第6話 姉に至る禍い
ピリリリッ、ピリリリッ
「う…」
スマホの音で目が覚める。朝、起きられるようにと設定したアラーム音が鳴っているということは今日は月曜、つまりは平日だ。あれから丸一日以上寝ていたのか?とにかく起きて出社の準備をしなければ…。
「ぐ…う、」
マットレスに両肩を付き、力を込めて上体をゆっくりと起こす。寝汗が酷かったようで、全身がべたべたとしており不快だった。…どうも、ベッドを降りる気になれない。
脳が覚醒するにつれ、自身の体調が著しく優れないことを自覚していく。頭が痛い。首が痛い、吐き気がする。体が重い。喉が渇く。息が苦しい……
「(なんだ?)」
苦しい……
「げほ!?」
苦しい…!苦しい!苦しい!苦しい!?
「カハッ!ゲホッ!ゲホッ!ケホッ!!」
唖杭は強烈な息苦しさを覚える。呼吸がまともに出来ないのだ。何故今までこの苦しさに気づかなかったのだろうか。何かに、何かに首を絞められている。
「がはっ!まさか…!」
…蛇だ。昨日から唖杭の首に巻き付いたままの漆黒の蛇が、尾を食みながら首を締め付けている。少しずつ、少しずつその締付けが強まっていることを唖杭は嫌でも実感せざるを得ない。
「やめろ……やめ……ろ……!」
死に物狂いで蛇を掴もうとするも、指が首と蛇の境をガリガリと撫でるだけだ。首に食い込んでいる細い蛇に、指をひっかけることすらままならない。
ピリリリッ ピリリリッ
未だ、アラームが鳴り続けていることに気がついた。音の 発生源であるスマホは、サイドテーブルに置かれている。
「(そうだ、救急車…!)」
スマホを取るために、唖杭は体制を変えようと体を捻る。しかし焦った影響でバランスを崩し、そのままベッドから落ち、うつ伏せに倒れてしまった。
「がっ…!?」
体の前面に痛みと衝撃が走る。床と自身の体で肺が押しつぶされ、体内に残っていた貴重な酸素がさらに逃げていく。
「ヒッ……カヒュッ……」
苦しみと痛みで体を起き上がらせることが出来ない。便利なスマホは、今や自身のはるか上だ。
呼吸が出来ない。頭が痛い。視界がチカチカする。体が冷たい、寒い……『死』、その単語が実感と恐怖を伴い、頭の中を埋め尽くす。自身の目から、涙がボロボロとこぼれ始めた。
「ゲホッ…死に…たく…ない……嫌だ…!」
「――助けてあげよーかぁ??」
突然、頭の上から女の声が聞こえてくる。 本来は唖杭しか居ないこの部屋で、響く他の人間の声。
「あ…あ…」
その招かれざる客の訪問は、唖杭にとって想定外と言う程では無かった。彼は、ゆっくりと顔を上げる。
肩まで露出したミニスカートのニットワンピースを身に纏った女が、ブーツ…つまり土足のまま、彼の目の前に立っている。ダークグリーンのボブカットヘアからは強気な目が覗いており、目の下には蛇の鱗のような痣が浮かんでいる。その顔立ちは、性別は異なれども毎日鏡で見る自身とよく似ている。
「姉、貴……」
「おひさ~」
双子の姉、
「どうして…ここに」
「るせーな、質問は許可してねーぞ馬鹿カス」
痲寧はブラウンのスクエアヒールブーツで唖杭の顔を蹴り上げた。
「ギャッ」
悲鳴を上げた後、無言で浅い呼吸を繰り返す彼を見て、痲寧は満足そうに頷く。
「そーそ、最初から大人しく黙ってればいーの。いやー、マンションに居たポリ公躱しながらここまで忍び込むの、すっげえきつかったわ~」
「ヒュー、ヒュー、ゲホッ、ゲホッ」
「アハハハッ、顔真っ青」
唖杭が苦しめば苦しむほど、痲寧は笑顔になる。昔から弟をオモチャや実験体だと思っているところも、その性根の悪さと残虐さも、何も変わっていない。それ以上に、今までどこで何をしていたのか、この状況は姉貴のせいなのか、そう問いただしたい気持ちもあるが、質問は許されていない。次に口を開けば、死期が早まるだけだろう。
「予定では、もう少しはや~くお前が苦しみ始めるはずだったんだけどね。まっさか、隣の馬鹿女が先に餌になっちゃうとは、想定外だったわ」
『隣の馬鹿女』…『餌』…、やはり自分が見たあの光景は…
「でも、この子には長いこと断食させてたし、あんな雑魚メス一匹食ったところで食欲収まらないよね~」
痲寧は一人で楽しそうに喋る。その食欲とやらがこの蛇にあるならば、自分もこれから同じ目に遭うのだろうか…
痲寧は屈んで、唖杭の首を締め付けている蛇をすりすりと優しく指で撫でた。
「いい子いい子~」
…いやだ、いやだ…いやだ!
唖杭は涙とよだれと鼻水を垂らしながら、バッと顔を上げる。痲寧は手を引っ込め、「うわっ、醜いツラだな」と不快そうに眉をひそめた。
「た…す、けて、くだ、さいい。おね、がいします…ケホッ」
唖杭の、心の底から懇願だった。姉が自身の願いをまともに聞いてくれた試しなど今まで無かったが、それでも請わずにはいられない。…この苦しみから解放されるならば、どうなっても構わないとすら思ってしまう。
痲寧は這いつくばりながら命乞いをする弟を見て、より愉快そうに笑った。
「アハッ、アハハハハハ!よく言えました~!偉いねぇ~」
そう言いながら、唖杭の頭をワシワシと撫でるも、すぐに我に返ったように「うぇ、うっかり汚ねぇもん触っちゃった」と手を放し、唖杭が寝ていたシーツの端で手を拭いた。
「……」
じっと、彼女は唖杭を見つめる。互いの暗褐色の瞳が、片割れの姿を反射した。
「……いいよ、助けてあげる」
「…え?」
その言葉は、唖杭にとって予想外の言葉だった。
「助けてあげるって言ったんだよ。そもそも、最初から助けてあげよーかって聞いてあげてるんだしね」
「あ、あ…き…」
姉の真意を探ろうとしても思考がまとまらず、頭に靄がかかったようになり、視界が少しずつ白んでいく。いよいよ唖杭が指一本動かせなくなると、痲寧は右手の人差し指で、自身の唇を一撫でした。
「蛇」
彼女がそう呼ぶと、唖杭を締め付けていた蛇の力が一気に緩まる。ようやく、唖杭の求めていた酸素が体に入ることを許された。
「っ、ハア―――!ケホッ、ハア、ハア、ハア…!ゲホッ、ゴホッ」
激しく咳き込みながら空気を味わっている唖杭の体から、蛇がするすると降りていく。強烈な吐き気と頭痛に苛まれ、ちかちかと点滅する視界の中、彼はその蛇をどうにか目で追った。
「!」
漆黒の蛇は痲寧の下へ近寄りながら体をどんどん膨らませていき、部屋をぐるりと囲うほどの体の長さになった。やはり子供を殺した母親は、あの時こいつに食い殺されたのだと今更ながら唖杭は確信する。
「姉貴…、どうするつもり「黙れ」」
姉の一言で唖杭の体は固まった。思わず呼び掛けてしまったことを後悔する。これ以上酷い目に合わされては堪らない。しかし、痲寧は今、唖杭に興味を示してはいないようだった。
蛇は体を持ち上げ、痲寧を見下ろすような形を取る。
「ふふふっ」
痲寧はそれに答えるように蛇を見上げ、そっと両手を捧げるように差し出した。
「いいよ」
今まで聞いたことの無いような甘い声で痲寧は蛇にそう許しの言葉を告げる。蛇は口らしき箇所をガパリと開けた。
「(まさか…)」
何故、今、そんな選択を取るのか、唖杭には理解が出来ない。姉は愛おしそうに蛇を見上げながら口を開く。
「あんたのこれからが」
彼女の言葉は、蛇に向けられているのか、唖杭に向けられているのか分からない。唖杭は呆然とその様子を眺めるしかできない。
「不幸と、憎しみと、悪意と、苦しみに」
蛇の口が、痲寧へと勢いよく迫る。
「溢れますように!」
呪いの言葉を吐き切ると同時に、痲寧は一瞬で、蛇に呑みこまれた。
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