第6話 主君と従者

 ウィリアムは帝都に戻った。伴うのはビビと小次郎のみ。とりあえずはロザリアと合流しようと帝都の別邸へと向かっているところである。


 月が輝く夜。石畳の道をゆっくりと歩く馬の上、ビビが前でウィリアムが後ろ。ウィリアムはすぐ前にあるお尻に手を添えてビビを支えていた。


「お尻が揺れている……」


「……殿下、お尻は支えなくてもよろしゅうございます。落ちることはありません」


「俺は落ちることを心配しているのではない。病むことを案じているのだ」


「……お尻は病みません」


「お尻は心を映し出す。お尻に愛を伝えれば心まで届く」


「…………」


 ウィリアムは鞍とお尻の間に手をねじ込み、丹念に揉みしだく。日毎にデレを増すお尻であった。今では一撫でするだけですっかり甘えてくるのだ。


 ビビは顔を真っ赤にして息を吐いた。


「こんな道の上で、おやめください……」


「やめたくない。頼む。許してくれ、頼む、この通りだ」


 ウィリアムはビビの首筋にキスを落とし、より熱心に指を動かした。ビビは立ち上がりかけるほど背中を逸らして、


「わかりましたっ。それ以上はおやめください!」


「……うむ」


 ウィリアムは顔を隠すためにフードを深く被っていた。リリムス家の権力によって門で検められることはなかったが、仮面をつけるのはあまりに目立ちすぎる。


「ビビ」


「なんでしょう」


「そなたの髪の毛はすごくいい匂いがする。花のような匂いだ」


「……そんなことよりウィル様。今夜の帝都はどうにも騒がしくございます」


 夜にも関わらず女たちは道端に集まってひそひそと話し合い、教会兵たちが二人を追い越すようにして駆けていく。


「ああ。何かが起こっているようだな」


 ウィリアムはビビのズボンの中に手を差し込み、ぺろりと舐めるように撫でた。


「ひゃぁっ」


 幼子のような声を出すビビを残し、ウィリアムはひらり軽やかに馬から降りた。


「ウィル様!?」


「ちょっと待っててくれ。ご婦人方に話を聞いてくる」


 そう言って右の端で固まっていた女性たちに近づいていくウィリアム。


 井戸端会議からしてみれば、突然馬上の貴族が迫ってきたために口を閉ざして固まっていたわけだが、ウィリアムがフードを取った途端に、彼女たちは恐れの硬直から魅了の硬直に変わってしまった。


「いい夜ですね――というご挨拶で良いのでしょうか、ご婦人方。実は今し方帝都に戻ったばかりでして、何が起こっているのか教えていただけないでしょうか」


 その貴族とは思えない丁寧な口調と柔らかな微笑みに女性方は唖然としていたが、顔を見合わせたのち口々に話し始める。


「エカチェリーナ様が最近に生まれた赤子たちを無理やりに攫っていくのです」

「生まれた子みなです。孤児も貴族も関係なくこの一週間で生まれた赤子みなを」

「隣の家の赤ん坊のサムが連れてかれてしまいました!」

「エカチェリーナ様は狂ったように何かに怯えているとか。生まれ変わりがどうとか叫んでいるそうです」

「噂によれば、深夜ちょうどに十字の刃で喉から突き殺す儀式を――」


「ウオオオーーーッツ!!!」


 ウィリアムは怒りで震えた。


 エカチェリーナはウィリアムが死んだと思っている。そして生まれ変わり再び襲いにくると思っているのだ。だから新生児を集めて殺すなどという狂気じみた行いに出た。


 これはウィリアムが脅したゆえだ。はったりで脅かしてしまったばっかりに、裏目に出て、許されざる邪悪な行いに手を染めようとしている。


「絶対にさせないぞ……」


 ウィリアムは赤い瞳の中にギラついた炎を宿し、ご婦人方に頭を下げた。


「お話をありがとう。それでは失礼っ」


 側まで来ていた真っ青な顔のビビ。


「なんておぞましいことが……」


「大丈夫だ。そんなことはさせない」


「しかし……殿下と私では……」


「いいや、二人きりではない」


 ネズミの小次郎がウィリアムの胸ポケットからひょこりと顔をだしてピーと鳴いた。


「小次郎もいる。そなたが救った命二つがここにいるぞ。それから殿下はやめよ。誰が聞いているかわからないぞ」


「……申し訳ございません。ウィル様」


 ウィリアムは目を閉じ、心の中で愛する女オフィーリアの姿を思い描いた。彼女を王宮から助け出す必要がある。そのために帝都に来たのだ。しかし、赤子たちも救わなくてはいけない。


 ビビはウィリアムの思考を見抜いたのか、囁くように言う。


「オフィーリア様ならしばらくは無事かと思われます。ロザリア様が働きかけてくださっているのです」


「そうか……」


 ウィリアムの心中に浮かび上がるオフィーリアは、いつもの優しげな微笑とともに言う。「殿下の心の赴くままに」と。


「もう少しだけ、待っていてくれ……」


 つぶやきは星空に吸い込まれて消える。


「俺は教会に行くぞ、ビビ。お前は屋敷に行ってロザリアと話してきてくれ」


 ビビは青ざめた顔をさらに蒼白にし、首をぶんぶん横に振る。


「魔女の根城におひとりで行かれるなんて、おバカはおやめください! 無謀にもほどがあります!」


「それでも行かねばいけない」


 夜の薄闇の中、ウィリアムの瞳は烈火のごとく輝いて見えた。


「俺が生きているとしればあのバカ魔女は愚行をやめるだろう。であれば、行かねば」


 しかしビビはウィリアムの腰に抱きすがるようにして頭を下げた。


「ウィル様! どうかお考え直しください! 別の方法があるはずです!」


「ない」


 刻限、十二時ちょうど。それはもう遠くはないのだ。回り道をしている暇などない。


「ビビ。分かるだろう。俺が行けば数百の幼い命が救われるのだ」


「でも、ウィル様は死んでしまいます……」


 ウィリアムはビビの手を引き立ち上がらせ、その頬を両手で挟み、鼻先をぶつけんばかりに近づけて説く。


 ビビは黒い真珠のような瞳いっぱいに涙をためていて、長いまつげが震えるたびに雫は零れ落ちてしまいそうだ。


「死なないとも」


「…………」


「俺は死なない。いったい誰が俺を殺すことができるというのか。誰も、エカチェリーナさえも、俺を恐れて触れることはできない」


 ウィリアムは、ビビの瞳の中に映り込んだ己自身を見た。壮絶であった。この顔は一度見たことがあった――前世にて死を覚悟した瞬間の己の顔だ。


「心配するな。俺は死なないぞ」


「ウィル様……」


 ビビはまばたきせず魅入られたようにウィリアムを見つめ、十数秒の沈黙の後に頷いた。


「であれば、私もお供します。あなた様の剣となり盾となり、命をかけてお守りします」


 今度はウィリアムが首を振る番だった。


「だめだ。ビビが俺の代わりに剣を受けるなんて、ましてや死ぬなんて、決してあってはいけない」


「ウィル様」


 ビビは瞳を揺らすことなく、視線にて決意の硬さを克明に表す。


「私のお尻をお触りください。それで分かるはずです」


 そんなふうに誘惑されてしまえば、ウィリアムの体は反射的にはビビを抱きしめてそのお尻に手を回す。


 肌に直接触れる。しっとりして吸い付くように指先に甘えてくる。しかし芯には固さがある。揉みほぐそうとも消えることのない固さだ。ウィリアムはしばし撫で回して、つぶやく。


「このお尻は……」


 ビビの透き通る眼差しが彼を貫く。


「なんと話していますか。私のお尻はなんと話していますか」


「……私も一緒に行きます、行かせてください、連れていってください。そう言っているよ」


「そうでしょうとも」


 しかし。ウィリアムは葛藤した。教会は魔女の根城だ。ビビを死の危険に巻き込むことになる。


「ウィル様!」


 ビビがほとんど吠えるように名を呼んだ。その圧に負け、ウィリアムは気づかぬうちに頷いていた。


「……分かった。しかし俺の後ろに隠れているように。安全な場所で見ていてくれ。それが力になる」


 ビビは目線を斜め上に逸らして、


「かしこまりました。お背中に隠れさせていただきます」


 声は若干震えている。そしてなにより、ウィリアムの手の中に包まれているお尻は別のことを語っていた。


――いざとなったら盾となります。


 ウィリアムは髪を逆立てた。


「ビビ! 嘘を付くな! 俺を庇うなんてあってはいけない!」


 嘘を瞬間で暴かれたビビは表情を引きつらせて身を小さくする。それでも弱々しい声で話した。


「しかし……」


「しかしではない! お前のような美しい体の持ち主が俺のために傷付くなど、神が許さないぞ! もしお前が死ぬようなことがあれば――俺はためらいなく自死する!」


 ビビは信じられないとばかりに口を手で覆い、指の隙間から声を漏らす。


「そんな……ダメです! そんなのわけがわかりませんよ!」


 しかしウィリアムは本気だった。


「舌を噛み切り、目に指を突き立て、爪で腹を引き裂く。そうやって俺は死ぬ」


 そんなことが人間にできるのか。しかしウィリアムならやってしまいそうという凄みがあった。


「俺のせいでビビが死ぬことになれば、俺は自分を許せない。分かってくれ」


 ウィリアムの手の中、お尻はもちもち震えていた。


「せめて先に死なせてくれ。ビビが死ぬところなんて見たくない。もしも俺が矢に貫かれれば、ビビの腕の中で死にたい」


「…………」


「まあ死ぬことはないが」


 ビビはついに項垂れた。


「かしこまりました。ウィル様の後ろにて支援に徹します」


「よし。――最後に問おう、ビビよ」


 ウィリアムはビビをぎゅうっと抱きしめて、額をこつんとぶつめ、熱を帯びた視線をからませる。


「なぜビビは俺に尽くしてくれる?」


 ビビは頬をりんごのように赤くした。


「それは、お尻にお尋ねください。口に出すのは恥ずかしくございます」


 ウィリアムはお尻をモミモミと揉み、それを問いとし、指に跳ね返ってくる弾力の中に答えを見つけた。


「俺のことを……愛しているからだと言っている。自意識過剰な勘違いでなければいいのだが」


 ビビは恥ずかしそうに笑った。


「どうでしょうか。きっと勘違いですよ」


「そうか…… まあいい。ビビ、お前が俺を愛しているためであろうと、ロザリアから任された護衛の任のためであろうと、やることは一緒だ。俺はエカチェリーナに会いに行くぞ」


「かしこまりました」


 ウィリアムは東を見た。


 天にそびえ立つ巨大な王城、その隣に佇む真っ白な大聖堂。あそこが教会。エカチェリーナの住処である。


「待っていろよエカチェリーナ。今すぐその愚かな行いを止めてやるぞ……」


 二人は馬に乗り、ビビが手綱を握り、ウィリアムはお尻を支えた。ビビが舌を鳴らして合図とし、馬はパカラパカラと走り出す。

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