第2話

暫く、重い金属同士が擦れあう音のような悲鳴の残響がいんいんと残っていたが、それを聞きながら少年は、緊張が解けたのか尻餅をつくように後ろに倒れこんだ。

額から汗が流れ落ちる。

月光が支配する闇は涼しく、冷たい風が心地よい。

詰めていた息を大きく吐き出すと、両手を地面について三日月を見上げた。


「ぎりぎり及第点です」

「ははは、ちょっと危なかったね」

辛辣な低い声に対して、乾いた笑みをその幼く見える顔立ちに浮かべながら。

夜空を見上げた視界の端に、黒服の連れと、くるくると宙で渦巻いて遊ぶ影の塊二つが写る。

「イルシュ、フェール、おいで」

と声をかけると、二つの影はふわりと降りてきて、主人である少年にすり寄った。

ご苦労様、と声をかけてその影たちの背中を撫でてやると、嬉しそうに背伸びして、二つの影は地面に横たわる少年の影に同化して姿を消す。


「この辺はもう大丈夫そうですね。これでしばらくはまた落ち着くと思うけど・・・」

「油断しないでください。今別のものに襲われたらどうしますか」

ぴしゃりと言ってのけ、鉄仮面然とした表情の背の高い男は少年の手を取って無理やりに立ち上がらせて、その赤毛の頭に付いた葉っぱを払い落とした。

「あぁ、またそうやって子ども扱いする・・・」

少年は拗ねて尻の汚れを払う。


だが、ややあって、

「・・・ところで、あのー」

相手の顔色を窺って、表情をころっと一変させる。

良い夜だ。

仕事が済んだなら少し歩いて回りたい。

――今日も、見つけられる気がする。


しかし、と。

どう切り出せば了承をもらえるか。

言葉を選びながら、視線を泳がせながら、そわそわと。

相手の堅物さは筋金入りだ。

少年が知る人たちの中でも、もっとも堅い人間だ。

無理だろうな、ダメって言われるだろうな、十中八九断られるだろうな、と思いながらも、少年は思い切って黒服の男に切り出した。


「無事影獣も狩れましたし・・・ちょっとあたりをうろついて帰りたいのですが」

森で探したいものがある。

“イェルランディオの石” ――― 少年の目当ては、この森より少し自邸寄りの土地でしか見つからない美しい石。

数も少なく、人々には『発見することは奇跡』と言われている輝物だが、この森一体をよく見知っている少年にはどこにあるかの検討は大体ついている。

月も出ているし、今日は見つけやすいはずだ。


「言ってるそばから子供っぽいこと言わないでください。ダメです。帰りますよ。このあたりは猟師の狩場です。罠がそこら中に仕掛けられているのをご存知でしょう。またうっかり罠に足を引っかけられては困ります」

「な、なんでそれを知って・・・!」

「一昨日、猟師たちが親切にも罠を仕掛けた大体の位置を記した地図を届けてくれました。」

ウィルディムと呼ばれたフロックコートの男が、おもむろに、樹の根本の藪の前に屈みこんで中を覗き込んだ。

ややあって茂みに手を差し入れた、かと思うと。

ビィンっ、と音を立てて張られた糸が勢いよく天へ向かって跳ね上がった。

どうやら、狩猟用の罠が丁度ここにも仕掛けられているのを把握していたらしい。

少年も茂みを覗き込むと、中に縄と仕掛けが置いてあるのが見えた。


「こんな夜中にまた罠にでもかかって、影獣と言わずとも野生の獣に襲われでもしたらどうするつもりです。私か別の者がいればよいものの・・・普段よりもっと慎重に行動なさってください。しばらく森を独りで出歩くのは禁止です」

「あ、いえ、あの、もし良かったら付き添って・・・」

「ダメです、今日はもう帰りますよ」

全くもってなっていない、と続くお目付け役の小言を最後まで聞かず、少年は「ああ・・・」と夜空を振り仰いだ。


そう、それはつい先週の出来事。

その日もこんな煌々とした良い月夜だった。

狩場に出現した影獣を追っていた際、何の考えも無しに茂みに足を踏み入れた。

その途端、何かが足首をきゅっと締め上げたかと思うと、そのまま悲鳴とともに頭上はるか上の樹の枝まで吊り上げられて醜態を晒したばかりであった。

必死に、慌てて、足首に巻きついた罠を自分でなんとかしようにも宙吊り状態で手が届かず。

しばらく独りで暴れてみたり、体をよじらせてみたりして奮戦して頑張ってみたが、「できれば鹿を、願わくば猪を」と、エンセィドの優秀な猟師たちが生活を賭けて仕掛けた罠は頑丈だった。

腹筋をこれでもかと酷使した試みは徒労に終わり。

結局「助けて―――っっ」と叫ぶ羽目になり、同行していた影獣騎士の一人が苦笑しながら助けてくれた。

翌日の腹回りの筋肉痛は酷いものだった。

こんな出来事を報告すれば、また口うるさく説教されるのは自明。

そう思って、助けてもらった影獣騎士には口止めをし、この執事に対しても伝えずにおいた。

――― のだが、なんと、バレていたのか・・・。

何故だ。


「あなたがかかった罠の付近に、これが落ちていたそうですよ」

そう言って、黒服の執事、もといウィルディムが差し出したのは赤い石が留められたタイピン。

「あぁ・・・どこで失くしたかと思ったら・・・」

「見つけた猟師が心配して届けにきたのですよ。罠は壊されている、アッシーネの紋章付のタイピンは落ちている。この家の誰かが獣にでも襲われたんじゃないか、と」


当然、タイピンを見たこの執事は、持ち主が自分の主人であることに気が付いた。

誰も怪我人などいない、と説明したところ、状況から考えて猟師とウィルディムは、当日の現場で何が起きたのか理解した。

そして猟師は苦笑しながら罠の地図を託したのだ。

よりによって、この男に。

何かと理由を見つけては毎日の剣技の特訓を厳しくし、何かと言いがかりをつけてはルシオスが独りで遊びに行こうとするのを阻もうとするこの執事に。


最悪だ。

これでまた暫くの間、外を出歩くときはこの執事がもれなくくっ着いてくる。

嗚呼、また僕から自由が減った、とぐんなりと項垂れる少年の煩悶を無視してウィルディムが告げる。

「明朝、大公へ報告書を届けさせます。遅くとも夕刻までには謁見となると思いますので昼過ぎには追って出発しましょう。所用はそれまでに済ませることにして。さぁ、帰りますよ」

この国では見慣れぬ『眼鏡』を鼻の上に乗せ、フロックコートにアスコットタイを締めた執事はにべも無く言うと、口を尖らせる少年を引きずって行った。


この赤毛の少年の名はルシオス。

エンセィド大公国における影獣騎士の長であるアッシーネ家の血を引き、留守中の主人に代わり、アッシーネの家長代理として人々の暮らしを脅かす影獣を狩ることを使命としている。

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