第5話 そして呑まれ縛られる
「はっ…!」
フローラルな香りが冷気と共に鼻を撫でる感覚を得て、唖杭は遠くへと飛ばしていた意識を取り戻した。慌てて立ち上がり、現在の状況をを確認しようとする。
「(ここは、隣の部屋か?)」
靴箱の上に置かれたアロマディフューザーは、ここが自身の部屋でないことを証明している。扉が開けっ放しの玄関には、母親の姿も、漆黒の化物の姿も無い。
「あれは、まさか幻覚?そんなに飲んだ覚えは…」
唖杭は後ろを振り返る。立ち上がり、ダイニングへ向かうと、血を流しながら仰向けに倒れている子供の亡骸があった。 一番幻覚であってほしかった『物』は、残念ながら幻覚では無い。
「…くそ」
唖杭は自室に戻り、スマホを手に取った。
「子供が死んでいます」、通報すると警察がすぐさま駆け付けてきた。そして、以前虐待を通報した時とはまるで考えられないような手際の良さで、てきぱきと現場の検証を始めたのだ。
彼らの指示により、唖杭は廊下で待機させられる。自室に戻ることを許されず寒さに震えていると、唖杭と同年代か、それよりやや若いくらいの警察官が、急にこちらを睨みながらぐんぐんと迫ってきた。
「お前!」
「!?」
若い警察官は軽く唖杭の胸倉をつかむ。
「あの子には虐待されていた跡があったぞ!こんなことになる前に、なんでもっと早く通報しなかったんだ!」
「い、いや、その…」
唖杭が問い詰められてしどろもどろになっていると、中年の警察官が何とも言えない表情を浮かべながら「おい」と、若い警察官の肩を掴んで唖杭から引き離す。そしてその中年警察官から何かを耳打ちされた若い警察官は、カッと顔を赤くさせた後、こちらへ気まずそうに視線を向けていた。
「(俺の通報があの人に届いていれば、あの子は生きていたんだろうか)」
寒さに震えながら唖杭がそのようなことをぼんやり考えていると、別の警察官が近寄り「お手数ですが」と前置きがあった後、警察署への同行を要請された。
パトカーに乗り、警察署に到着すると、個室へと通される。 促されるまま奥に置かれていた椅子に座ると、机を挟んで対面にガタイの良い中の刑事が座ってくる。彼の後方ではその男性より若い私服の刑事がメモの置かれた別の机の前に座っていた。
「一階から自分の部屋へ戻る際に、隣人の女性の怒号と子供の悲鳴が廊下へと聞こえてきていました。気になって耳を傾けたのですが、その内静かになったので通り過ぎて自室に戻りました。それから、十…いや、二十分後くらいですかね、女性が自分の部屋に尋ねてきたんです。困ったことになったので、部屋に来て助けて欲しい、とのようなことを言われました」
唖杭が当時の状況を説明すると、後ろの若い刑事は無言でサラサラとメモを綴る。
「その時の、彼女の様子は如何でしたか」
目の前に座っている刑事の質問する声が室内へ重く響く。グレーのよれたスーツを身に纏っているのにも関わらず、彼は力強いオーラを放っていた。
「普通に…困っているように見えました。マンション内ですれ違う程度の間柄で特に名前も知りませんでしたが、別に突っぱねる必要性も感じなかったので、言われるままに隣の部屋へ入りまして」
「そこで、子供の遺体を見つけた、と」
「…はい、慌てて救命措置を試みたのですが、その時隣人に、『その子供を隠すことを手伝ってほしい』と涼しい顔で言われました」
刑事の眉がピクリと動く。
「貴方はどう返事をしましたか」
「そんなことは出来ない、警察に行きましょう…と言った気がします。すると彼女は発狂したような様子で玄関へと…」
唖杭の言葉が詰まり、体から僅かに汗が噴き出てきた。
「……その、すみません。それからはよく覚えていないんです」
微かな沈黙の後にそう答えた彼の目を、刑事の鋭い眼光が射る。
「……」
「よく覚えていない」という言葉は嘘と言うほどでもないが、誤魔化した自覚はある。そもそも『大蛇が現れ、母親に襲い掛かった』等と証言しても、信じてもらえないどころか疑われるのがオチだろう。 …ただ、それ以上に、あの悍ましい光景を他者に漏らしてはならない…そんな強迫観念が、唖杭の頭を支配していた。
刑事は腕を組み、「ふぅー」と息を吐きながら、パイプ椅子の背もたれに体を預ける。
「まあ、無理もないでしょう。遺体を見てショックを受ける人は少なくないですからね。記憶の混濁は、そこまで珍しい事ではありません」
どうやら信用してもらえたようだ。唖杭はほっと、一息ついた。
結果として、子供の死と母親の失踪について関与を疑われることも無く、唖杭の証言は全て信用された。何度か警察や児童相談所に虐待を通報していた実績と、唖杭の部屋にある玄関モニターに、隣人の母親がインターフォンを押した時の光景が録画されていたことが功を奏したらしい。
ただし、母親が何処へ失踪したかの痕跡が一切掴めないため、現場周辺をもう暫く検証する必要があるという理由から、唖杭はその日の朝まで自宅に戻ることを許してもらえず、警察署の一室で夜を過ごす羽目になった。
日が昇り始めた早朝にようやく帰宅の許可が下りると、マンション前まで普通車で送ってもらう。エントランスからエレベーターに乗り、自室のある階へ到着すると、廊下を進んでいく。途中、数名の警察官や刑事らしき人物とすれ違ったが、こちらにはあまり興味を示す様子も無く素通りされた。近隣の住民も何か事件が起こったことに気づいたようで、遠巻きに現場となった部屋の様子を眺めている姿が何人か確認できた。
隣室の前まで到着すると、玄関の扉は解放されており、「KEEP OUT」と書かれた黄色い規制線がその入り口を塞ぐようにピンと貼られている。流石に子供の遺体はもう運び出されたようだ。
「(…切り替えよう)」
これは不幸な事故だった、割り切るしかない。唖杭はそう結論付け、自室の鍵を開けて部屋へと入る。彼はそこでようやく、目の下の痣を隠さないまま今まで警察と対面していたことに気がついた。
「…しまった。はぁ、最悪だ」
恥ずかしさから、己の頭を掻く。あんな状況に遭遇した後でも、長年のコンプレックスを人に晒してしまった羞恥は湧いてきてしまうものだ。
靴箱に置いてあった手鏡を持ち上げ、自身の顔を確認する。唖杭はそこでようやく、黒いひも状の何かがぴったりと自身の首元に巻き付いていることに気づいた。
「?なんだ、この黒い線」
靴を脱いで脱衣所へ向かい、より大きな鏡の付いている洗面台の前に立って状態を確認しようとする。
「…おい、冗談だろ」
そう、蛇だ。あの漆黒の蛇が、尾を食みながら、ぴったりと自分の首に巻き付いているのだ。傍から見れば、彼がファッションとしてチョーカーを身に纏っているようにしか見えないが、これが紛れも無い異常事態であることを唖杭本人は理解している。
唖杭はリビングへと駆け戻り、姉から届いていた箱を確認する。中にぴったりとリング状に納まっていた黒い蛇は、そこに存在しなかった。軽いパニックに陥る。
「くそっ、なんだんだよ!」
自身の首から蛇を外そうと、それに触れる。感触は自分の皮膚のようにも似て、温かくも冷たくもない。留め具らしき箇所は見当たらず、首と蛇の隙間に指を入れようとすることすら出来ない。
「ちっ、外れない…!」
素手で格闘しても埒が明かないと判断し、鋏を持ち出す。蛇の胴体箇所へそっと刃を当てた後、力を込めて断ち切ろうとする。
「っ…!」
刃先に自身の皮膚が当たって血が出るも、蛇の胴体に切れ込み一つ付く様子も無い。
その後、手を変え品を変え力加減を変え、家にあるあらゆるものを引っ張り出し様々な方法を試みたが、唖杭の首元からその漆黒が外れることは無く、首回りがズタボロになるだけであった。
「……だめだ、眠い」
唖杭は首に付いた無数の傷の消毒もまともにしないままベッドへ倒れ込む。疲労と眠気に敗北し、何もかも考えることが嫌になってゆっくりと目を閉じ、意識を手放していく。
深く闇に呑まれる感覚が、とてもとても心地よかった。
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