校祭のことなど、あたり障りのない事をしゃべり続けた。

 綾瀬は、いつ詰問されるのかと多少の身構えを持っていたが、十文字がその話題に触れる気がないので緊張をといた。

「ほら、ここ、俺の家」

 一軒家だった。しかも、建ててからまだ数年しかたってないだろうと思えるくらいのきれいな外観である。それほど大きな家ではないが、しっかりと二階建てで、なかなかの見栄えだった。

 庭はそこそこの広さがあり、物置を数倍大きくしたような小屋と、なにかの材料に使用するのか、木材が積まれていた。壁が剝げ落ちている年代物のアパートを想像していたので、綾瀬は拍子抜けしたようにキョトンとしていた。

「來未の機嫌が悪かったら、ごねんな。あいつ、すっごく気分屋だから」

「妹さん、來未ちゃんっていうんだ」

 十文字が先導して、二人は家の中へと入った。靴を脱ぐと、來未いるかーと、大きな声で何度も叫ぶが返事はなかった。玄関に靴もなかったので、彼女はまだ帰ってきていないと判断した。

「あいつ、いないみたい。どこほっつき歩いてるんだか」

 十文字は綾瀬を居間に案内した。いきなり自分の部屋へ連れて行くには彼自身が抵抗を感じていたし、彼女も嫌がると思ったからだ。

「ソファーにでもかけててよ。いま紅茶を入れるから」

「うん」

 ソファーに腰かけた綾瀬は、家の中を見回した。室内は小ぎれいにまとまっている。ごく普通の中流家庭で、貧困さは感じさせる物も雰囲気もなかった。

「十文字君のお父さんとお母さんって、どんな仕事をしているの」

「うちは夫婦一緒に養蜂をやっているんだ」

「ようほう?」

「蜂を飼って、蜂蜜をとる仕事だよ。花のあるところを求めて、日本全国を走りまわっているよ。今ごろは南のほうだね。帰ってくるのは、真冬の間だけだよ」

 十文字は紅茶の用意をした。ティーバックではない。茶葉をハリオールで濾して、中身を高級そうなティーカップに注いだ。スプーンをつけて綾瀬の前においた。

「すごくおいしい。アップルティーみたいだけど」

「違うよ。リンゴの花から採れた蜜を入れたんだ。うちの蜂蜜は品質が最高って評判なんだよ。高いから一般の店には出回らないんだけどもね」

 綾瀬は、十文字を貧困家庭と思っていた。だから気張っておにぎりをつくってあげたのだが、どうやらその必要はなかったみたいだ。なんだか無駄に張りきってしまったようで、ほんの少し腹が立った。

「十文字君は全然貧乏じゃないじゃないの」

「え、俺は自分のことを貧乏だって言ったことないよ」

 十文字は、もちろんそんなことを公言したことはない。

「だって、その格好見れば、だれだってそう思うわよ。お昼だって、お弁当をもってなくて、いつも体育館の裏で体育座りしているとか、小川でお魚を獲って焼いているって言われているんだよ」

「なんだよそれ。失礼過ぎるもほどがあるなあ」

 真顔で問い詰める綾瀬を見て、呆れたような顔して紅茶を啜った。十文字は、自分用には大きなマグカップを使用している。

「昼は学校の裏手の駄菓子屋に行ってるよ。あそこ、もんじゃとかお好み焼きとか、焼き飯とかやってるから。ただ婆さんひとりだから、老人会に行ったりで、やってたりやってなかったりするんだけど」 

「えー、なによそれ」

 いいもの食べてるじゃないの、と綾瀬は憤慨した。早起きしておにぎりを作ったのに、どうしてくれるのと、ほっぺたをふくらませていた。

「どうしてくれるって言われても。だって、たまたま作りすぎちゃって、って言ってたじゃないかよ」

「そんなこと言ってない」

「えー」

 二人は紅茶を飲みながら、あれやこれやと話し合っていた。とくに十文字の服装や髪形に関して勘違いさせるような格好をするなと、綾瀬は注意した。彼は、そういうのは面倒臭いんだよと、元来の不精さを隠しもしなかった。   

 一杯目の紅茶を飲み干した綾瀬に、もう一杯どうかと十文字が言う。こんどは私が淹れると綾瀬が勝手に台所に侵入し、数種類ある蜂蜜瓶を勝手に物色・調合し、勝手に十文字の分まで作った。      

「あ、すんごく美味い。俺がいれるよりうめえや」

「当然でしょう」

 腰に両手をあてて、どうだといわんばかりのポーズをキメる綾瀬であった。二人は居間に戻って、またおしゃべりを始めた。

「それじゃあ、アルバイトまでしてお金稼いで何に使っているの」

「それは、俺の部屋に来ればわかる」

 その質問を待っていましたとばかりに、十文字は立ち上がった。二階にある彼の部屋へ行こうというと、綾瀬はまったく警戒することなく後に続いた。

「あ、その前に」

 階段を上がり、自分の部屋へ行く途中、十文字は隣の部屋の前に立った。「ここ、來未の部屋」と言ってドアノブに手をかけた。

「勝手に入っちゃダメでしょう。とくに女の子の部屋は」

 後ろの小言を気にせず、彼はドアを開けた。綾瀬にも中に入るように手招きする。「もう」と言いつつ、綾瀬は躊躇することなく侵入した。他人の部屋というのは興味をそそられるのだ。

「これだよ、これ」

 來未の兄は、本棚をゴソゴソまさぐって一冊の手帳を取りだした。

「ちょっと、読んでみて。面白いよ」

 ほらっと、綾瀬に手渡した。

「ちょっとお、これ手帳じゃないの。だから、そんなことダメだって」と言いながら、しっかりと読みはじめた。そして驚いたような、困ったような、引きつったような表情をしたあと、最後は愛想笑いでしめた。

「な、すごいだろう。イヤな人間をボロッカスに書いているだろう。情け容赦ないを通りこして、もはやホラーになっちゃってるんだ。金曜日のジェイソンだって、ここまでしないぞってな具合までさ」

 ホラーよりスプラッター系統じゃないの、と綾瀬は思った。気に入らない人間に対しての攻撃が罵詈雑言を通りこして、もはや地獄界のような残虐さだったからだ。私の小説は負けているなと、正直な感想である。  

「ちなみにこれが、我が妹の参考書」

 本棚には、西洋拷問史や西洋処刑史などの、普通の女子中学生はあまり見たがらない類の本が数冊あった。

「ははは」と、綾瀬は笑うしかなかった。

「だからさあ、みんな考えているんだよ、けっこうヒドいことをさ。それぞれが持ってるんだよねえ、心の中に」

 綾瀬穏香は感のよい女子である。なぜ十文字がこの手帳をわざわざ見せてくれたのか、すぐに理解できた。人は誰しも心の中に鬼を飼っているもので、なにも綾瀬だけが特別に悪辣な女というわけではない。そういうことを、自分の妹をダシに使って教えてくれたのだ。

「あいつがもどってきたらヤバいから、ここ出ようか」

 兄は、妹の本棚を完全に元通りな状態にしてからその部屋を出た。盗み読みしたのがバレたら殺されてしまうからなと、真剣な口調で言う十文字に対し、綾瀬はクスクスと笑っていた。

「ようし、じゃあ俺の部屋に行こうか」

 十文字の背後にくっ付いている綾瀬は、じつは同級生の男子の部屋に入るのは初めてだった。小学校中学校も、女子の部屋では遊んだが、家族以外の男子の部屋は未経験だった。兄がいるが、当然ながら異性として意識はしない。

「あ、それとすっごく散らかっているから」

「むしろ、十文字君が整理整頓しているほうが奇跡ね」

 十文字がドアを開けた瞬間、綾瀬はちょっとドキドキした。

「さあ、入って」

 むわっと風がきたように感じた。思春期特有の男の臭気を嗅いでしまったために、その重さに圧されたのだ。

 生まれて初めて、綾瀬穏香は男子の部屋に入った。予想に反して、部屋の中は散らかっていなかった。ありきたりの学習机とベッドと本棚があり、それともう一つ、決定的に目立つものがあった。

「十文字君って、ドラムやるんだ」

 壁にくっ付くようにドラムセットがあったのだ。

「シンセドラムだけどね」

 十文字の部屋にあったのは、電子ドラムである。いわゆるアコースティックドラムではない。パッドを叩いて振動させ、その電気信号により音源を鳴らすのだ。利点は小型で場所をとらないのと、比較的安価ということである。

「これって、音が出るの」

「もちろんだよ。來未が怒るんでいつもはヘッドホンだけど、アンプに出せばけっこう響くよ。ちょっと叩こうか」

 十文字は、ここぞとばかりに張り切っていた。もちろん、自慢したい気持ちなのだ。

 綾瀬はドラムについてはまったくの無知であったし、また興味もなかったが、生の演奏は聴いてみたいと思った。

「うん、聴きたい聴きたい」

 予想通りの食いつき具合に、いい気になった十文字が、格好をつけてスティックを回す。電源を入れると、さっそく叩き始めた。

 彼の演奏はうまかった。高校生とは思えぬ叩きっぷりで、手数も多く、しかも正確であり、よくリズムに乗っていた。

 初めて目の前でドラムを聴かされて、綾瀬は驚いていた。生で聞くドラムがこんなにも迫力があるなんて、思いもしなかったからだ、それになによりも、だらしなくて取り柄がないと思い込んでいたダメ男子が、まるで別の人間のように活き活きと華麗に叩き続けている。ちょっとした驚きが、彼女の心を叩いていた。  

 電子ドラムであったが、十文字の非凡な才能を見せられて、すっかりと魅了されてしまった。綾瀬は、いつの間にか彼の背中にくっ付く程に接近していた。中腰になって、顏を演奏者の顔に近づけて、リズムを合わせるように頭を上下に振っていた。

「オイ、アニキ、うるせえんだよ。ヘッドホンをつけれって言ってるだろう。このダボがあ」

 ドアを蹴破るようにして少女が入ってきた。十文字隼人の妹、十文字來未である。いまさっき帰ってきたばかりで、自分の部屋で休んでいた。

「え、だ、誰。なんでアニキの部屋に女がいるんだよ。誰だよ、おまえは」

 可愛かった。中学三年生の女子は、美少女と呼ばれてもなんら大げさでないほどの美少女だった。芸能人でも、これほどのレベルは数えるくらいだろう。

「おま、綾瀬さんになんて口のききかたなんだよ。言い直せよ、失礼だぞ」

 演奏をやめた兄が叱咤した。

「ああ~ん、あたしが誰をどう呼ぼうが勝手だろうが」

 一瞬、キョトンとした綾瀬だったが、兄妹のやり取りを聞いているうちに笑いだした。來未はアイドルみたいに可愛いのに、口調が中年オヤジみたいにぞんざいなので、そのギャップに萌えてしまったのだ。

「綾瀬さんは、俺におにぎりを作ってくれたんだぞ。肉がいっぱい入ったやつ」

「そんなん、知んねえし。あたしに関係ねえじゃんか」

「おまえも食ったろう、盗み食いしたじゃないか」

 十文字は、綾瀬お手製のおにぎりを持って帰ったことがある。自宅の居間でお茶を入れているスキに、來未が食べてしまったのだ。

「え、あの激ウマ味噌肉おにぎりか」

「綾瀬穏香です。來未ちゃん、よろしくね」

 ニッコリと笑顔で自己紹介する女子高生を、美少女な女子中学生は少しばかり引き気味に、それでも舐めるように見つめた。「お、おう」と頷くと、二人が予期していなかった言葉を吐きだした。

「ええーっと、そのう、綾瀬さんはアニキの彼女なのか」

 単刀直入な質問だった。兄があたふたし、綾瀬は苦笑いだった。

「こら、ばか、なんてことを聞くんだよ。來未、おま、あのなあ」

「だって、おにぎりくれるし、アニキの部屋でイチャついてるし、立派に彼女じゃんか。もうヤったのか」

 パキッと音がした。兄がドラムを叩くスティックで妹の頭をぶっ叩いたのだ。

「痛っ、なにするんだよ。それで叩いたら、死んでしまうじゃないか」

 來未は、食ってかかるように抗議した。兄はおさまらないのか、さらに次なる打撃を与えようと手をあげた。

「ああ、だめだめ、暴力はダメっ」

 それほど力をいれていないので、暴力というほど凶悪ではないが、そういう類の行為は、けして許容できないのが綾瀬なのだ。

 十文字は素直に従った。知らない女に諭されておとなしくなる兄を、來未は気に食わなかった。

「なんでえ、つまんねえ。まぎらわしいことすんなよな。バカアニキ」

 捨てセリフを残して、來未は兄の部屋を出ていった。

「ゴメン、綾瀬さん、ほんっとゴメン」

 十文字は両手を合わせて、拝むように謝っていた。

「ううん、ぜんぜん気にしてないよ。むしろ元気があっていいじゃないの。私も兄にあれくらい素直になれたならって。少しうらやましくなっちゃった」

「綾瀬さんは、いまの綾瀬さんでいてくれよ。あんなになったらガッカリだし、お兄さんも悲しむって」

 二人はお互いを見て笑った。そこに、ガチャリと音がした。またもや妹が現れた。今度は首だけをドアのすき間から出している。

「あのさあ、あたしこれから外に出てやるからさあ、千円でいいよ」

「なんのことだよ」

 兄がそう言うと、妹はニタニタと、その美少女ぶりには似つかわしくない、やや下品な笑みを浮かべた。

「いやその、アニキたちはこれからイチャつくわけで、あたしが家にいたら、なにかとやりにくいんじゃないかと思ってさ。だから、ゲーセンで時間潰してくるから千円くれよ」

 返す言葉が見当たらず、絶句している十文字であった。

「お気遣いありがとう、來未ちゃん。でも私もう帰るから、気兼ねすることなく家にいてちょうだいね」

 笑顔でそう答える綾瀬の方が一枚上手だった。しまった、という顔をして來未は、そのしくじりを兄にぶつけた。

「なにさ、アニキの根性なし。ヘタレなダメ男」と言って、自分の部屋へ戻っていった。

「はは」

「はは」

 十文字と綾瀬は、來未が言ったことが心の中にわだかまって、なんとも気まずい雰囲気になってしまった。

「私、このへんで帰るね。もう遅いし」

「じゃあ、途中まで送っていくよ」

「ううん、一人で大丈夫」

「でも」

「一緒にいたら、來未ちゃんが心配するでしょう」

「心配っていうか、まあ、うん、そうか」

 綾瀬が言わんとするところを、十文字は理解した。それでも玄関を出るまでは見送った。これからのことを特に約束するようなことはなかったが、いままでよりも距離は縮まるだろうとの予感が、それぞれの胸を中を静かに転がっていた。

 綾瀬が暗がりの道を一人帰途についていると、後ろから走ってくる足音がした。振り向くと、上下ジャージ姿の女の子が息を切らせていた。十文字來未である。

「あら、どうしたのかな」

 綾瀬は一瞬身構えた。來未はまだ中学生だが性格は相当にひねくれている。気を許せるような相手ではない。

「綾瀬さんだっけ」

 綾瀬は否定も肯定もしなかった。相手の出方を静かに待ちうけていた。

「お礼をいいたくて、走って来たんだ」

 なんらかの厳しい罵声がとんでくるだろうと覚悟していたので、お礼と言われて拍子抜けした。

「ええっと、お礼って、私は來未ちゃんには何もしてないけど」

「あたしじゃなくて、アニキのことだよ」

「十文字君の」

 來未は綾瀬の隣に並んだ。図々しくもぴったりと身体を寄せて、まるで幼少のころからの親友といった感じだ。

「あたしさあ、朝比南の女子って男をみる目がないっていうか、センスがゼロっていうか、ようするにバカばかりだと思っていたのね」

 いきなり、自分の通っている高校女子を全否定されて綾瀬は戸惑ったが、怒るという感情はわかなかった。これが島田友香子であれば、確実に手足がとんでいただろう。  

「だって、アニキ全然モテないし、モテる気配もないし、女子の友達もいねえし。バレンタインデーだって、義理チョコの一つもないんだよ。ありえねー、つうの」

 どうやら自分の兄が、女子にまったく相手にされていないことが面白くないらしい。

「まあアニキもさあ、見た目がホームレスみたいだからアレなんだけどもさ。妹のあたしがいうのもなんだけれど、中身はけっこうカッコいいの。だって、あたしのアニキだよ。あたしの血を引いてるんだからさあ」

 そこは笑うところだと判断した綾瀬が、クスッとした。

「なにがおかしいんだよ。十文字家をバカにしてんのかよ」

「ゴメンゴメン、そういう意味じゃないの」

 綾瀬には余裕があった。來未は相変わらずのぞんざいな物言いだが、ムダに可愛い顔しているので、危機感を抱く気になれなかった。

「ようするにさあ、綾瀬さんは見る目があるってことだよ。そこを褒めてあげたくてさあ」

 どうやら、この口が悪い美少女は私を評価してくれているのだと、綾瀬は理解した。だが、それが間違いであることを説明しなければならないと、律儀な性格の彼女は決心する。

「悪いんだけど、私たちは付き合っているわけじゃないから。十文字君とはただのクラスメートなの」

 來未は立ち止まった。そしてガンをつけるように、年上の女子高生を睨みつけた。 

「おまえバカじゃねえの。そんな悠長なこと言ってると、他のドブスたちにとられてしまうってさ。もう、なんでもいいからやっちゃえよ。女だったら度胸よく押し倒してしまえ。とっととパンツ脱いじゃえよ」

 自分に投げつけられる言葉のあまりの傍若無人さに、綾瀬は目を白黒させた。やや間をおいて、おまえ呼ばわりされたことにカチンときたので言い返そうとした時だった。

「來未、いい加減にしろ。ぶっ叩かれたいのか」

 十文字隼人が來未の首根っこを掴んでいた。

「痛い、痛いって、離せよ。あたしはアニキのためをおもって、この女に言ってやったんだよ」

「おまえがいなくなったから、もしかしてと思ったら、やっぱり綾瀬さんに絡んでいたんだな」

 十文字兄は、十文字妹の首に後ろから腕を回して、ガッチリと掴んだ。プロレス技のスリーパーホールドである。來未はジタバタと暴れている。

「そういうわけで、気をつけて帰ってよ、綾瀬さん。俺は家に帰って、こいつの根性を叩き直してくるからさ。今日はゴメンね。こんど、あらためて埋め合わせするよ」

 兄妹は一つの塊となって遠ざかっていった。綾瀬は、それが闇の中に見えなくなるまで手を振っていた。

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