南洲一族
南洲守弘の検死が行われた。
死亡推定時刻が土曜日の夜、八時から十時の間であることがはっきりした。死因は絞殺。細い紐状の凶器で首を絞められ殺害されていた。遺体の首に掛かっていたネッスストラップという社員証を吊るす為の首紐が凶器であると見られていたが、首に残った策条痕と一致しなかった。
凶器は別にあったことになる。現場からは、それらしい紐状のものは発見されなかった。
「宮川君、ちょっと――」課長に呼ばれた。
課長の席に飛んで行く。鈴木と組んで、コジョー社長、南洲守弘が殺害された事件の捜査を行うものだと思っていたが、「奥多摩の南洲家について、調べて来てもらいたい」と言われた。そして、「青梅署の祓川さんが捜査に協力してくれる。彼の言うことをよく聞いて、防犯カメラに映っていた謎の人物を特定してきてくれ」と言い添えられた。
席に戻ると、鈴木がにやにやと笑いながら、「ご愁傷様」と言った。気になった。
「何です? 鈴木さん、何か知っているのなら、教えてくださいよ~」と泣きつくと、「何もないさ。ガイシャの実家が奥多摩にあるので、青梅署に捜査協力を頼んだだけだ。まあ、こっちから出張って調べる訳には行かないからな。そしたら、あちらさんから、誰か寄こしてくれと言われたそうだ」
「どういうことなのでしょう?」
「祓川さんだよ。
「祓川さん?」
「お前が知らないのも無理はないけど、警視庁捜査一課にいた伝説の刑事だよ。抜群に頭の切れる人なのだか、ちょっと変わった性格でな。上司とモメて、青梅署に飛ばされたっていう噂を聞いた。今度の事件でもガイシャの実家が奥多摩にあると聞いて、勝手に捜査を始めてしまったらしい」
「そうなんですか――⁉ それで、何故、僕が呼ばれたんでしょう?」
「祓川さん、一人に捜査を任せてしまうと、暴走してしまうからだろう。誰かお目付け役が必要なのだよ。青梅署でお目付け役を探したらしいのだが、皆、祓川さんと組むのを嫌がっているそうでな。武蔵野署で誰かいませんかって話になって、お前に白羽の矢が立ったって訳だ」
「はあ~」喜んで良いのか、悲しんで良いのか分からない。
「喜べ。祓川さんは一流の刑事だ。傍で祓川さんのやり方を見て学べるなんて光栄なことだ。最も俺は平和主義者だから、御免だけどな。はは」とうとう、鈴木は笑い出した。
こうして、宮川は奥多摩へ飛ばされた。
青梅署に顔を出すと、狐のような顔をした男が「何処で油を売っていたんだ――⁉ 行くぞ!」と声を掛けてきた。窓際の席に座った上司らしい男が立ちあがって、「武蔵野署の宮川君だね。彼、祓川さんについて行ってくれ」と言って、手刀を切った。
悪いなという意味だ。
慌てて祓川の後を追った。
「初めまして、武蔵野署の宮川です」背中に挨拶をすると、「ああ、宮川誠君だな。祓川だ。君の個人情報に一通り目を通しておいた。ところで、運転はできるな?」と振り返りもせずに答えた。
「どちらに行かれるのですか?」
「南洲家だ」
「事情聴取ですか――⁉」宮川が嬉しそうに言うと、祓川は足を止めて、(当たり前だろう?)という顔をした。「君は黙って横にいれば良い」と言うので、「分かりました。伝説の刑事、祓川さんの事情聴取に同行できるなんて感激です。勉強させて頂きます!」と元気よく言うと、「そうか」と少々、呆気にとられたようだった。
学生時代は体育会系のクラブで上下関係に苦労した。大袈裟におだてておいた方が良いことを宮川は知っていた。年長者に取り入るのは、上手いようだ。
「ほら、あの車だ」警察車両の鍵を渡された。宮川の運転で、南洲家を目指した。
「確か、南洲家は青梅街道を暫く走って、多摩川の支流沿いに山間部へと分け入った場所にあるんでしたよね?」
事前に南洲家の場所を調べて来たことが役立った。
「ああ」と祓川は口数が少ない。
不愛想な男だ。狐のような顔に、不釣り合いな太い眉毛が弧を描いている。太い眉毛が滑稽味を感じさせ、狭隘な性格を覆い隠してくれていた。
「南洲家に行って、誰に話を聞くのですか?」
多少、鬱陶しがられても、話しかけた方が良い。こうなりゃ、ジジ転がしだと宮川は覚悟を決めたようだ。
「あの家は、今は無人だが、法事の後、親族が居残っているらしい」祓川は面倒臭そうに教えてくれた。
「なるほど。親族のアリバイを調べるのですね?」と宮川が言うと、「そうじゃない!」と祓川が声を荒げた。
「す、すいません」
「被害者の妻が亡くなっていることを知っているか?」と祓川が問いかける。
「はい。事故で亡くなったと聞きました」
「どんな事故だ?」
「いえ、そこまでは・・・」
「転落死だ」と祓川が短く言った。
事故だと言うので、てっきり交通事故だと思い込んでいた。転落死とは意外だ。
「転落死ですか・・・事件性があるのでしょうか?」
「事故として処理されている。事件性はなかったと判断したのだろう」と口では言うが、まるで信じていない様子だ。
「どういう状況で、南洲社長の奥さんは転落死したのでしょうか?」
「それを確かめに行く」
祓川は当時の事件調書を読み尽くしているはずだ。
「調書には目を通してあるが、そちらの捜査状況はどうなっている?」
「はい」と宮川はコジョーでの事情聴取の様子を祓川に伝えた。
防犯カメラに犯人らしき人物の映像が映っていたという事件の鍵となりそうな情報に対して、「そうか――」と祓川は反応が薄かった。
「武蔵野署では、その謎の男が怪しいと睨んでいます」と伝えると、「まあ、普通に考えて、そいつが犯人だろう」という感想だった。
夜中に被害者を訪ねて来て、慌てて出て行った。何らかのトラブルがあり、守弘を殺害して逃げたと考えるのが妥当だ。
「やっぱり、やつが犯人なのですね」
宮川が捜査から外され、こうしてサポートに回されていることを嘆いているのだと受け取ったようで、「いいか。俺たちの仕事は冤罪を生まないことだ。冤罪を生まないように、ひとつひとつ可能性を潰して行く。そいつが犯人だとして、それ以外の可能性を潰しておくことも重要な仕事だ」と説教されてしまった。
殊勝に「はい」と頷くしかなかった。
「その男の写真、あるか?」と聞くので、「あります。防犯カメラの映像を鮮明化したものを携帯に入れておきました。アドレス教えてもらえませんか?」と祓川に送ろうとしたら、「路肩に車を停めろ。運転しながら携帯電話を操作するな!」とまた怒られてしまった。
厳しい。車を路肩に停車し、祓川の携帯に男の画像を送った。
謎の男の話は終わったが、祓川は南洲守弘の共同経営者だった斎藤淳史に興味を持った様子だった。「なるほど~なるほど~ガイシャに恨みを持つ斎藤淳史という容疑者が浮かんできた訳だ」
「斎藤が南洲社長を殺したのでしょうか?」と問うと、「何故、今なのだ――⁉」と聞き返された。
「は?」宮川には答えられない。
「斎藤が姿を消したのは二年前だ。ガイシャに恨みを持っていたことは分かったが、何故、今、犯行に及んだのだ?」
「すいません。分かりません」
「それを調べることだ。まあ、もう誰かやっているよな? 武蔵野署の連中だって、寝ている訳ではないだろうしな」
「会社の経営状態はどうだったのだ?」
「はあ、競争の激しい業界だそうで、経営状態は良かったとは言えないようです」
「金に困っていたということか?」
「はあ・・・」
「はあ――じゃない! 武蔵野署の連中に調べさせろ! 犯行の動機かもしれん」
優秀な刑事のようだが、かなり性格がきつそうだ。
いつの間にか青梅街道を外れ、車は多摩川の支流らしき川沿いを走っていた。やがて、川が見えなくなると、「右に行け」、「そこを左だ」と祓川から指示があり、南洲家に着いた。
南洲家は石川村の中央からやや山際に寄った場所にあった。丁度、村全体を見渡すことができる絶好の立地だ。他の民家から離れていて、周囲を畑で囲まれている。独立不羈の佇まいだ。
農道から別れた支道は、南洲家の門前で行き止まりになっていた。
日本式の平屋がまるで鳳が羽を広げて居座っているように広がっていた。
土塀で囲われているが門がある。開け放たれた門を潜ると、砂利を敷き詰めた広々とした駐車スペースがあった。地元の名家のようだ。
ワゴン車にスポーツ・カー、それにファミリーカーが駐車してあった。
快晴に恵まれ、駐車場には刺すような日差しが降り注いでいたが、南洲家の屋敷は陽炎の中に沈殿するかのように静まり返っていた。屋敷から霊気が湧いて出ているかのような不気味さを漂わせていた。
まるで陽が差し込んで来ていないかのような薄暗さを感じた。屋根の軒先が玄関先に暗い影を作っているからなのだが、屋敷が持つ雰囲気と相まって、鳥肌が立ちそうな不気味さだ。
玄関先で、呼び鈴を鳴らす。
「はい」と返事がして、若い男が玄関の引き戸を開けてくれた。
若いというだけでも、鄙びた田舎の旧家に似合わない。スラリとした長身で、足が長い。陽に焼けた健康そうな顔、獲物を狙う猛獣のように力のある眼だ。ハンサムなスポーツ選手と言った印象の男だ。
「ああ、刑事さん」と若い男が言ったところを見ると、祓川と面識があるようだ。「毎日、熱心ですね~おや、今日はお連れさんと一緒なんですね。今日は何でしょうか? 事件当夜のアリバイはお話しましたよね? あの夜は親戚一同、こちらにいました。いや~それにしても、守弘さんが死んだなんて、信じられません。ついこの間まで、ぴんぴんしていたのに」
祓川は既に関係者からアリバイ聴取を済ませてあるようだ。しかし、よくしゃべる。
祓川が聴取したのだろう、関係者からの証言として、犯行当日の被害者、南洲守弘の行動が分かっている。宮川も事件当日の守弘の行動をざっと把握している。
午前十時から、南洲家で菩提寺である石川寺の住職を呼び、則天の四十九日の法要が営まれた。法要が終わると、親戚一同と法要に参列した近隣の住人たちと共に、長い昼食となり、夕方近くになって法要はお開きとなった。
後は親戚だけが残り、故人を忍んで歓談を続けた。
昼食の続きだか夕食だか分からないような食事を済ませた辺りで、突如、守弘が「ちょっと仕事を思い出したので、会社に戻ります」と言い出した。午後七時過ぎに守弘は南洲家を出た。喪主がいなくなったことから、集まりは解散となるはずだった。
「あの日は、親戚の集まりですから。余所者の守弘さんは居づらかったのでしょう。それで、仕事を思い出したなんて言って、会社に戻ったのだと思います」聞かれもしないのに、男は当日のアリバイを話し出した。
守弘は喪主だ。法事を肴に、飲み明かそうとしていた親戚一同は、仕事で抜けると言われて呆気にとられたが、「お忙しい中、折角、皆さん、こうして集まったのですから、どうぞこのまま歓談を続けて下さい。家にあるお酒は、何でも飲み干してもらって構いません」と言うものだから、一同、腰を落ち着けて飲んだと言う。
「居間に高そうなウイスキーが置いてあったので、それを頂きました」と男は悪びれもせずに言った。
その後、会社に戻った守弘は社長室で殺害されている。
それが土曜日のことだ。
宮川はちらと祓川の顔を見てから、「武蔵野署の宮川と言います」と名乗った。そして、祓川が教えてくれないものだから、「あの、どなたでしょうか?」と尋ねた。
他人の家を訪ねて、家人に「誰だ?」と聞くのも変な話だ。だが、家主である南洲守弘は殺され、その妻は事故死している。二人の間に子供はいない。この広大な屋敷に現在、住人はいないはずだ。
「僕は守弘さんの、いや、厳密に言うと、彼の亡くなった奥さんの親戚にあたる者です。いや、彼とも血縁関係はないけど、親戚になるか・・・」と考え込んだ後で、男は「
まるで屋敷の主のように、石川はずんずん屋敷の中を進んでゆく。その後を祓川、宮川と続いた。
昔ながらの日本家屋だ。庭を囲むように、縁側が設けられている。増築が繰り返されてきたようで、南洲家は建屋が複雑に入れ組んでいた。庭に面した長い縁側を歩き、幾つか部屋の前を通り過ぎた後、「ここです」と石川が板戸を開けると、応接間があった。
日本式の家屋なので、畳の間を想像していたが、板張りの床だった。洋式の応接セットが置かれている。若い夫婦が住んでいるので、畳の間を洋風のフローリングに改装したようだ。縁側に面した襖も板戸になっている。この辺りも改装したのだろう。
テーブルを中心にソファーが長方形に並べられてある。
祓川は庭に向いた眺めの良い場所に腰を掛けた。宮川が隣に座る。石川が二人の対面に腰を掛けて、事情聴取が始まった。
「随分、ご立派なお屋敷ですね」宮川が感嘆すると、「刑事さん。南洲家をご存じないのですか? はは。まあ、知らないか。南洲家はね、戦国時代の武将、石川数正の子、石川康勝を始祖としているんですよ。石川和正は知っているでしょう?」と石川が言った。
「すいません。浅学にて存じません」
「石川数正は徳川家康が今川義元の人質となっていた時代から家康に仕え、家康の右腕として活躍した人物です。ところが豊臣秀吉と家康が天下をかけて激突した小牧・長久手の戦いの後、突如として家康のもとを出奔し、秀吉に臣従しています。家康を裏切った訳ですね。それで、江戸時代には大名として残れませんでした。
秀吉の死後、豊臣政権を裏切って家康に寝返った武将は沢山います。ですが、家康を裏切って秀吉に走った武将は石川和正くらいでしょう。石川和正が家康のもとを出奔した理由については未だに謎なのです。私はね、和正は家康が秀吉のもとに送り込んだ間者だったのではないかと思っています」
石川数正の子孫は家康により断絶させられている。家康の間者であったのなら、徳川の天下となって優遇されたはずだ。なんらかの理由があって家康を見限り、秀吉のもとに走ったようだ。
「はあ・・・」戸惑う宮川に構わず、石川は説明を続ける。「石川康勝は数正の次男です。大阪夏の陣で真田幸村こと真田信繁隊と運命を共にし、華々しく戦場に散りました。南洲家はね。その康勝の末裔なのです。南洲家に伝わる伝説では、康勝の子孫が武蔵国に流れて来て奥多摩に土着し、土地を切り拓いたと言われています。
もともと石川姓を名乗っていたのですが、この辺は江戸期には天領でしてね、石川数正の末裔という理由だけで、幕府の代官所から厳しい監視と差別を受けてきました。もとは士族です。その石川家を敬うことなく、一介の百姓として扱い、年貢や賦役を課したのです。この為、一族は徳川政権を酷く恨みました。仮にも徳川家譜代の臣でもあった石川数正の末裔です。彼らの扱いは腹に据えかねました。
それでね。明治の世となる頃、時の総領、
最もうちなんぞは、末流の分家ですから、南洲を名乗ることさえ出来ませんでしたけどね。だから石川姓なのです。ははは」
「はあ・・・」事件に関係のない無駄話が長くなった。
隣の祓川が焦れて来ているようなので、宮川は気が気ではなかった。石川はおしゃべりなようだ。
祓川が「さて、石川さん。先日、南洲守弘さんは、奥さんの法事でこちらに戻られていたと聞きましたが――」と言いかけると、石川がそれを遮って、「ええ、そうです。彼の奥さん、
「南洲則天――⁉」と宮川が叫んでしまったものだから、「変わった名前でしょう。則天さんは南洲宗家の八代目の当主なのです。守弘さんは婿養子です。先代、七代目の当主、
長女は聡美さんと言って、普通の名前だったのですが、七代目の死去により八代目を相続した時、先代の遺言により、名前を則天と改めました。中国史上唯一、女性として皇帝になった則天武后にあやかり、南洲一族を統べ、導いて行くようにという先代の願いが込められているそうです。ちなみに日本では則天武后という呼び方が一般的ですが、武后とは武氏の皇后という意味ですから、正しくありません。則天武后は皇帝として即位していますので、正しい呼び方は武則天です。中国では武則天と呼ばれています」
「はあ・・・中国の女帝の名前なのですか・・・」宮川が呟く。
隣の祓川の視線が気になった。話題が逸れて、いらいらしているのだろう。
石川健文は中国史に詳しいようで、話が止まらない。
遣唐使で有名な中国、唐王朝の時代、武則天は唐の高宗の皇后となり、高宗の死後に唐王朝を簒奪し、武周王朝を建てた。後にも先にも女性として皇帝の位についたのは中国史上、武則天ただ一人である。
その治世は概ね安定していたが、女性の身で帝位につき王朝を簒奪したという事実に対し、後世の史家は概ね否定的で厳しい評価をくだしている。武則天の死後、武周王朝は武則天一代で滅び、帝位は武則天が廃した中宗に復し、国号も唐に戻った――という話を長々と講釈した。
「中国の話はその辺で結構です」祓川が石川の言葉を遮り、「南洲守弘さんを恨んでいた人間や、彼とトラブルになっていた人間に心当たりはありませんか?」と尋ねた。
「守弘さんを恨んでいた人間ですか⁉ さあ、そこまで親しかった訳ではありませんからね~分かりませんねえ~さっきも言いましたけど、親戚と言っても、守弘さんと血縁ではありませからね~みな、奥さんの、則天さんの親戚だった訳です。でも、あの若さで会社を経営したいた訳ですから、そりゃあ、敵が多かったんじゃありませんか? それで絞め殺された」石川は両手で首を絞める動作をして見せた。
「仕事でトラブルになっていた人間をご存じですか?」
「いえ、ああいった会社は競争が激しいそうですからね。そう思っただけです。ああ、そうそう。借金があったみたいですよ。首が回らないって、守弘さん、よく言っていましたから。変なところから金を借りていたんじゃないですか? 借金取りに殺されたのでは? だから社長室で死んでいた」
「なるほど~なるほど~借金があったと。ところで~」と祓川はひと呼吸おいた後、「南洲さんの亡くなった奥さん、転落死だそうですね。先日、お会いした時は、そんなこと、一言もおっしゃいませんでしたよね」と言った。いよいよ本題だ。
「ああ、だって、当時、警察の捜査が入りましたから、刑事さん、てっきりご存じなのだと思っていました。ええ、則天さんの死因は、転落死です。それもね、別荘の二階から落ちて、死んだのです」
「別荘の二階から落ちて?」
石川が南洲則天の事故死の様子を話してくれた。
南洲本家は奥多摩に幾つか山を所有している。そのひとつ、山の中腹に別荘を持っていた。山の中腹を切り崩し、平にした場所に建てたもので、熱い夏場は絶好の避暑地となっていた。
それが、大型台風がもたらした集中豪雨により、別荘の下で土砂崩れが発生した。土砂崩れに伴い、庭の一部が崩落してしまった。付近を見回った警察からの連絡で、庭が半分、崩れ落ちて、崖になっているという話だった。庭があった斜面は十数メートルに渡って崩落しており、別荘は崖淵に乗っかっている状態になっていた。則天が崩落した場所は別荘の二階のベランダの真下に当たっていた。
「崩落する危険があるので、別荘に立ち入らないように――」と警察から指導を受けていたのに、則天は別荘に足を運んで、現場を確かめようとした。「危ないから、止めておこう」と守弘は止めたと言う。だが、則天は「夏休みを別荘で過ごしたいから、一度、様子を見ておきたい」と言って聞かなかった。
結局、守弘は則天を乗せて、別荘まで車を走らせた。
「刑事さん。そこから先は、守弘さんの証言があるだけです。実際、別荘で何があったのか、今となっては藪の中です。警察はね。簡単に守弘さんの言葉を信じたみたいですけどね。正直、親戚一同、疑っていましたよ。ほら、守弘さんの会社、借金があったって言ったでしょう。金回りが良くないって噂がありましたからね。則天さんは痩せても枯れても南洲本家の当主ですから、多少の財産はある。守弘さんにとっちゃあ、その財産、涎が出るほど欲しかったに違いありませんからね」
「なるほど~なるほど~面白いですね。それで、別荘で何があったのです?」
「あくまで守弘さんが言っていることですよ」と前置きしてから、石川が話を続けた。
二人は玄関から別荘に入ると、主電源のブレーカーを上げた。玄関の電灯が点いた。電気は来ているようだった。
別荘の一階部分にはリビング、ダイニング、台所、応接間、書斎に浴室、トイレがあり、二階部分には寝室に客間が二つとトイレがあった。
「水道の方はどうかしら?」と則天はヒールを脱ぐと、台所へと足を向けた。
「僕は応接間を見て来よう」守弘は応接間に向かった。
「水道は問題ないわ」
壁や床に亀裂でもあれば、少しは慎重になるのだが、別荘は昨年、使った時のままだった。台風の被害は見られなかった。
二人で手分けして一階部分を見て回ったが、異常はなかった。「二階を見てくるよ」と守弘が先に二階に上がった。則天は浴室の様子を確かめてから、守弘の後を追って二階に上がって行ったようだ。
寝室を覗いたが守弘の姿がなかった。二階部分も壁や床に亀裂は見られず、崖崩れの影響は見られなかった。そこで、則天は寝室のドアを開けると、スリッパを引っ掛けてベランダへ出たのだろう。
庭は土砂崩れで半分、崩落して無くなっていた。別荘は運よく崩落から免れて、崖端に踏みとどまっていた。ベランダから転落すると、そのまま十数メートルはありそうな崖下に、一気に落ちて行くことになる。先ず、助からない。
「南洲則天さんは別荘のベランダから転落して亡くなりました。事故当日、別荘には則天さんと守弘さんの二人しかいませんでした。気がついたら、妻の姿が無かったと守弘さんは証言しています。けどね、どうなんでしょうね?」
「南洲守弘さんが奥さんをベランダから突き落とした――と言うのですか?」
「いいえ~そんなこと言っていません。ただね、言った通り、別荘には則天さんと守弘さんしかいなかった。そこで何が起こったのか、本当のことを知っていたのは守弘さんだけです」
「南洲則天さんの死が、今回の事件の動機となっているのかもしれませんね。ああ、良いです。答えなくて。その辺は我々が調べます」
祓川の言葉に、石川が満足そうに頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます