第8話 黄昏時の給餌
結論から先に言うと、これから先輩は蛇の餌となる。
河川敷にかかる歩行者用の橋は、夕闇が迫る中、次第にその姿を闇に溶け込ませていく。薄暗い夕日の最後の光が橋のアーチを横切り、長く伸びた影が川面に揺れる。先輩と唖杭は、橋の中心部に立った。
「ごほっ、すみません、心配かけて…」
「いやいや、そんな死ぬ手前みたいな顔してたらほっとけるかよ。…本当に大丈夫か?会社も急に辞めたし、あの後取引先が『唖杭君居なくなっちゃったの!?』って喚いて大変だったんだからな」
「…ご迷惑おかけしました、けほっ」
「だから無理すんなって、とりあえずコンビニで温かいもんでも買おう。俺が奢るから」
既に自身とは何のかかわりも無いはずの先輩は、会社に居た時と同じようにただ優しく接してくれる。彼にとってはその善意は当たり前のことなのだろうが、ここ暫く周りが見えていなかった唖杭にとってはその気遣いが身に染み込む。
「(俺にも、こんなに心配してくれる人が居たんだな)」
自身を包んでいた黒い感情が、少しずつ溶けていくような気がした。未だまともに呼吸できない苦しみは続くが、少し前とは打って変わってその心は穏やかだ。
「(誰を餌に、だとか、馬鹿みたいじゃないか。俺みたいな人間が、人の命を犠牲にして生き永らえたところで、何の意味があるんだ)」
様々な感情を得た後に、最終的に死を受容することができる…大学時代、朧気ながらそんな話を講義で聞いたことがあった。今まさに、自分は死を受容する段階に至っているのではないだろうか。
「ゲホッ、先輩、俺、先輩に今日会えて、本当に救われました。ありがとうございました」
唖杭がそう礼を告げると、先輩はこちらを覗きながら苦笑する。
「なんだお前、急に改まって。まるで今生の別れみたいだぞ」
「あはは、そうですね…ケホッケホッ」
「…まあ、俺も。今日お前に会えてよかったよ。実は、ずっと探してたんだ」
そう言いながら、先輩は支えていた唖杭の体を欄干側へと少しずつ近づけていく。そして、
「唖杭」
「はい?」
「悪いな」
先輩の手が唖杭の体を強く押した。唖杭は、バランスを崩して欄干から落ちる。
「え?」
体は宙を舞い、冷たい風が頬を切り裂くように感じられた。
ドッ
次の瞬間、唖杭の体は川の中心にある大きな岩に激しくぶつかった。視界が、赤い砂嵐に覆われていく。川の流れが彼の周りを取り囲み、冷たい水がその体を包み込む。じわり、と血が流れ、広がっていく。
「(どうして)」
その困惑は言葉にならず、小さなうめき声を出すことだけで精いっぱいだった。暗くなり続ける視界の中で、橋の上から、先輩がこちらを見下ろしている。ザーザーと流れる水の音が耳を支配するが、辛うじて先輩の声が聞こえてくる。
「悪…な。お前…、俺…横領…代わりに……自殺……」
聞き取れる僅かな単語から、唖杭は激しい痛みの中、何とか情報を整理しようとする。
…退職する少し前に、「帳簿が合わないらしい」、「取引が偽造されているんじゃないか?って話が出ている」という噂を聞いたことを、ふと思い出した。
「(まさか…先輩が…)」
激痛と痺れの中、意識がどんどん遠のいていく。まさに死が近づいている、と表して良いのだろう。
その中で唖杭は、先程迄散々自信を苦しめていた首の圧迫感が解けていることに気づいた。
「(ああ、そうか)」
蛇は今、橋を駆け登って、先輩の下へ向かっている。目視している訳ではないが、何処に居るのかを唖杭は理解することが出来る。どこか感覚が繋がっているのだ。
「(そういう人間が、お前の餌なんだな)」
唖杭は納得し、意識を手放した。
――――――――――――――――――――
「ふ…ふふ」
我ながら完璧な計画だった。唖杭は入社してからずっと、彼の教育を担当していた自分自身に深い信頼を抱いていた。だから、仕事に関する情報は何でも自分に共有していたし、自分が唖杭の仕事を代わりに請け負うと言えば、彼は喜んで仕事を引き渡した。
思えば、唖杭は高い能力を持つ割に無欲な男だった。出世の野心もそこまで無く、人を殆ど疑わない。だからこそ、長年彼は自身の不正の隠れ蓑となり続けていたわけだが…。
しかし、今年に入り不正取引の噂が社内で流れ始めたことで、協力していた財務部門の社員が怖気づいて無断欠勤の後失踪してしまったのだ。本格的な調査が始まれば、いずれこの件は明るみに出る。自身への追及を逃れるため次の手を考えていた所、唖杭が突然の退職を申し出て、あっという間に引継ぎを済ませて退職した。
これを利用しない手は無かった。
シナリオはこうだ。
長年にわたり社内で行われていた不正取引、及び横領の犯人は、唖杭照代だった。彼は自身の横領がバレそうになり、理由を付けて退職した。しかし、唖杭の先輩であった自分は、彼がが在職中に関与していた不正取引や横領の証拠を次々と発見する。
そして今日、彼と偶然出会った自分はこの橋の上で唖杭を追求した。追い詰められた唖杭は、橋から身を投げて、その下にあった岩に体をぶつけて死に至ったのだ。唖杭を突き落とす場所の候補であったこの橋の近くを、彼が歩いていたことは本当に幸運だった。
転落した唖杭はピクリとも動かない。この高さから頭を打ち付けたのだから、無事では済まないだろう。仮に生存していたとしても問題ない、唖杭を横領の犯人に仕立て上げる 工作は済んである。先回りをして警察に事情を説明しておけば、唖杭が後からどう言おうとも信用されるのは難しいだろう。昨今の警察はクソ忙しい。真実らしきものが用意されていれば、わざわざ綿密に捜査などしないのだ。
「さて、そろそろ救急車を呼んでおかなきゃな」
あくまで自分は後輩の悪事を突き止めたものの、やけを起こした彼の自殺を止めることが出来なかった悲劇の男だ。スマホを取り出して、119のダイヤルにつなごうとポケットに手を入れようとする。
「…?」
左足元に、何かが絡みついている。黒い、縄のようなものだ。薄暗くて、何なのかよく分からない。
「え、なんだこれ…」
屈んで手を触れようとした瞬間、
バキャリ、と、小気味良い音がして、自分の脛の中心から下が直角に曲がった。
「へっ?あっ、あっ」
体勢を崩してその場に倒れ込む。痺れるような強い痛みがガンガンと伝わってくる。そこでようやく、自分の左足があらぬ方向へとへし折られたことに気が付いた。
「あっぎゃ、ぎゃあああああああああああああああああ!!?」
悲鳴を上げ、のた打ち回る。黒い何かは、ずるずると体の長さを伸ばしながら、太腿、腰へと巻き付こうとしていた。
「なん、これ、これなに!!?誰か!!誰か!!!」
日も殆ど暮れたこの時間帯は、極端に人通りが少ない。だからこそ自身はここを唖杭を突き落す候補にしていたのだ。故に、叫び声をあげても、助けに来る者はいない。
黒い縄は、折れた足への巻き付きを強めた。
「うげぇ!!」
この世の物とは思えない激痛に嘔吐し、尿を漏らす。気が付けばその縄…いや、化物は、自身の胸にまで巻き付いていた。化物は少しずつその体を膨らませていく。
「嫌だ、やだ…!」
黒い化物は、既に彼の全体を覆う程大きくなっていた。身動きが取れぬ『先輩』は、漆黒の化物を見上げながら、これからすぐ訪れるであろう未来を予知してしまう。
「あ…あ……やだ…」
拒否の言葉は無意味である。彼が絶望の中最期に見聞きしたのは、全身の骨が砕ける音と、光の一切届かない暗闇だった。
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