第5話
放課後、十文字は化学室及び準備室を掃除していた。
モップを右に左に動かしながら、綾瀬のことを考えていた。準備室を出てから、彼女は十文字を無視するような態度をとっていた。何度か話しかけようとしたが、そうすると、きまって近くにいる女子に話しかけるのだ。
男というものは、えてして女子の内面の動きを甘く見る傾向がある。これくらいはシャレで済むだろうとか、冗談で笑ってくれるだろうとか、まったく自分本位な考えを押しつけて、相手の心使いや親切にドロを塗ってしまう。結果、もっとも大事であるべき人に見向きもされなくなる。そういう男のほとんどは、時すでに遅しの状態になってようやく気づく。
十文字は服装や生活態度など、自分に関することはズボラであるが、こと人間関係については慎重であり、臆病でもあった。
だから、自分が愚かしい男であることをすぐに気づいていた。セクハラまがいのことをして綾瀬を傷つけてしまったことを、いまになって後悔していた。
あのとき、B組の女子がいなくなったらすぐに手を離せばよかったのだ。おにぎりをもらったことで、多少の狼藉は許されるだろうとタカをくくってしまった。女の子の生足を握るなんて、俺は最低の底辺男だ。きっと綾瀬さんは、とてもイヤな気分だったにちがいない。痴漢ヘンタイ男子認定されてしまったので、もう二度と口をきいてもらえないのではないか。
化学教室の真ん中で、モップの柄でバカだバカだと何度も自らの頭を叩きながら悶え叫んでいた。
「よう十文字、元気してっか」
そう言って化学室に入ってきたのは、担任の近藤教諭である。上着のポケットに手を突っ込んで、ゴソゴソやっていた。軽やかな笑みを浮かべて、どこか上機嫌な様子だ。
「おいおい、そのモップは学校の備品なんだから、頭をかち割りたいのだったら、先生の手刀を使いなさい」
担任は手をチョップ型にして差しだした。男子高校生の目は、肉のないカレーを見るように虚ろだった。
「なんだいなんだい、シケタ顔してさあ。掃除やらされたくらいで不貞腐れちゃって。まあ、これでも食って元気出せや。おっと、他の連中には内緒だからな。ハッハッハ」
もう片方の手をポケットから出して、握っているものを見せた。それはスルメゲソの破片だった
「先生、酔ってるんですか」
「バカ言え。酒なんか飲んで学校にいたら、懲戒免職になってしまうでゲソ。うーしっしっし」と言って、持っていたスルメゲソを十文字の上着のポケットにねじ込んだ。
飲んだのはポカリだポカリだと言うが、十文字は疑いの視線を向けていた。
「そういえば元気がないなあ。悩み事か。なんだったら、この愛子先生が相談にのってもいいんだよ」
普通の男子高校生にとって、同じクラスの女子との人間関係を、そのクラスの担任に相談することなどないであろう。だが十文字は話してみようと思った。
近藤教諭に全幅の信頼を寄せていたわけではない。同級生以外の誰か、気休めでもいいから年が離れた人のアドバイスがほしかった。彼本人も、その深層をはっきりとは自覚していないのだが、綾瀬のことが気になって仕方ないのだ。
「先生は、そのう、異性の人に嫌われたことありますか」
「異性っていうと、わたしでいうと男性か」
うう~ん、どうかなあとしばし考えて、近藤教諭はとりあえずスルメゲソをクチャクチャした。
「いや~、ないな。だってほら、わたしって温和な教師だから、誰からも好かれちゃうのよね。とくに男の人からは、話のわかる女だって頼りにされるのよ」
昨夜駅裏の飲み屋で、コロッケ屋のオヤジと二時間口ゲンカバトルを繰りひろげた末に、そこのマスターに出禁をくらった女の口がそう言った。
「そうですか」
「なんだいなんだい、誰かに嫌われたのか」
「いや、そういうわけじゃないですけど」
「じゃないけれど、なによ」
煮え切らない態度が、なんともじれったかった。だけど、近藤教諭は急かさなかった。職業柄、この年頃の心の微妙さをよく知っているからだ。
「じつそのう、俺、ある女子にひどいことをしてしまって、そんでもってすごく申し訳なくて、やっぱり謝ったほうがいいのかと」
「そりゃあ謝ったほうがいいね。で、十文字はどんなひどいことを女子にしてしまったんだい」
女教師は、さも意地悪そうに十文字の顔を覗き込んだ。
「そ、それは」
背後から女子の生足をムギュっとした、そしてムギュッとし続けた、とはさすがに言えなかった。
「じ、事故だったんです。ワザとじゃなくて、はずみだったんです」
十文字は、核心部分をぼかしたままだった。
「でも、その女子は怒っているわけだ。なぜかな~」
しかし、近藤教諭は一枚上手だった。言い逃れようとする獲物を、問いかけという縄で縛りつけた。
「俺、あんまり女子と話したことないから、舞い上がっちゃって、そんで、調子にのっちゃって。ゴメン、ほんとうにゴメン」
十文字は直立不動の姿勢になり、そのまま深々と頭を下げた。支えを失ったモップがゆっくりと倒れた。
「いやいや、わたしに謝られても困るなあ。ついでに言っとくけど、わたしが十文字のかわりに、その女子に謝ったりもしないからね」
「す、すみません」
「そんなに真剣に悩むなよ。いまは怒っているかもしれないけれど、時間が経てば気にしなくなるよ。女の子ってねえ、意外とサバサバしているんだから」
そう言われて、十文字は少しだけ気が休まった。しかしながら、緊張がほぐれてニコッと微笑みかけた生徒に、油断は大敵、日々精進せよ、ということを教師は教えなければならない。
「だけど、あんまりキツいことを言ったりしたりはダメだぞ。とくに十文字はインパクトがある格好しているから、怖がっちゃうよ」
「すみません」
服装と髪型のことをチクリと指導した。生徒と打ち解けているようでも、彼女はやはり教師なのだ。
「まあ、十文字の場合はしょうがないところがあるけどな」
じつは、この二人の会話はある生徒に聞かれていた。半開きになった化学室のドアの向こう、廊下に中腰になって耳を立てている女子がいたのだ。
綾瀬だった。生徒会関係の仕事を手伝った帰りに、たまたま化学室の前を通りかかったのだ。という言い訳を心の中に浸しながらやってきたのだ。
わざわざ化学室周辺をウロウロしているのは、十文字の様子が気になっていたからだ。さっきの無視は、さすがにやりすぎだったと、少しばかり反省していた。あのセクハラ行為には、それほど怒っていなかった。ほとんど偶発的で、緊急避難的なことだったと承知している。
でも一方で、なぜだか許せない気持ちもあった。せっかく親切にしてやったのに、彼の恩を仇で返すような軽はずみな行動に、元来の規範的な真面目さが罰を与えようとした。
だが十文字の懺悔を聞いて、そのわだかまりもすっかりなくなってしまった。このまま無視を続けるのは、かえって卑怯なことだと考えた。それは綾瀬穏香らしくないと、心の中で大きく頷いた。
化学室の二人に気づかれないように、綾瀬は廊下側から静かに化学準備室に入った。そして一分程いたかと思うと、そそくさと出てきた。ドアをそっと閉める刹那、クスッと一笑いしてから、その場を去っていった。
「それじゃあ、そろそろ職員室に戻るかな。まだかかるようなら手伝ってやるぞ」
「いえ、あとは準備室だけですから。今日はいろいろありがとうございました」
十文字は軽く頭を下げて礼を言った。
担任は、「ゲソのことは内緒でゲソ。はーはっはっは」と高笑いしながら化学室を後にした。
今日の先生、ぜったい酒入っているよなあと思いながら、十文字は準備室へと入った。モップをかけようとして、大机の上にあるモノが置いてあることに気づいた。
「あれ、お菓子じゃん。なんでこんなとこに」
それは漢方薬の粉末がたっぷりとかかった超絶激マズ健康スナック、{仙人の号泣}だった。
スナック菓子の袋を手にすると、その下に一片のメモが置いてあった。それには次の文章が書かれていた。
(ヘンタイさんは、罰としてこのお菓子を食べきること。残したりすると、お肉がたくさん入った、おいしいおにぎりが食べられませんよ。A組フェローより。PS、でもあんまり無理しないでね)
十文字はしばらくそのメモを見ていた。そして丁寧に四つ折りにすると、財布を取りだしてその中に入れた。
スナック菓子は、えもいわれぬ味がした。枯れ枝のようにシブくガサガサした舌触りがあり、またニオイは相当に薬臭かった。普通の人間ならば、二つ三つでギブアップするほどマズいのだが、十文字はもくもくと食べ続けた。思わず号泣したくなるほどの味だったが、叫び出すことはなかった。
ただし、すべてを食べ終えた時には、すこしばかり瞳がうるんでいるのを自覚した。それは味覚の神経が悲鳴をあげたのではない。彼のもっと深いところにある心のヒダを、あの一片の紙切れに、ほんのりと撫でられたためだった。
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