第6話

 十文字にとって、綾瀬との接触は元通りとなった。無視されることはなくなり、挨拶しても、ちゃんと返ってくる。さらに良いことも追加された。お昼になると、こっそりとおにぎりを渡されることだ。  

 化学室の隅で、かなり大き目なそれを貪るように食い尽くした直後、十文字は、もうおにぎりの差し入れは必要ないと断った。どうして、おいしくなかったのと不安がる綾瀬に、彼は漢らしくきっぱりと言った。

「綾瀬さんのおにぎりはめちゃめちゃうまくて、毎日でも朝晩でも食いたいよ。でも、いつまでも甘えてばかりだと、俺はダメな人間になる気がする。自分のことは自分でやろうと思うんだ」

 十文字はなにかを決心したように真剣な表情になった。もっとも、その心意気は巨大色メガネと鳥の巣頭によって隠されている。綾瀬は、彼の声の調子から真剣に言っているのだと判断することにした。

「それもそうね」

 いつもお腹をすかせているダメ野良犬が成長したように感じたので、綾瀬は納得した。ウンとニッコリ笑って、私は傷ついていないよとの意思を示した。

「だから、今度は俺が綾瀬さんにおごりたいんだ。そのう、お好み焼き屋さんだから、だいした店じゃないんだけど、今日の放課後、一緒にきてくれないか」

「え」

 さすがにそれはデートのお誘いになるでしょうと、綾瀬は考えた。

 十文字に対しては昼食を差し入れたり、目覚まし時計をあげたりしたが、それはあくまでもボランティア精神であり、またはフェローとしての義務感からだ。異性として意識したことはなく、もちろん恋愛の対象ではなかった。ヘタに誘いを受けて勘違いさせると、あとで奈落の底に叩き落とすようなことを言わなければならない。

 そうなれば綾瀬穏香は、純朴で可哀そうな男子を手玉にとる悪女であり、魔性の女となってしまうだろう。その手のキャラクターにはなりたくないと思っていた。 

 恋愛ということであれば、かえってこの時期の彼女は、いつも島田友香子とつるんでいる上谷修二を気にしていた。もし付き合うことになるのなら彼じゃないかしらと、ときどき頭の中で妄想していた。

「いいよいいよ、そんなに気にしなくても。私のおにぎりは家にあるもので作ったから、お金がかかってないもの。それに十文字君にお金を使わせてしまったら、なんだか申し訳なくて」

 正直な意見を言ってしまった。

 彼は、いかにも貧困であるとの風貌であり、生徒の間でもそれが通説となっている。誰もが思っていることを、つい口に出してしまった。金のあるなしの真偽はどうあれ、その手の発言は男のプライドを傷つけるものである。

「いや、金はバイトで大丈夫だし、だって、俺は綾瀬さんになんにもしてあげれてないし、やっぱ何か返さないと」

 十文字は食い下がった。彼の頭の中には、これがデートの誘いであるとの認識はなかった。ただ純粋に受けた好意を返したかった。男であれ女であれ、借りを返さなければ気がすまない律義な性格なのだ。

「ははは。じゃあ、購買のメロンパンを一つ、お願いしようかな」 

 昼休み終了のチャイムが鳴った。綾瀬は立ち上がり、愛想笑いを浮かべながら化学室を後にした。十文字は彼女の姿が見えなくなってから、トボトボと元気のない足取りで教室へと向かった。

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