第4話

 次の日の朝、十文字は登校してこなかった。皆はまた遅刻しているのだと思って、たいして気にもしていない。

 ただし、綾瀬だけは別だった。昨日の件でグレてしまったのではないかと、心配になっていた。だから朝のホームルームが終わると、さっそく担任に駆け寄り彼のことを訊ねた。  

「十文字なら遅れてくるよ。今日は病院で検査の日だって、前々から届けが出ていたからな」

「そう、そうですか、検査ですか」


 十文字隼人は国が認定する難病を患っていた。ただし、難病といっても命にかかわるほど重篤なものではない。免疫系統の異常により、身体のあちこちに炎症を起こすのだ。その疾病は、目や喉の粘膜を痛めつけ、時として関節炎をも引き起こし、日常生活を少しばかり困難なものにしている。

 十文字の場合は、とくに目の中に炎症が起こりやすく、強い光は極力忌避するようにと医者から言われていた。なぜなら炎症が最悪まで進行した場合、往々にして失明してしまうからだ。



「まあ、いちおう難病なんだけども、大人になるとほぼ治るらしいんだ。今日もさあ、眼科の先生が、もうそろそろメガネは必要なくなるって言ってくれたんだ」

 十文字は、彼のトレードマークとなっている巨大な色メガネを何度も上下させた。

「だから、そんな悪趣味なメガネをかけていたんだ」

「悪趣味はないだろう。病人なんだからさあ」

 病人のくせに偉そうに胸を張る姿を見て、綾瀬はクスクスと笑う。

「でも、あのマスクはないと思うなあ」

 十文字はマスクをしてくることがある。世の中の流行り病が治まって誰もがしなくなったが、彼は度々、律儀にもしっかりと着用していた。

 問題なのはそのマスクの形状と色だ。嘴のように大きく異様に尖がっていて、色が真っ黒な特注品だった。クラスの男子からは恐れを込めて、悪魔のカラスマスクと呼ばれていた。

「喉もけっこうやられるからな。乾燥する時は必需品なんだよ。病院から貰ったから高性能なんだよ。俺的には、あの黒色と尖り具合はカッコイイと思っているし」綾瀬のクスクス笑いは続いていた。

 昼休みとなっていた。ちょうど昼時に登校してきた十文字をつかまえた綾瀬が、化学室へと引っぱってきたのだ。そこには二人以外誰もいなかった。

 十文字の病気の話が途切れたタイミングで、綾瀬がすまなそうに切り出した。

「昨日は私が余計なことをしちゃってごめんなさい。かえって仕事が増えちゃったみたい」

「綾瀬さんが気にすることないさ。元はといえば俺が原因だし。でもちょっと気にした方がいいかな」

 もちろん、それは嫌味ではない。ある程度お互いを知った者同士の、少しばかりエスプリが効いたジョークである。

「あら、じゃあ今日も手伝って、近藤先生に言いつけちゃおうかな」

「いやー、それはカンベンだわ」

 頭を抱えてイヤイヤをする男子を、可愛い真面目顔が満面の笑みで見ていた。

「はいこれ」

 綾瀬が小さな紙袋を差し出した。突然出されたその中を、なんだろうと首を傾げながら、十文字がそうっと見た。

「なにこれ」

「目覚まし時計よ。昨日あげるって言ったでしょう」

 物をあげることが気恥ずかしいのか、綾瀬の口調が少しばかり怒り気味になってしまう。

「いやいや、目覚まし時計くらいあるよ。壊れてるけど」

「壊れていたらダメじゃないの。また遅刻しちゃうでしょう。これはすんごく大きな音が鳴るからすぐに起きるよ。だから、これを枕元においてね。遅刻はしないように」

「でもこれ、綾瀬さんの目覚ましなんだろう」

「私は予備のがあるからいいのよ」

 綾瀬の愛用品を自分の枕元に置くということであり、それは悪くないと十文字は思った。  

「それと、これ」

 綾瀬は、今度は布でくるんだ包みを差し出した。

「もう目覚まし時計はいいよ。一つで充分だって」

「これはそういうものじゃないの、もう」

 綾瀬が、ほっぺたをふくらましてブーたれている。十文字は、もうなんでだようと思いながら包みを開けた。

「おー、これ、おにぎりじゃん。スゲー、もしかしてくれるの」

 おにぎりだった。几帳面な綾瀬らしく、それはほぼ正三角形をしており、きれいにノリが巻かれていた。丁寧に握られているのが一目でわかる。

「今朝、作りすぎちゃったの。捨てるのも、もったいないし、パンが好きな十文字君には口に合わないかもしれないけど」

 作りすぎたのではない。十文字に食べさせたくて、余計に握ってきたのだ。

「捨てるくらいな、俺が頂くよ。アハ、いただきま~す」

 十文字は、まるで原始人のようにガツガツとかぶりついた。女の子の手作りということよりも、この場合は単純に腹がへっていたので、とにかく嬉しそうだった。 

「うんめ~。これ中に肉は入ってるよ。すんげえ、うめえや」

 食べ盛りの男子に、中身が梅干しやオカカでは物足りないであろうと考え、豚バラの辛みそ炒めを入れていた。

「もう食っちゃったよ」

 包みの中には、おにぎりがもう一つあった。当然それは綾瀬本人の分だと考えていたので、食い意地に目覚めた男子は、うらめしそうに見ているだけだった。

「まだあるじゃないの」

「それ綾瀬さんの分だろう。悪いよう」

「私のは、ちゃんとあるから」と言って、別の包みを見せた。

「うおお、そうなのか。準備がいいなあ、綾瀬さんは。それでは遠慮なくいただきま~す。今度の中身はなんじゃらほ~い」

 無邪気に喜ぶ十文字を、綾瀬はニコニコしながら見ていた。

 その時、化学室に数人の生徒が入ってきた。一年生の女子たちだ。朝食をとる場所を探して、ここにたどり着いたようだ。

「あ、誰かいる」

「先輩じゃないの」

 三人の女子たちは、教室の入り口付近で止まっていた。

「せっかく二人でいるのに、邪魔しちゃだめよ」

 彼女らは空気を深読みしすぎて、そそくさと立ち去ってしまった。

「なんかさあ俺たち、クラスの誰かに見られたら、勘違いされそうだな」

「え」

 それはマズいと考えた。

 彼女の気持ちの中で、異性としての十文字は極めて薄かった。綾瀬穏香は真面目で面倒見のよいA組のフェローだが、やはりカッコいい男の子に憧れる普通の女子である。

 いまおにぎりを食べさせているのも、捨てられた子犬にエサをあげる感覚に近かった。弁当ではなくおにぎりなのも、その理由だ。

「準備室にいきましょうよ。あそこなら誰にも見えないし」

 余計な勘違いをされないためにも、二人には遮蔽された空間が必要だった。

「それはいいけど、たぶん、カギかかっているよ」

 化学準備室は、化学室の隣にある控えみたいな部屋だ。化学室とは連絡ドアで繋がっているので、中から出入りができる。ただし、準備室には薬品庫が内設されているので、いつも施錠されている。開けるのには、担当教諭の許可が必要だ。

「まあそうなんだけれども、もしかしたらね」

 確信があったわけではないが、そう言って綾瀬は教室の前の方へ向かった。そして黒板の横にある連絡ドアのノブを回した。

「ほら、開いたよ」

 なぜだかわからないが、ドアが開いてしまった。さっそく二人は中に入った。

 化学準備室には大きな机があった。畳一枚分以上ある長方形なそれは、脚の部分がしっかりと床に固定されていて、ビタ一ミリも動かない。綾瀬と十文字は、向かい合わせで座った。もちろん、化学室との連絡ドアのカギを施錠するのを忘れなかった。

 十文字は二つ目のおにぎりもすぐに食べてしまった。その食べっぷりに気を良くした綾瀬が、自分の分も差し出した。丹精込めて握ったおにぎりをモリモリと食べる様子を見て、お腹いっぱいになっていたのだ。

「悪いな、こんなにもらっちゃって」

 そう言いつつ、彼の手はまったく悪びれる様子もなくおにぎりをとった。

「じつはそのおにぎり、けっこう高いんだよ。料金請求しちゃおうかな」

「えー、マジかよ」と言いつつ、食べるペースは落ちなかった。

 その時、化学室の方から音がした。何ものかが準備室に入ってくる予感が、ひしひしと伝わっていた。

「あれえ、カギがかかってる」

 ドアの向こうで誰かがそう言って、ガチャガチャとドアノブをいじっている。二人は凍りついていた。とくに不純な行為をしているわけではないのだが、なんとなくいけないことをしているような罪悪感を共有していた。

「よいしょっと」

 女子生徒が一人入ってきた。

 ドアを開けて準備室に一歩足を踏み入れた途端、二年B組の小牧万里子は戸惑っていた。ややポッチャリな身体をそこに入れたらいいのかどうか、なんとなく迷っている。

 なぜなら準備室の中で女子生徒が一人、おにぎりを手にして立っていたからだ。窓を背にして、正面を自分の方に向いた女子が一人、ぼう然と立っていたのだ。

「ええーっと、そのう、あなたは、たしかA組の・・・。なんだったっけ」

「ははは、綾瀬です。そのう、綾瀬穏香だよ」

 とっさに作り笑いをした。端整な真面目顔が、いい感じにひきつっている。

「そうそう、その綾瀬さんが、どうしてここにいるのかなあ」

 その理由を、うーんと小牧は考え始めた。

「そ、それは、おにぎりを食べようかなと思って。だって、おにぎりって化学準備室で食べたほうがおいしくなるから。薬品の匂いがアクセントになるのよ」

「え、そうなの」

 化学薬品臭が漂う場所では、かえって逆効果だろうが、とにかく何か言ってその場をごまかそうと綾瀬は必死だった。

「ほら、昨日のテレビでやってたよ。そういう都市伝説があるって。トイレに女の子がいるようなものよ」

 便所の花子さんと化学準備室のおにぎりを結びつけるのは、いかに才女といえども無理がある。

「へえ、そうなんだ。こんど、わたしもやってみよう」

 だがしかし、小牧は納得したらしく、明日はおにぎりを持ってこようとまじめに考えていた。

「ところで、あなたはそのう、たしか隣の組の」

「うん、小牧万里子だよ」

「どうしてここに」

「次の授業が化学だから、担当の先生にいろいろと準備しとけっていわれてるんだ。それでさっき準備室のカギを開けていたのだけど。ああ、そうかあ、だから綾瀬さんが入れたわけだ」

「はははは」

 笑ってごまかすA組の女子生徒の足元には、一人の男子が潜んでいた。

 十文字である。

 小牧が入ってくる寸前に綾瀬が場所を変えて、その後ろにしゃがみ込んだのだ。準備室の大机は箱型なので、屈んでしまえば小牧の場所からは見えなかった。

{うわあ}

 窮屈なヤンキー座りの体勢だったので、十文字はバランスを崩してしまった。後ろにひっくり返りそうになって、あわてて手近にあるモノを両手で掴んだ。

「ひゃあああ」

 綾瀬が悲鳴をあげた。突然、両膝の裏のあたりをガチッと握られたのだから、たまらない。

「ど、どうしたの綾瀬さん」

 小牧が一歩足を踏み出すと、綾瀬は両手を前に突き出して、それ以上こないようにと制止をかけた。      

「いや、その、足元に虫がいたみたいで。たぶんサソリだと思う」

「え、どこどこ。あたし虫とか全然平気だよ。でもサソリって爬虫類じゃなかったっけ」

「ああ、大丈夫大丈夫。どこかに逃げたみたい。こんど見つけたら踏み潰しておくね」 

 その時の十文字は、女子生徒同士の会話が耳に入らなかった。なにせ綾瀬の生足をがっちりと握ってしまっている上に、見上げればお尻があるのだ。

 しかも、その気になればスカートの中を覗くことだってできる。ボサボサ頭と色メガネで隠されているが、彼の顔はこれでもかというくらいに赤く火照っていた。

「もうすぐ昼休みが終わるよ、綾瀬さん」

「うん、いまちょうど出ようと思っていたの」

 そう思っているわりには、まったく出ていこうという気配が感じられないので、小牧は一緒に出ようと言った。

「先に行ってて。私は薬品の匂いを嗅ぎながら、おにぎりの残りを食べちゃうから」

 都市伝説都市伝説と、笑顔で口走る綾瀬の言い訳に納得して、小牧は出ていった。

「ふう、危なかったな。間一髪だったよ」

「それより、いつまで私の足にしがみ付いている気かしら」

 小牧がいなくなっても、十文字の手は離れなかった。

「はははは」

 笑ってごまかそうとするが、彼の手は相変わらず綾瀬の生足を掴んでいた。

「もう、このヘンタイ」

 業を煮やした綾瀬が、十文字の手をピシャッと叩いた。すると、さすがにその両手は離れた。

「痴漢が好きなヘンタイ男子は、一人でおにぎりでも食べてなさいっ」

 フンッと、あからさまにあっちの方を向いて、綾瀬が準備室を出ていってしまった。


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