第7話 這いずり回る者

 姉を呑みこんだ後、蛇は体を縮めて唖杭の方へするすると寄っていき、彼の体をよじ登り再び首に巻き付いた。もう力を込めて絞めてこようとはせず、無機物のようにただただその首元に留まっている。


「………」


 唖杭は身に着けていたスウェットの袖で、自身の顔を強く拭った。静寂の訪れた室内で、姉の発言を思い出しながら状況を整理する。


『まっさか、隣の馬鹿女が先に餌になっちゃうとは、想定外だったわ』


『でも、この子には長いこと断食させてたし、あんな雑魚メス一匹食ったところで食欲収まらないよね~』


 隣人も、姉も、蛇に呑み込まれた。姉を食した蛇は、今はじっと大人しい。


「やっぱ、そうか」


 蛇の化物に自身が苦しめられないようにする為には、他人を犠牲にしなければならない。唖杭は啓示を受けたように、その事実を確信してしまった。


 残忍な女の片割れである唖杭照代は、人並みに倫理観を持つ、人並みの善人だったが、姉による執拗な虐待を長年受け続けていたことから、人一倍痛みと苦しみに敏感な人間でもあった。それらから逃れるためには手段を選ばない弱さが、どうしても彼の中にあった。


「……」


 アラームの音はとっくに止まっている。サイドテーブルに置かれていたスマホを手に取り、社内用のチャットツールを開いた。


『おはようございます。始業前に失礼いたします。


 休日中にショックな出来事があり、心身の不調を癒すために5日間の休暇をいただきたく存じます。


 さらに、この件をきっかけに現職に対して疑問を持つようになりましたため、来月で退職することを決意いたしました。突然のご報告で申し訳ございません。


 次週出社次第、引継ぎ業務を開始いたしますので、何卒よろしくお願い申し上げます』


 上司へこのようなダイレクトメッセージを送信すると、あまり時間を置かず返事が返ってくる。


『どうした、何があったんだ』


 すぐに唖杭も返事を返す。


『私の住んでいる隣の部屋で子供が親に殺される事件が発生しました。私はその子供の遺体を目撃してしまい、精神的に大きなショックを受けてしまいました。


 大変申し訳ありませんが、体調が優れないため、本日はこれ以上の連絡が難しいことをご了承ください』


 人の良い上司の事だ、部下の唐突な文章に驚いているに違いない。


『とりあえず、もう少し考えた方が良い』


 そのようなメッセージが返って来るものの、もうこれ以上返事をするつもりはなかった。


「(もう少し考えろ、か。その通りだな…だが)」


 自分が生きていくために、このセキュリティの強いマンションに住み続けるのは何かと不都合だ。唖杭は立ち上がり、自身の身辺整理を始める。その行動は、彼の普段の性格からは想像もつかないほど積極的なものだった。


 始めにマンションのオーナーに連絡し、部屋を解約する旨を伝える。満了時期まではまだ先のため解約金が発生することを了承し、一か月後に立ち退きになることが決定した。他の契約も、次々と解除し終える。


 手続きが一段落すると続いて部屋を回り、本当に必要なものとそうでないものを選別していく。多機能エスプレッソマシン、無駄に大型な冷蔵庫、AI機能付きドラム式洗濯機、ヴィンテージソファにガラステーブル…それら大型家電や家具をリストに纏めると、買い取り業者に連絡し、二日後に出張査定と買い取りの予約を取り付けた。


 次は持ち運びが楽な物を家中から引っ張り出す。初任給で買った某ブランドの高級時計、先輩に紹介してもらった店で仕立ててもらったスーツ、お洒落だからという理由で何となく買った絵画等などの大量の物をまとめて箱に入れ、去年一括で買ったばかりのスポーツカーに載せて、買い取り業者の店へ持っていき、すべて売却した。


 身の回りの物を殆ど売り終えた週末、部屋は随分とすっきりした。売った物には全て大なり小なり思い入れがあったはずだが、今はそれらが大金になったことに僅かな喜びを感じるだけだ。


「(浮かれてたんだな…)」


 殺風景になった部屋に座り、今までの自分が随分物欲に溺れていたことを自覚する。楽しかったのだ。誰に邪魔されるでもなく、自分で好きな仕事で金を稼いで、欲しい物を誰の目を気にすることなく買えることが。だが、もう、そんなことはどうでもいい。すり、と、首元の蛇を一撫でした。


 週明けの社内で、唖杭の上司や部下、先輩は、退職を引き留めるために唖杭が出社するのを待っていた。


 彼の住むマンションで起きた子供の死亡事故と、関係者の母親がまだ見つかっていないというニュースは、既に報道されている。休職制度の利用や、社内カウンセラーへの相談、短時間出社の提案など、出来る限りのサポートを約束しようと、彼らは決心していた。


「……おはようございます」


「!あ、唖杭…」


 しかし、いざ出社してきた唖杭の姿を見て皆言葉を失った。普段しっかりもので身だしなみに気を遣っていた彼の髪はぼさぼさで、シャツがよれている。怪我したのか、首元には包帯がぐるぐる巻かれている。顔色が悪く、虚ろな両目の下には、蛇の鱗に似た痣があった。



「……それじゃ、引き継ぎ始めますんで。全部終わったら、そのまま有休消化します」


「あ、ああ」


 結局、会社の仲間は唖杭をまともに引き留めることは出来なかった。そして、一週間かけて全ての引継ぎ対応を手早く完了させた彼は、送別会を含めた見送りを全て断り、静かに会社を去る。


 その間ずっと、唖杭は確かに感じていた。少しずつ、少しずつ…、首への締め付けを蛇が日に日に強めている感覚を。


 会社を辞めてマンションを引き払った後、唖杭は新しい住処を探さずに、寂れた場所にあるネットカフェや安宿を転々として生活していた。身も心も状況も不安定な状態で、新居を探す気にはなれなかったからだ。幸いそれなりに貯金もあったので、生活自体には暫く困らない。


ただし、何処に行っても、誰を見かけても、蛇は何の反応も示さない。餌らしきものが見当たらず、唖杭は日に日に焦りを募らせていった。


「(…どうやって)」


 蛇は唖杭の首の締付けをじわじわと強めていくだけだ。若々しい母親と自身の姉が蛇の捕食対象となったことから、妙齢の女が蛇の餌の対象になるのかとも考えてホテルに風俗嬢を招いたこともあったが、結局蛇が襲いかかる様子も無く、その嬢に「趣味の悪いチョーカー」だと嘲笑われながら一晩を過ごしただけだった。


「(どうやって、誰を餌にすればいいんだ!)」


 少し、また少しと息苦しさが増していき、眠れぬ夜が続く。


「げほっ、くそ…くそぉ……!蛇め……!」


 彼は、蛇の性質を少しずつ理解し始めていた。この動かない蛇には意思があり、知能がある。そして、蛇は楽しんでいるのだ。唖杭照代という人間が苦しみながら、自身の餌を探すために無様に這いずり回っている状況を。


 更に数日が経つと、いよいよ、体力が限界に近付いてきた。このままだと本当に死んでしまう。唖杭が何よりも恐れている死が、すぐそこまで来ている。


「げほっ、ごほっ…。嫌だ……、嫌だ…!」


 餌を探すために今日も出歩いていた彼は、日が落ち始めて薄暗くなった河沿いをフラフラとうろつく。すれ違う数少ない通行人もそんな彼を避けていった。


「(このまま…死ぬのか…どうして、俺が…俺ばかり…)」


 虚ろな表情をしながら、ガリガリと首を掻く。首回りに締め付けられ続けたことによる鬱血の痕が赤黒く浮き出ており、まるでそれが漆黒の蛇を彩っているようだ。


「おえっ…ゲホッ!ゴホッ!ゴホ!」


 咳をしながら、苦しさでその場で蹲った。


「(もう、本当にだめかもしれない)」


「唖杭……?」


 その時、こちらを伺うような声が背後から聞こえてくる。


「どうしたんだお前、こんなところで…。ずっと、心配していたんだぞ」


 振り向くと、退職した会社の先輩が、トレンチコートを纏ったスーツ姿で立っていた。


「先輩……どうしてここに…」


「いや、俺は普通に仕事帰りで…。え、ちょ、お前、最後に顔見た時より更に顔色悪くなってるじゃないか…。とりあえず立てるか?肩貸すぞ。あっちの方にコンビニあるし、とりあえずその橋を渡ろう」


 先輩は川に架かっている橋を指差す。


「…ありがとうございます」


 思わぬ再会に、唖杭の死にかけていた心が少しだけ温かくなる。唖杭は先輩に支えられ、共に橋の方へと向かった。

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