綿津見国編

第一話 乙姫

──────丹海郷おおしあまごう

そう呼ばれる地域で、海岸を歩く青年がここに一人。




私は海が好きだ。


なぜだか分からないが、海を見ていると懐かしい気持ちになってくる。

季節は夏。今日は絶好の海日よりだ。


“さて、魚釣りか、素潜りか。どちらにしようかな。“


ふと海に目をやると燦々と降り注ぐ陽の光にきらきらと反射して魚たちが見えた。


“あんなふうに水の中で自由に動けたら気持ちいいだろうなぁ。“


色とりどりの魚たちに囲まれながら、呼吸のことなど一切気にせず泳ぐのだ。

そんなことを考えていたら、なんだか無性に泳ぎたくなってきた。


”よし、今日は素潜りにしよう。”


そう決めて軽やかな足取りで浜辺へと向かった。


 間もなくして浜辺に到着すると、波打ち際に海亀が一匹いるのが見えた。ふと、その海亀が気になって何となく近寄ってみた。心無しか海亀と目が合ったような気がした。


相手は亀だが、そのつぶらな瞳に少しドキッとする。


「お迎えに上がりました。」


その声に私は驚いた。辺りを見回すが、自分以外に人間は見当たらない。


”いや……まさか。”


足元へ視線を向けると、みるみるうちに海亀が若い女の姿へと変わっていった。

長い黒髪を頭の上で結い、羽衣のような服を身に纏ったその女は、絶世の美女と言っても過言ではないだろう。まるで天女のような美しさだった。人と違う部分といえば、背中の甲羅ぐらいだ。歳は二十手前ほどだろうか、私より少し年上のように見える。


「私は乙姫と申します。…突然お声がけしてしまい申し訳ありません。しかし、どうか話をお聞きください。事態は一刻を争うのです。」

彼女はどうやら焦っているようにみえた。


あまりの出来事に私は言葉を失った。

固まったまま動けずにいると彼女が先に口を開いた。


「この手の甲の痣に見覚えはありませんか?」

乙姫と名乗る女の手の甲を恐る恐る見ると、そこには私の右手の甲にあるものと全く同じ痣があった。


「同じだ。」

私は目を見開いた。


「ええ、これは我々の一族の王家の紋章です。…単刀直入に申し上げますと、実はあなたは竜王の息子なのです。急なことだとは思いますが、どうか私に協力していただけないでしょうか。」

乙姫は頭を下げている。


確かに手の甲の痣は、見ようによっては龍が弧を描くような形をしている。

真剣な乙姫の表情をみると嘘をついているとは思えない。

しかし、全く理解が追いつかなかった。


「ちょっと待ってください、竜王の子?...っというか今、亀?でしたよね?」

「説明は後です、とにかく私を信じて着いてきては頂けませんか?」

「着いてこいと言われましても…。一体どこに行くんですか。」

「…竜宮城です。」


乙姫は、そう力強く言うと私の手を取って無理やり海へと引き込んだ。


「ちょっと待ってください!その竜宮城とやらは海の底にあるのですか?!」

「ええ、でも落ち着いて。まずはとにかく手の甲の痣に意識を向けて集中してみて下さい。」

「そんなこと言われましても…。」


私はわけのわからぬまま、仕方なしに手の甲に意識を集中させてみた。


すると、手の甲の痣が光を帯び、そこから全身に暖かさが広がっていく。

その時、私の中で何かが弾けた。抑えようのない帰巣本能とでも言うのだろうか。

ただただ海の底へ帰りたいと、全身に流れる血が騒ぐのだ。


その衝動のままに海中へ潜ると、肺が海水で満たされていくのが分かった。なんとも言えない心地良さすら感じている。


気づけば不思議と海中でも呼吸が出来ていた。


「…すごいなこれは。」

会話も問題なくできるようだ。


あまりの出来事に、つい先ほどまで感じていた焦りや混乱という感情は私の中から消え去っていた。



「詳しい話は道中いたします。さぁ、急ぎましょう。」

そう言って乙姫が両手を前方にかざすと、私たち二人の周りを海水が渦巻き、海底へと潜る推進力となった。


「驚かせてすみません。この渦も竜の血の力によるものです。」


乙姫曰く竜王の血族はこういった特殊な力を使えるのだそうだ。

彼女は「渦潮うずしお」と呼ばれるその力を海中での移動に使っているとのことだった。


”もしかすると私にもこのような力が使えるのだろうか。”


そんなことを思っていると、彼女が語りだした。


「事の経緯をご説明いたしますね。」



数日前。


乙姫は竜王が急に体調を崩したと聞いて、急いで父のもとへと向かった。

父の寝室には母も一緒にいた。


「お父様!?」


乙姫は、横になっている父のもとへ駆け寄った。


「お、乙姫か…。私はもう…長くはない…。」


顔色が良くない。


「そんな…。どうして急に…。」


「乙姫よ、よく聞いてくれ…。私が死ねばきっと、次期王の座を巡って内乱が起きるだろう。ゲホッ…ゴホッ。」


「お父様!無理しないで!」


手を握ると、父の体温が低いことが分かる。

母も、父の手を握り涙を流している。


「…実は……私には地上にも子供がいるのだ。」


乙姫は驚きながらも、必死に喋る父の言葉をさえぎることはできなかった。


「…乙姫。できることなら、姉弟で協力して、この国を…守ってくれ。」


父の手を強く握り返す。


「…はい。」


「…苦労をかけるが、…この国を…頼…む…。」


そういって竜王は息を引き取った。



乙姫は、私の父でもあるという竜王の最後について語ってくれた。


「そうですか…。」


冷たい海中にいても、手の甲の紋章から伝わってくる暖かさが体温を保ってくれる。

これも、父から受け継いだ力なのだろうか。


「竜王の息子であるということは、私が王位を継ぐことになるのでしょうか?」


「はい。…本当に勝手ながら、どうかお願いできないでしょうか。」


乙姫は申し訳なさそうにそう言った。




幼いころの記憶をふと思い出す。


”困っている人がいたら助けてあげなさい。”


そう脳内でこだまするのは、今は亡き母の教えだった。母に父のことを聞くと、「遠くにいるのよ」といつもはぐらかされていた。

きっとろくでもない父親なのだと思っていたが、なるほどそういうことだったのか。



私は彼女を助けたいと思った。

腹違いとはいえ、私たちは姉弟なのだ。


海中で呼吸ができて、喋ることもできる。

自分がそういう種族なのだと改めて認識し、腹を括ることにした。


「わかりました。私に出来ることであれば協力しましょう。」


「…ありがとうございます。」

そう言って深く頭を下げる乙姫に、私は改めて名を名乗り、握手を交わした。


「よろしくお願いします。」


「ええ、こちらこそ。……それと、これから二人きりの時はお互い畏まった言葉はやめにしましょうか。…姉弟だものね。」

そういって乙姫は優しく微笑んでくれた。


道中、乙姫は彼女たちの種族についても教えてくれた。彼女らは魚人族という大きなくくりではあるが、その中にも多種多様な種族が存在するという。

彼女は亀族の母と竜族最後の生き残りである父との間に生まれた子だそうだ。



「もうすぐよ。」


乙姫はそう言ったが、私の目の前にその竜宮城と思わしき建造物は見えていない。

それどころか、深海は陽の光が届きにくく、ますます暗くなってきている。


「えっと、どこに…」


そう言いかけた時、唐突に周りの景色が変わった。辺りが急に明るくなったので、私は眩しくて目を細めてしまった。



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