第7話
それからは、なぜだか綾瀬と十文字の距離が開いてしまった。あれだけ打ち解けたように会話が弾んだのに、いまではあいさつ程度の言葉を交わすのが精一杯な状況だ。一時期よく話をしていただけに、お互いが気まずく感じ、よそよそしくてぎこちないものとなっていた。
綾瀬は、異性としての十文字を意識することはなかったが、クラスメートとして気にかけることもしなくなっていた。優秀な生徒であるので、生徒会に呼ばれて仕事を手伝うことが多々あり、なにかと忙しかったのと、十文字が遅刻しなくなったので、フェローとして世話をする必要もなくなったのだ。学校祭の準備が始まるとなおのことで、彼の残像は中学の想い出と同じくらいに薄くぼやけてしまった。
近藤教諭はときどき、十文字に対し化学室の掃除を命じていた。個人的な恨みがあってイジメているのではない。むしろその逆で、なにかとみすぼらしい風体である彼を不憫に思い、話す機会を作っていたのだ。
その証拠に、化学室には必ず生徒と教師が二人で掃除をしていた。ほかの生徒には内緒だといって、ジュースやお菓子をくれるのが常だった。
「おっとヤバい。そういえば教頭に呼ばれてたんだ」
近藤教諭は時計を気にし始めた。
「あとは俺がやっときますよ。先生は行ってください」
「いや、罰でもないのに十文字一人にやらせるわけにはいかないだろう」
ふつうの生徒であれば、この掃除当番は理不尽に感じてところだが、十文字はとくに気にしていなかった。前に何度もやらされて要領はわかっているし、近藤教諭がなぜ自分と一緒にいようとするのか、どことなく察していたからだ。そして、その心遣いをありがたいとも思っていた。
「まあ、どうせたいした用件でもないからすぐに戻ってくるよ。帰りに駅前で牛丼を食っていくからな。だから勝手に帰るんじゃないぞ」
愛子担任は、そう言い残して行ってしまった。今日は気前がいいなと、苦笑いする十文字であった。
さて、それでは掃除の続きをしようとモップを持った時、突如として綾瀬がやってきた。十文字に用があってきたのではない。クリスマスイベントの準備をしていたら、生徒会担当の教師に段ボール箱を一つ、化学室に置いてくるように言われたからだ。
「あっ」
彼の姿を見て一瞬引き返そうとしたが、それより先に名前を呼ばれてしまった。
「綾瀬さん・・・」
ここでシカトするほど、綾瀬は図太い性格ではない。はははと、何かを誤魔化すような笑みを浮かべながら化学室へと入ってきた。
「十文字君、また掃除をやらされているの」
近藤教諭の、十文字に対する気遣いを綾瀬は知らなかった。当然、それが化学室で掃除とともに行われていることもである。
「やらされているわけでもないんだけど。まあ、先生の手伝いかな」
十文字は、モップを動かす手を止めることなく言った。
「綾瀬さんは、どうしてここに」
「私は、高嶋先生に言われてこれを置きにきたの。棚の上だっていわれたけど届くかなあ」
資料が入った段ボールを抱え、その上に自分のカバンをのせていた。それを化学室の備品を収納してある棚の上に置こうとしている。
あの日のように、彼女が自分に会うために来たのではないとわかると、十文字は下を向き背中を向けた。なんとなく気まずいので、綾瀬は資料が入った段ボールをさっさと上げようと頭の上まで持ち上げたところで、自身のカバンまで持ち上げていることに気づいた。
「私のカバンが」
そうつぶやいた途端、バランスを崩してしまう。段ボールとカバンの中身はほぼ紙類なのだが、非力な女子生徒が頭上まで掲げるのには重すぎた。
「あっ」
落とすというより、重さに負けて放り投げる格好となった。
綾瀬の位置から三メートルは投擲されただろう。段ボールが固い床に叩きつけられて、中身の資料類が勢いよく飛び出した。
ついでに、彼女のカバンも激突した。衝撃で留金がはずれてしまい、中のものが段ボールの資料と交ざりあって方々へ滑るように散ってしまった。
「ああ、やっちゃった」
大きくため息をついて、綾瀬はすぐに拾いだした。十文字が傍にきて、散らばった資料類を拾おうとした。
「いいのいいの、私がやるから」
綾瀬は、横から手をだそうとする十文字をけん制した。それでも手伝おうとする男子の手が自らの手に当たりそうになったが、目にも止まらぬ早業で引っ込めた。それを見た彼は、一緒に拾うことを諦めた。
何かに追われるように急いで拾い集めて、今度は上にではなく棚の隅へと段ボールを置いた。
「それじゃあ十文字君、頑張ってね」
ノートや教科書類を自分のカバンへ放り込むと、綾瀬は出ていった。
ふーっと、十文字は大きく息を吐き出した。静かな教室で一人きりとなり、さっさと掃除を終わらせようとモップを動かし始めると、隅のほうにクリアファイルが落ちていることに気がついた。薄い透明なブラスチックケースの中に、資料らしきものが入っている。
「きっと、さっきの段ボールから落ちたんだな」
クリアファイルはノートほどの大きさがあるのだが、教室の端のほうまで滑ってしまったために、綾瀬が拾いもらしたようだ。
「クリスマスイベント関係の資料かな。段ボールに入れておいたほうがいいか」
十文字は、とくに中を確認しようという気はなかったのだが、クリアファイルの構造上、きわめて取り出しやすいようになっている。少し傾けただけで、用紙の束が滑るように出てきた。クリップで留められた用紙は十枚ほどであった。文字がびっしりと印刷されている。一枚目には、タイトルと著者名が記されていた。
「なんだこれ。{短編小説、二年A組、女子の惨劇}ってなってるけど、これ小説なのか。{作者 綾瀬静香}だから、綾瀬さんが書いた小説かよ」
うわー、マジか、興味深いなあと、ひとり言を漏らしながら、十文字はためらうことなく読み始めた。
いっぽう、綾瀬がクリアファイルの消失に気づくには、三十分ほどの時を必要とした。帰り際に、念のためにとカバンの中をまさぐり、それがないことを知って、ただちにパニックとなった。誰かに拾われて読まれてしまったら大変だと、冷や汗が止まらない。どこで落としたのかと必死になって考えて、化学室での出来事が思い出された。
クワッと凄まじい形相となり、雷神のごとくダッシュした。女性教師が廊下を走らないようにと声をかけるが、ガン無視だった。化学室の扉は閉まっている。三十分前に彼女自身が閉めたのだ。それを蹴飛ばすように開けた。
すごい音がした。びっくりした十文字が何ごとかと振りかえった。その手にはクリアファイルの中身があった。彼は、拾ったそれを三十分間熟読していたのだ。
真っ暗になった。
突然夜が訪れて、化学室の照明が落ちたわけではない。綾瀬穏香の雰囲気が、オーラが真っ暗、というよりも真っ黒、いや底なしの闇のように漆黒となっていた。
一言も声を発せず、呼吸をしているのかも怪しいくらいの沈黙だった。彼女はゆっくりと十文字の傍まできた。そして、いまだ椅子に座っている男子を、ひどく冷えた眼球で見下ろした。
「読んだの」
「えっ」
「私が書いた小説を読んだのかってきいてるんだ」
日頃の物腰柔らかな綾瀬とは思えぬダーティーな口調だった。暴力を生業にしている男たちと、同等の迫力があった。
「ええっと、これは、あははは。いやあ、読んだというか、なかなか興味深い内容だったんで、面白いなあと思って」
「どれくらい読んだ」
「え」
「全部読んだのかってきいてるんだ」
「ええっと、まあ、そのう、うん」
具合の悪いことに、十文字はすでに読み終えていた。
「・・・」
彼女の無言の返事が、禁忌なことに触れてしまったとの自覚を、不注意すぎる男子生徒へ知らしめた。
「ま、まあ、おもしろい小説だよね。いやあ、女子たちの実名があったのは驚いたけども。呪いの儀式とか拷問とか、ちょっとやり過ぎかなあ、なんて思ったりしたんだけど。あははは」
腐った魚のような瞳が彼を見つめている。少女は微動たりしない。
「はははは」十文字は、どうしたらよいかわからなかった。
その小説には、じつに容赦も呵責もない物語が描かれていた。
フィクションの範囲を超えて、実在する二年A組女子の名前が列挙されていた。内容は、熾烈なる、苛烈なる、激烈なる罵詈雑言の嵐、そして残虐描写である。それは思春期のあり余る負のエネルギーをもって記述された暗黒の書であり、虚構の皮を被った怨嗟と呪いの羅列であった。
綾瀬は、相変わらず無言で穴のあくほど見つめている。十文字は動けなかった。小説をクリアファイルに収納して返そうと思ったが、手を動かした途端、なんらかの大衝撃が起こるだろうと予感がしていた。これは非常によくない事態であると悟り、鉛のように重たい唾をゴクリと呑み込んだ。
「よう、すっかり遅くなっちまって悪かったな十文字。牛丼を食いに行こうぜ」
そこに近藤教諭が戻ってきた。とても重苦しい空気をいっさい感知することなく、能天気にズカズカと中に入ってきた。(先生、逃げて、逃げるんだ)と十文字の心の声が叫んでいた。
「あれえ、綾瀬さんじゃないか。どうしてここに」
「高嶋先生から、資料を化学室で保管するようにいわれたんです」
いつもの優等生フェローな綾瀬に戻っていた。担任にたいしてはニッコリと笑みを浮かべながらも、十文字に対しては殺伐としたオーラを存分に浴びせかけていた。
「そうなのか。これから十文字と牛丼食いに行くんだ。綾瀬さんもどうだい」
ほかの生徒には内緒だよ、と近藤教諭は耳打ちする。綾瀬はニコニコと笑顔を絶やさなかった。
「それが先生、十文字君が具合悪くなったようなんです」
ええー、と驚く十文字であった。そんな事実も、病気の兆候も本人にはまったくない。
「なに、本当か。それは残念だな」
近藤教諭に十文字がなにか言おうとしたが、綾瀬の腐った魚の目がそれを押し戻していた。
「これから病院に行くんでしょう、十文字君」異論は認めず、という圧が重い。
「それはなら先生が送ってやるぞ。車で行ったほうがいいだろう」
「十文字君の病院は、ちょうど私の家に近いので、バスで送っていきますよ」
「いや、しかしだな」
「大丈夫です。学級フェローの私が責任をもって連れて行きますから」
二人の女の間で十文字の処遇が話し合われていた。しかしながら、当の本人はこれっぽちも参加できないでいる。
「まあ、綾瀬さんだったら安心かな。それじゃあ十文字、牛丼はまた今度な。しっかりと身体を治しとけよ」
さすが我がクラスの才女は律義だ。責任感の強さは学年で一番だわ、と担任は感心していた。
「十文字君、行きましょう」綾瀬は彼の肘のあたりを掴んで立たせようとした。
「い、いや、だって俺は」といって立ち上がろうとしない十文字であった。
「行くのよ」
綾瀬は彼の耳元に顔を近づけて、恫喝するような口調でささやいた。
「は、はい」
十文字が弾かれたように起立した。そしてロボットのようなぎこちない足取りで、化学室を後にした。
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