第7話 ウィリアムの復活

 ウィリアムとビビ、二人は馬を降り、帝都の路地を蛇のように進んでいる。兵士の目を避けつつ教会へ。


 中心地に近づくにつれ帝都は混迷の様相を深めている。火のついた民家、消化のため駆け回る民衆、我が子を連れ去られたとむせび泣く親たち。そしてそれらを踏み潰す教会騎士。戦時中のようでさえある。


 いよいよ教会は遠くない。今夜は兵士たちの監視もきつくなっている。怪しいものが教会に近づいて良からぬことを企んでいやしないかと目を光らせているのだ。


 ウィリアムはフードを深く被りなおした。建物の陰から出ないようにしてただただ歩く。


 しかし。


「おい! そこのもの!」


 正面から兵士が叫ぶ。その両の目は確かにウィリアムを捉えていた。まずい。ウィリアムは知らぬふりをして視線を伏せ足早に去ろうとするが……


 女兵士は大股で歩み寄ってくる。目をぎらつかせ舌なめずりでもしそうな表情だ。


「そこのフードのもの! その体つき、お前はまさか――男ではないだろうな?」


 ビビがウィリアムの耳元に「逃げましょう」と囁く。ウィリアムは頷いた。こんなところで足止めされている暇などありはしない。


 二人は綺麗に揃って九〇度つま先の向きを変え、狭い路地の中に入った。後ろから兵士が呼び止める声がするが、二人は当然のごとく無視して足を速めた。


「急ぎましょう」


「ああ」


「迂回して監視網をくぐり抜けなければ」


「ああ」


 細い道だ。両腕をいっぱいに広げれば左右の壁に手が付きそう。ウィリアムはこのような迷路のような裏路地に入るのは初めてだった。そもそも王宮から出るという経験がほとんどなかったのだから。なんだかめまいさせしてきそうな心地である。


 曲がり、曲がり、戻り、曲がり、曲がり、やり過ごして、曲がる。


 二人はそんなことを繰り返してしつこい追手をまいた。ウィリアムはいつの間にかビビに手を引かれていて、姉と弟のように先導されていた。


「とりあえずは振り切ったようですね」


「なんとかなったな」


「ええ。教会へは近づいています。表通りは兵士が多いので、このまま裏路地を進んでいきましょう」


 ウィリアムの冷たくなってしまった指先を、ビビがそっと包むように握った。温もりが冷たさを溶かしていく。


「道案内は私にお任せください、ウィル様」


「ありがとう、ビビ」


 一度深く呼吸をして、肺の空気をすべて入れ替えたのち、ウィリアムは歩き出そうとして――


「止まれ!」


 すぐ近くから女兵士の声が聞こえた。ほんのすぐそこだ。振り切ったはずなのに、前から、そこの曲がり角の向こうから聞こえてくる。兵士の長く伸びた影が二人の行先を塞いだ。このままでは鉢合わせてしまう。


「そこにいるのは分かっているぞ!」


 ウィリアムとビビは目を見合わせた。そしてビビがウィリアムの腕を引っ掴み、ほとんど抱きかかえるようにして、手頃な扉の中に連れ込む。運よくそこには鍵がかかっていなかった。


 素早く、それでいて静かに扉を閉める。キイという小さな軋みが鳴り、バタンと響いた音、それに女兵士たち複数の足音が重なる。


「どこにいった!?」


 薄い木製扉の向こうからそんな声が聞こえてきて、二人はほっと胸を撫でおろした。ビビが美しい顔立ちを心配そうにしてウィリアムをのぞき込む。


「こういうことには慣れておられぬでしょう、お体は大丈夫でしょうか」


「そう心配するな。俺は男だ」


 ウィリアムはそう言って唇の端を持ち上げる。


「そうでございますか」


 ビビもうっすらと笑う。


 扉の向こうではまだ鎧がカチャカチャ動く音が聞こえてきていて、ビビは建物内部をゆっくり進んでいき、ウィリアムを手招きする。


「誰もおらぬようです」


 そこは倉庫のような場所だった。民家ではなさそう、商売人の店でもなさそう、よく分からぬ雑多なものが積み上げられている。


「出られる場所を探します」


「ああ」


 二人はそろりそろりと足音を殺して進んでいく。


 そして――


 女兵士の声がした。


「この中かも!」


 バタンと扉が蹴り開けられる。こんどこそまずい。ウィリアムはビビの手首を引っ掴み、彼女をロッカーの中に――正確にはロッカーのような何かの中に――引きずり込んだ。


 女兵士が踏み入る直前、ウィリアムはふたを閉じた。見られてはいないはず。完全な暗闇の中、己とビビの鼓動が大きく大きく太鼓のように聞こえる。


 その暫定ロッカーの内部はそう広くはなかった。必然二人は抱きしめ合うような体勢を取る。となれば必然、ウィリアムの両手はビビのお尻を守るように覆った。一度そうしてしまえば必然、ウィリアムの十の指は柔い尻肉を揉みしだく。


「ウィル様……」


 ビビがお尻をふりふり振って手を払おうとしているのか、あるいはもっと揉んでと誘っているのか。ウィリアムの指先から伝わるお尻の主張は後者であった。


「こんなときに、おやめを……」


「やめぬぞ……」


 兵士たちが部屋の中を探し回っている。鉄靴を踏み鳴らしながら部屋の隅から隅まで荒らしているのだ。


 二人は互いを庇うようによりきつく抱擁した。そうしたところで見つからなくなるわけではないと分かってはいたが、不安のあまりにそうするしかなかったのだ。


 一粒子の光もない漆黒、しかしウィリアムにはすぐそこにあるビビの表情がありありと見て取れた。いつものクールな澄まし顔、きりりと冴えた美しい眼差しを可愛らしくしならせ、腕の中で体をくねくね悶えさせて恥じらっているのだ。


 ウィリアムはここがどこで今がいつかなど忘れ去るほどの熱心さで、尻に愛を注ぎ込んだ。ロッカーの中に隠れて抱き合うなんていう状況には二度の生のうちどちらでも陥ったことがなかった。


 ビビの熱い息がウィリアムの首筋を撫でる。お尻に熱がこもっていく。豊満なおっぱい、そして夏の花のような匂いが理性を揺さぶった。


 ビビがか細く鳴いた。きっと喜んでいるのだ。ウィリアムは確信した。


 ふと、兵士が二人の潜む箱の前に立った。ビビはびくりと震える。ウィリアムもまた緊張で手を止め、息を殺した。


「ま、いないか」


 兵士の足音が離れていく。扉が開き、ぞろぞろ出ていき、扉が閉まる。二人は長く息を吐きだした。


「行ってくれた……」


「助かりました。――それはそれとして、ウィル様。こんなときまでお尻を揉むのはおやめください」


「あまのじゃくなやつめ。お尻はとても喜んでいたというのに」


「喜んでません」


 ビビがウィリアムの横腹をつねる。


「離してください」


「ううむ……」


「さあ行きましょう」


 名残惜しく思いながらも抱擁を解き、ロッカー的何かから出ていこうとして瞬間――


 また扉が開いた。複数の足音が入ってくる。その足音は軽く、兵士ではないようだ。二人は息をひそめた。


「さあ、運び出しましょう」

「いよいよね」

「ばれないといいのだけど」

「ばれるわけないでしょう」


 女たちは話しながら二人の隠れる箱を取り囲んだ。ビビが焦った声音で小さく囁く。「これ、ひつぎです」。ウィリアムは目を見開いた。


 棺だといわれれば確かにその通りだ。部屋が薄暗かったのでしっかり見れなかったが、思い返してみれば重厚な黒塗りの棺であった。今ウィリアムとビビは棺の中にいるのだ。


 棺を取り囲む女たちが「せーの!」と合わせて棺を傾け持ち上げ肩に担ぐ。その肝を冷やす浮遊感に、ビビはウィリアムに抱き着き顔をうずめた。ウィリアムは彼女の背中をさすりながらつぶやく。


「これはまずいことになってしまった……」


 そのつぶやきは女たちの話し声によってかき消される。


「ちょっと! 重いって!」

「誰も力をこめてないでしょう!」

「みんなで少しずつ持ちましょう!」

「……ぜったい私だけしか持ってないよ!」


 女たちは姦しく喋りながら二人を運ぶ。一歩ごとに揺れるのでとうてい快適な乗り心地ではなかった。ビビが上擦った声で言う。


「このままじゃ火葬場送りです」


 ウィリアムはふたを殴りつけた。しかし外から留められてしまったのか開きそうにない。


「開かないぞ……」


 棺の外、扉が開く音がしてぴゅうぴゅうと風が吹き、民衆たちがざわめく音が聞こえてくる。建物の外に出たのだ。そのまま通りを行進していくようである。


 ウィリアムは察した。この棺の大きさ、そしてこの観衆の集まりよう、これは皇族のための葬儀だ。では誰の葬儀なのか? もちろん――ウィリアム・カイザー・アイゼンガルドだ。


 王宮の公式発表によれば、ウィリアムは悪魔によって憑き殺された哀れな皇子ということになっている。噂好きな民草たちはあれやきれやと好き勝手に妄想陰謀論を膨らませていて、ウィリアムの死への関心も高いのだろう。この葬儀にはかなりの人が集まっているようだ。


 ウィリアムはどんどんとふたを叩き、声を張り上げた。


「待て! 開けてくれ!」


 しかし止まらない。進むにつれて喧騒は大きくなり、数百の人々が生み出す雑音が助けを求める声を潰してしまう。


「ウィル様――っ」


「大丈夫だ。大丈夫だから」


 小刻みに震えだしてしまったビビ。彼女を落ち着かせるべく強張ったお尻を優しく揉むしだく。


「落ち着け、ビビ」


「はい――」


 そうしている間にも行進は終わり、棺はどこかに置かれた。女たちは去っていく。


 ウィリアムはひたすらにふたを殴り続けた。数十を超えれば拳の皮が削れて赤くなり肌がめくれていく。


 唐突に、一帯は静寂に包まれた。神官の朗々とした声が響く。


「哀れなる皇子ウィリアムよ」


「その心は悪魔の囁きに汚され、その身は淫らな欲望に取り憑かれた」


「死したその瞬間、ウィリアムの肌は焼けただれ、紫に変色し、鉄のようなイボに覆われてしまった。これは神の罰であった。醜さを愛好する狂信者への裁きだった」


「嗚呼、天より授かりし高貴な血を持ちながら、醜さを愛する道へ堕ちたその姿、もはや神の御許には相応しからず」


「ここに我ら、汝を冥界へ送り届け、その穢れた魂が浄化されんことを願う!」


「死して輪廻の円環に戻ったのち、狂愛の呪いから逃れられんことを祈って――!」


 悪魔。醜さを愛する。穢れた魂。そのような評価が続いたことに、ウィリアムは腹が煮えくり返る思いだった。お尻は決して醜くない。悪魔的趣味ではないし、穢れたっていない。


「黙祷せよ!!!」


 パチパチと火が爆ぜる音がした。ウィリアムの下で炎が燃えている。火葬だ。


「ウィル様! 焼けてしまいます!」


 ビビは取り乱してウィリアムにすがりつく。ウィリアムは獣のように吠え、全力でふたを殴りつける。そして――


 ――ついに外れた。


 ウィリアムはがばりと体を起こした。


 数百数千の視線を浴び、ウィリアムは堂々と仁王立ちする。それはまるで不死鳥が炎の中から蘇ったようであった。


 ローブを投げ捨てれば、炎に照らされて輝く金髪と燃える瞳が露わになる。揺るがぬ意志の美しさを体現したその立ち姿に、黙して見守っていた見物客たちは息を呑んだ。


「俺は死んでなどいない!」


 その声は帝都中に響くようであった。


「ウィリアム・カイザー・アイゼンガルドは死んでないどいないぞ!」


 誰も、彼の咆哮に言葉を重ねて遮ることができなかった。足元に横たわるビビでさえ、雄々しいその表情に魅入られていた。


「お尻は醜くなどない! 女性の体に醜い場所などあるはずない! 全能なる神が愛を込めて作ったものが美しくないはずがあろうか!」


 ウィリアムの叫びは空気を震わせて雷のように轟く。 


「悪魔にそそのかされているのは――お前らのほうだ! 俺はこの世界で二度目の生を受けた! それはきっと神のためだ! 変革のためだ! 聞いているか――」


 ウィリアムは東、教会へ向かって吠える。


 その一瞬、帝都は静まり返っていた。あらゆる生き物が心臓を止め、風すら凪ぎ、ウィリアムの声に耳を傾けていた。


「エカチェリーナ――――ッッ!!!」


 その低い声は確かに帝都中に響いていた。エカチェリーナも聞いたはずだ。オフィーリアも聞いたはずだ。帝都の民みなが聞いたであろう。


 炎の上、ウィリアムは立つ。神の罰を受け醜く死んだはずの皇子の帰還に、帝都はようやく数秒の仮死から目覚め、にわかにざわめきだす。邂逅は近い。

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