第3話
昼休みになった。生徒たちは、気の合った友達とお気に入りの場所で昼食をとっている。
修二と友香子、田原は窓際の後方の席で、いつものように調理パンにかじりついていた。綾瀬は教壇に近い席で、ジミ~な女子たちと弁当を囲んでいる。
十文字が、めずらしく教室にいた。いつもはどこかにいなくなるので、自分だけ昼食を食べられない貧乏さを他の者に見せたくないために校庭の隅で体育座りしているだの、いや、校舎の裏手にある小川で小魚を獲って食っているだの、不憫に思った校長が屋上で焼き肉を食べさせているだの、いろいろな憶測が飛び交っていた。
「どうした十文字、めずらしいじゃんか」
友香子がさっそく、こっちにこいと手招きした。
「昨日パン屋のおばさんにこれをもらったんだ。一人じゃ多いから、みんなもどうかと思って」
そういって、彼は大きめなビニール袋を掲げた。透明なその袋には、パンの耳部分がずっしりと入っていた。
「これは大量だな。俺たちも、ちょうどパンが足りなくなってきたとこなんだ」
「でもよう、耳だけじゃあ、さすがに味はないぜ」田原の指摘は的を得ていた。
「そう言うと思ったよ。じつはおばちゃんから、これももらったんだ」
十文字は得意そうに、もう片方の手をだした。それはビックサイズのイチゴジャム瓶だった。
「ナイスだ十文字、なんてナイスな男なんだ。こんどデートさせてやるぞ」
友香子が大仰に手を叩いて褒め称えた。四人はさっそくパンの耳を貪りはじめた。
「うひゃあ、うんめ~な、このパン。耳だけど」
「お、なんだこりゃあ。ショートケーキの切れ端もあるよ。しっかりクーリムが付いてるぜ」
「なんだって田原、それよこせよ。あたしの切れ端と取り替えてやるよ」
「いやなこったい」
教室の後ろが盛り上がっていた。めずらしく十文字がいるので、友香子や修二、田原も精いっぱい喜んでいる。
綾瀬は後ろが気になっていた。昼食に関してかわいそうな噂のある十文字に、自分の弁当を少し分けてあげたい衝動に駆られていた。もちろん、それは友情というよりも、持たざる者への施し的な意味合いが強かった。フェローとしての心意気である。
「なんか後ろが騒がしいね」
「十文字君がいるよ。袋に一杯パンの耳がある。ほんとうに貧乏だったんだ」
綾瀬と一緒の女子が、ちょっと感心するように言った。結局、彼女は友香子たちの輪に入ることはなかった。
放課後、十文字は担任の言いつけ通り化学室と化学準備室の掃除をしていた。
大きな教室をたった一人で掃除しているので、なかなか捗らない。喉が渇いた十文字が、化学室内の蛇口から直接水を飲んでいると、ガラガラと戸を開ける音がした。振り向くと、女子生徒が一人入ってきた。
「綾瀬さん」
十文字は、口付近の水滴をボロボロブレザーの袖で拭った。
「一人じゃ大変かな、って思って」
ハハハと、彼女にしてめずらしく照れ笑いをしていた。
「でも、忙しいんじゃないのかい。俺なんかにかまうヒマないだろう」
「ううん、べつにそんなこともないかな。それに、掃除もフェローの仕事のうちだし」
「そうなのか。そりゃあ助かるけど」
このペナルティーに関して彼女に責はないのだが、そこは責任感が無駄に過多なフェローである。かかわってしまった物件は、最後まで面倒をみなければ気がすまない性分なのだ。それに今朝の一件で、なにかとみすぼらしいこの男子に施し心を刺激され、ボランティア精神をゆさぶられていた。
綾瀬は教室の後ろに行き、用具ロッカーからモップを引っぱりだした。十文字は雑巾で机を拭きだした。
「夜更かしまでして、なにしているのかしら」
男子に積極的に声をかけるなんて、まじめな印象が強い綾瀬にしては少しばかり冒険した問いだった。そう言ってから、ヘンな解答が返ってきたらどうしようと一瞬不安になったりもしていた。
十文字は手を止めて綾瀬を見た。彼女はモップを忙しそうに動かしている。
「これは内緒にしてほしいんだけど、俺バイトしてるんだ」
「え、そうなんだ。なにをしているの」
「飲食店の皿洗いでさあ、これが夜遅くまでだから学校の許可が出ないんで、とくに先生たちには絶対に言わないでくれよ」
「うん、わかった」
遅刻の理由が怠惰や不埒な行いなどではなく、金銭を得るための労働なのだとわかって、綾瀬はホッとした。彼の経済状況をかんがみると、それは正当なことだと思ったからだ。
モップをかけながら、十文字をチラチラと見ていた。あらためて注目すると、彼の服装が相当ひどいことになっているのが目についた。
「せいふく」
「なに?」
「その制服、お母さんに縫ってもらったほうがいいんじゃないかと思って」
「ああ、これか。俺は別に気にしてないよ」
「だめよ。だらしない格好をしていたら、バカにされるじゃないの」
「言いたい奴には言わせとけばいいんだよ。俺は平気だって。それに両親は家にいないから」
(あっ)と、声にはならぬ声を発した綾瀬であった。
しまった、触れてはいけないことに触れてしまったと、思わず首をすくめた。このあとどうやって取り繕うか、その明晰な頭脳がフル回転していたが、今日に限って程よいフォローの文句が出てこなかった。
「二人とも長期出張なんだ。ほんとにたまにしか帰ってこないから」
十文字自身が、綾瀬をフォローすることになった。
「ごめんなさい」
このタイミングでの謝罪は、十文字の境遇を決定づけることとなる。謝ってから、それが不適切だったと気づいた。ああ、私またやってしまったと、綾瀬は何度目かの後悔をした。
会話はそこで止まってしまった。なんとなく気まずい雰囲気が醸成されてしまい、しぜんと二人の作業速度が速くなっていた。
綾瀬は、十文字の家庭の事情に不用意に触れてしまったことを後悔していた。可哀そうだなと、たいして考えずに口にしたが、心の中で自分の未熟さに喝を入れていた。
十文字はそんなこと気にもしていなかった。まったく別の、どちらかといえば不純なことを考えていた。
わざわざ女子が自分の手伝いをしてくれているのだから、ひょっとして俺に気があるのではないかと、男子高校生にありがちな勘違いをしていた。
告白されたらどうしよう、なんて応えればばいいんだと、ボサボサ頭の不審者の鼓動が早くなっていた。もちろん、見かけが浮浪者な男子に恋心を抱く女子などいない。綾瀬の恋愛脳に彼の姿が登場することは、いま現在にかぎってみれば、これっぽっちもなかった。
それぞれがそれぞれの考えをこねくり回しているうちに、二人は接近していた。綾瀬はモップで床を磨きながら少しずつ後ろへ、十文字は机をガシガシ拭きながらやはり後方へと動いていた。
「ひゃっ」
「うわっ」
背中と背中、尻と尻が衝突した。その瞬間、二人は弾かれたように離れた。
「ご、ごめん。べ、べつにヘンなことをしようとしたわけじゃないから」
「ううん、私の方こそよそ見をしちゃって。はは、はははは」
綾瀬は、男子に触れてしまったことに関してはさほど気にしてなかった。もちろん、ワザとじゃないことも承知していた。
しかし、十文字は大いに気になってしまった。その可愛い身体が、特にお尻の部分が、ぷにゅっ、となったことにドキドキが止まらなかった。女子の身体はこんなに柔らかいものなのだと、人生初の感動を味わっていた。
そして突然に、まったく唐突にある種のスイッチが入ってしまった。
「綾瀬さん」
「えっ」
それは危険な呼びかけだった。巨大色メガネとボサボサ頭のためにまったく見えないのだが、十文字の表情はこわばっていた。禁断の柔らかな肉に触れてしまったことにより、彼のまだ未成熟で、ジェントルマンの仮面を被っていない雄の赤裸々な部分が、突発的に励起されつつあったのだ。
綾瀬はキョトンとしていた。やっぱり怒られるのかしら、とさっき言ったことを気にしていた。
「もう終わったかあ」
そこに大きな声を張り上げて人が入ってきた。近藤教諭だった。
ガラス瓶を叩き割ったかのように、瞬時に男子生徒の緊張がほぐれた。正直なところ、彼女の出現に十文字はホっと胸を撫でおろした。
「サボってんじゃないかと思って見にきてやったぞ。って、あれ~、綾瀬さんもいるのか。はは~ん、さては十文字、彼女を無理矢理手伝わせてるんだな。おまえってやつは、ホントにどうしようもないなあ」
「違うんです、先生。十文字君が何か言ったわけではなくて、私が勝手に手伝ってるだけです。ほんとうに私が勝手にきただけですから」
クラスフェローがそう言うと、十文字がウンウンと必死に頷いていた。
「わかったわかった。十文字、今日のところはそういうことにしてやる。でもここの掃除は今週いっぱいだからな。おまえも男なら、女の子に手伝わせるんじゃないぞ。明日からは一人でやれ」
「えー」
責任感の強い働き者の真面目な美少女を、不貞男子である十文字が強制的に働かせているとの絵図が、担任の頭の中で出来あがっていた。ならば、正義の教育者である近藤愛子が懲らしめてやるということだった。もともとここの掃除は遅刻に対する罰なので、彼女が手伝ってはいけなかったのだ。
「いや、先生、ほんとに違うんです」
「いいからいいから、この愛子先生にはちゃんとわかってるんだよ。男という生き物の本性をわかっているのさ」
いい年して、浮いた話の一つもない酒乱な女教師が、男というものの本性を達観していた。いや、恨んでいるというべきかもしれない。
「ほら、綾瀬さん、もう帰るよ」
近藤教諭は、綾瀬の背中を押して化学室を出た。
「で、でも」
ほんとうは帰りたくない気持ちだった。しかしここで手伝えば、十文字にさらなる罰が与えられるかもしれない。後ろ髪を激しく引かれながらも、綾瀬は帰るしかなかった
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