2章-仲間と呼び難き彼ら
第9話 一瞬の平穏
全身の冷たさと、水の音で意識を取り戻す。空には、無数の星々が瞬いていた。
「……?」
体の背面全体に硬い感触を得る。後頭部には、鈍い痛みが走った。
「……ぐっ」
ゆっくりと体を起こして唖杭は周囲を確認する。橋の下にある岩に長い事寝そべっていたようだ。自分の頭が打ちつけられていた箇所には、赤黒い血が残っていた。背中全体がじっとりと濡れていて気持ちが悪い。
先輩に突き落されたのは覚えている。今、自身の首元に大人しく収まっている蛇が、先輩を喰ったことも『分かっている』。
しかし、自身が無事なのは何故だろうか。ここから3mも高さのある橋から突き落とされ硬い岩に頭を打ち付けた自分が無事な理由は分からない。後頭部を撫でると、血が固まった感触があったが、傷口は塞がっている。
「……」
もう、何でもいい。少なくとも、悪人らしきをこの蛇に食わせれば、どうやら自分は助かるらしい。今は締め付けられる苦しみからは解放されている。それだけで十分だ。
ブー、ブー
スマホの振動に気が付き、ジャケットのポケットをまさぐる。水気を含んだポケットの中に入っていたもにも関わらず、端末が壊れていないのは幸運だった。
元上司からメールが一件届いていた。その内容は、社内の調査で、先輩が長年かけて会社の金を横領していたことが発覚した、というものだった。
ご丁寧にも、唖杭に罪を着せるように取引データの改ざんなどの様々な工作をしていたらしいが、社内に仕掛けていた監視カメラを確認したところ、深夜の人が少ない時間帯を見計らって、唖杭のPCで先輩が時折作業をしていた姿がばっちりと映っていたそうだ。
「馬鹿かよ」
先輩は頭が切れて仕事も早かったが、確かに詰めが甘いところがあった。それも愛嬌の一つだと思い、過去の唖杭は彼に懐いていたのだが…。結局、先輩が唖杭に罪を被せるため行っていたその涙ぐましい努力は、最初から全て無駄だったらしい。
『退職したお前には面倒をかけるが、このことは他言無用で頼む。このメールも返信不要なので読んだら消してくれ』
上司からのメールはそのように締められていた。どうやらこの話は大事にせず、社内だけで処理を済ませるらしい。
「だったら捨てアドで送ってくればいいのに。あの人も詰めが甘いな…」
別に、辞めた会社なのでどうでもいいが。先輩が餌になったから、行方を聞かれたら多少面倒だと思う程度だった。
そのままメールを削除して、スマホを握り締めた。少し前まで、死を達観したような気分になっていたが、そんなものは結局まやかしであると唖杭は理解する。それより寒い、寒すぎる。今は熱いシャワーを浴びる事だけが自分の頭を埋め尽くしている。
「(どこでもいい、落ち着く場所が必要だ)」
部屋を借りるために動こう。震えながら泊っている安宿へ戻る道中、唖杭は翌日の予定を立てた。
――――――――――――――――――――
雨の中帰宅し、シャワーを浴びながら、二年前から今日までのことを思い出していた。あれから結構な時間が経ったが、未だにこの漆黒の蛇は唖杭の首元に巻き付いて離れる様子は無い。犠牲にした人間の数も今日で両手で数えられる数を超えた。
別に餌を探すために難しいことはしていない。ただ、蛇が己の首を絞め始めたら、昼夜を問わず様々な場所へと赴き、そして歩き回るだけだ。
誘拐した子供の手足を切り落として失血死させていた異常性欲者、廃倉庫で拷問を行っていた暴力団員三人、通りすがりの人間を殺してその金品をはぎ取っていたホームレス…唖杭が蛇の絞首に苦しみながらあちこちを歩き回っていると、必ず餌となる人間は彼の前に現れるのだった。
餌となった彼らの傍らには、いつも犠牲者が居た。しかし蛇は既に死んでいる者には興味が無いのか、その亡骸にどうこうする様子は無かった。最初は唖杭も、自分が訪れた場所に遺体が残っていると、どこかのタイミングで警察に疑われるのではないかと怯えていたが、今まで警察が自分を訪ねてきたことは無く、五人目を餌にした頃からあまり気にせずそのまま放置して去っていた。
犠牲者が居ない場合は自分が標的になった。暗い夜道を蛇に苦しめられながらさ迷っていた所、突然「若い男は死ね!」と叫びながら、半狂乱の中年女に襲われたことがある。腹部に刃物をしっかりと刺され、唖杭は気を失ったが、気が付くと刃物が転がったまま女は消えていたし、刺された箇所の傷も塞がっていた。彼女が餌になったことだけは、分かっている。
元はと言えば、餌になった連中は須く自業自得だ。人の命を蹂躙しようとした報いを受けているだけだ。そう、自分は悪くない…。いやしかし、他人を踏み台にしてまで自分の命に価値があるとは思えない。湯気の立ち込める風呂場で、唖杭はまた頭を悩ませていた。
「…相変わらず不毛だな」
何度も自覚してはいるが、こんな考えを巡らせたことで何も解決はしない。唖杭は強制的に考えることを辞め、シャワーを浴び終える。風呂場から廊下へと出ると、手前の洗濯機にひっかけてあったタオルを手に取り、体を拭き始めた。狭く古い物件のため脱衣所のスペースは無い。風呂場のすぐ傍に玄関があるので、入ってくる隙間風が寒かった。
素早く体を拭き終えてスウェットに着替えると、玄関脇の壁に取り付けられている姿見を見つめる。古いアパートにしては些か不釣り合いな程立派な備品だ。映っている黒い首輪をつけられた自分の姿には、生気があまり感じられない。
「(…また少しやつれたか?相変わらず顔色が悪いな)」
みすぼらし過ぎるのも嫌なので、髭剃りや最低限の髪の手入れ等はそれなりに行っている。ただ、こんな生活が続けば、心身は摩耗するし、それが顔に出るのも当然だった。目の痣はコンプレックスだったものの、すっかり日陰者になった自分にはお似合いだと思い、隠すことをとっくの前にやめている。
十秒ほど鏡を眺めた後、洗濯機に持っていたタオルを放り込む。そのまま廊下に設置されているキッチンスペースへ移動すると、小さな冷蔵庫を開けた。
「チッ」
軽く舌打ちをして扉を閉める。冷蔵庫には食料品らしいものは何も入っていなかった。そう言えば今回は中々餌が見つからなかったので、買い出しどころでは無かったのだ。
水道の蛇口を捻り、手で水を掬って飲み、喉を潤した。雨が強まる中、今から外に出る気も起きない。
歯を磨き口を漱ぐと、自室に戻る。あまり物が置かれていないシンプルな部屋だ。窓際には、グレーのボックスシーツが被せられたマットレスが敷かれている。掛けられていた布団を捲り、唖杭は自身の体を滑り込ませた。
「(こんな生活を、いつまで続ければいいんだろうか)」
空腹の中、軽く不安と焦燥感に駆られるものの、体を布団で覆うとすぐに眠気が押し寄せてくる。
蛇に餌を与えた日の睡眠だけは、唖杭にとって数少ない穏やかな時間となった。
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