第16話

木立を吹き飛ばし、草叢を跳んで、風のようにフェールは駆ける。

その後方から迫る影狼たち ――― 追う側の息遣いを耳で把握しながら。

ルシオスは大きな毛深い闇色の背中にしっかりしがみ付いて、目の前に唐突に表れる木々の枝葉が顔に当たらぬよう剣で弾き飛ばす。


馬より疾く、風に同化したかのように滑らかに森を走り抜けるフェールとはいえ、獣の背だ、その背に居れば上下に揺れる。

ルシオスはその使役の躰の動きから振り落とされぬようぴったりと上体を密着させる

しかし、自然と呼吸は浅く早くなる。

追われる者の恐怖心もあり心臓の鼓動が忙しない。

――― あんな影獣が真後ろまで迫っていたなんて。

肉迫していた気配に反応せず、そのままでいたら間違いなく噛み殺されていただろう。

その事実に、速まった心拍数はしばらく収まりそうにない。

――― だからあれほど、油断されぬよう常々言いつけておりますのに。

そんなウィルディムの冷たい科白が脳裡を掠めたが、反省ならあとですればいい。

今はとにかく集中しろ、とにかく逃げろ!


主の呼びかけに応じて駆けつけたフェールに飛び乗り、3頭の影獣をミリアル達から引き離したのには考えがあったからだ。

無策にあの場から離れ、遁走しているわけではない。

ルシオスにはフェールとイルシュ、そしてあと「一対」の影獣がその影に潜んでいる。

攻撃範囲が広く、一度に数頭を相手にできる影獣。

それを呼び出す以外に、あの状況を打開する方法は無いとルシオスは判断した。

しかしその手段を用いるには、とにかくミリアル達から離れなければならなかった。

ミリアルの傍を離れずに対処することを選べば、また逃げられてしまうだろうと考えた。

――― こいつは、今宵は仕留めなければならない。


耳を打つ風切り音。

そしてフェールが草木を縫って走る音に混じって、後方の追跡する獣の脚音と独特の呼吸が相変わらず聞こえていたが ――― ふと、その数が少なくなったような気がしてルシオスは一瞬後ろを見遣る。

巨狼のみが闇を割いて迫ってくるのが見えたが、他の2頭の姿が見えない。

はっとして視線を横に投げると、左の林の向こうに併走する獣の影が見えた。

左右後ろを囲まれたか!

・・・いや、違う!!

右の林にも目を凝らすが、最後の一頭の姿が見当たらない。

影獣は地を蹴り、影を伝って森を縦横無尽に駆け回る。

頭上にも目をやるが、月明かりが照らし出す枝葉の合間にもその姿は無い。

もう一頭、何処へ行った!?

「フェール、囲まれるな!」

呼吸の合間に叫ぶと同時、毛足の長い狼は走る速度を上げる。

しかしその時だった。

突如見失っていた3頭目の影獣が、突風のような勢いで左前から現れ突進してきた。

「―――ッ!!?」

思わず目を見開いた。

それ以外にできたことは無かった。

それほどの急襲だった。

しかし代わりにルシオスの使役がすべき反応をして見せた。

主を護らんと跳ね上がり、躰を翻してルシオスを乱暴に背中から振るい落とす。

「いっ・・・・!!」

何とか受け身をとれる角度から地面に衝突し、もんどり打って膝をついたルシオス。

フェールの方は突撃してきた影獣に襲い掛かり、がばりと開いた大きな顎でその肋骨に喰らいつき、一息に噛み砕いて引き千切った。


その断末魔の獣の悲鳴が木霊するのを耳の端で聞きながら、慌ててルシオスは双振りの中剣を引き抜いた。

追いついた狼の影獣が頭を狙い、もう一頭の巨狼の影獣が胴を狙い、揃ってルシオスに飛び掛かる。

だがその眼前で、鋭く反転して跳び込んだフェールが巨狼の方に体当たりした。

そのまま二頭は巴になって噛みつき合いながら転がっていく。

一方、咄嗟に剣を十字にして頭を防御したルシオスは、両手に重い衝撃を受けて、そのまま身体をずらして受け流そうと試みる

だが影狼がその剣にがっきりと噛みついていた。

受け流した不安定な体勢のところを、その強靭な獣の首に振られて、さらに体勢を崩しかける。

「くっっ」

だがそのまま力負けすれば、引き倒されてその牙の餌食になってしまう。

踏ん地張って、振り回された勢いをそのまま利用して再び受け流して狼をいなす。

遠心力で振り回し返されて、剣を食いしばっていた漆黒の牙が離れた。

だが、ルシオスの方も慣性を制御しきれず、勢いに負けて一振り剣を手放してしまった。

「ッッ!」

剣を拾っている暇も声を漏らしている暇も無い。

その隙をついて、着地した地面を蹴って影狼が再びルシオスに飛び掛かる。

反射的に残った剣を逆手に持って顔面に翳すと、再び影狼はその中剣を咥え込み。

その跳びつく勢いに負けてルシオスは地面に押し倒された。

「うぐっ!」

顔に、呻り声をあげる影狼の牙が迫るのを、刃一枚、腕が震えるほどの力を絞って食い止める。

剣に噛みついた牙がぎちぎちと鳴る。

肩を踏んだ狼の前脚、その爪がギリギリと押し込まれ、痛みで腕が力負けしそうになり思わず顔を歪めた。

巨狼と噛みつき合って争っていたフェールが主人の危機を察っするのに気づいて、ルシオスは声を絞り上げる。

「気を散らすなフェール!!お前はその影獣を始末して!」

だがそうも往かぬ。

主人の生命を最優先するのが彼ら影獣騎士の『使役』達の至上使命だ。

故にフェールに逡巡があり、一瞬判断が揺れた。

その隙を衝いて巨狼とフェールの上下が入れ替わった。

そしてフェールは大きく首元を噛みつかれて動きを、自由を奪われた。

・・・フェールを噛み殺すことのできる影獣など居ない。

だが、その主人であるルシオスであれば話は別だ。

この、人間に与する影獣の動きを止め、そしてこの脆弱な人間を殺せば終わりだ、と。

影狼達はそれに気づいている。

徐々に押される剣と牙。

ルシオスは歯を食いしばり、目を細めながら逡巡する。

―――『肉を斬らせて骨を断つ』。

何時のことだかもう覚えてはいないけれど、そういう言葉とやり方があるのを教わったことがある。

・・・だが。

己の影に控えている「最後の影獣」を放てば、一気に形成は逆転する。

しかしフェールがまだそこにいる。

この状態でその影獣を呼び出せば、自分の支配下に置ききれていないその「聞かん坊」は、敵だけでなくフェールをも見境なく攻撃してしまう。

その「聞かん坊」の攻撃速度はフェールの移動速度を遥かに上回る。

それが取り得の影獣だ。

それを放って、フェールが無事でいられるか、実のところルシオスは知らない。

だから、迷う。

その選択によって自分が負傷することはとっくに覚悟の上ではあるが・・・・。

狼越しに見る月は、煌々と照っていて群雲に陰る気配すら無い。

押し負けしつつある剣が、小刻みに震えながら眼前に迫る。

いや、ここで押し負けるわけにはいかない。

フェールを傷つけてしまう覚悟で、「颯」の速度を持つ影獣を放つしか選択肢が無い。

奥歯を軋らせながら、その名を影より召喚しようと鋭く息を吸い込んだ。

だが、その刹那だった。


びょう、と風を呻らせて黒い影が側面の林より飛び出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る