第4話 誘惑と誘導と闇
インターフォンの音は二種類ある。
前者は、外部から来た客が一階エントランス前の端末から、部屋の主に連絡を取るためのものである。少し高く澄んだ音が、建物の入口からの訪問を知らせる控えめな合図だ。
後者は、マンション内の廊下…つまり玄関前のインターフォンを押された場合に鳴るものだ。その音はより低く、重みのある響きを持ち、既に訪問者が部屋の前にいることを示している。
たった今鳴り響いた音は、後者であった。唖杭の体が硬直する。もしや、姉はとっくの昔にこのマンション内へと侵入してきており、今まさに、部屋の前へと立っているのではないか…。そんな妄想が頭を過る。
ピンポーン
もう一度、彼を急かす様にインターフォンが鳴った。唖杭は立ち上がり、壁に備え付けられているモニターへと恐る恐る近づいていく。
玄関の様子が映っているモニターを覗くと、そこには一人の人物が立っていた。唖杭は安堵のため息を吐く。その顔は、姉のものではない。
「はい、何でしょう」
唖杭はモニター越しに尋ねた。玄関に立っているのは隣人の女性だ。彼女はふわふわした可愛らしい部屋着を身に纏いながら、茶髪の巻き髪を落ち着かなそうに片手で触り続けている。
『あの…すみません、ちょっと力をお借りしていいですか』
「はい?貸すとは…」
『とにかく出てきてもらっていいですか。本当、大変で…どうしよう…』
女性の要領を得ない言葉に困惑するものの、唖杭は言われるがまま玄関へと向かい、ロックを解除して扉を開けた。
「どうしました?」
女性は唖杭の顔を見て安心したような、柔和な表情を浮かべる。今までマンション内で挨拶をしても碌に返事をせずきつい目で睨みつけてきたにも関わらず、その急な態度の変わり様には少々面食らった。女性は唖杭へずいと近づき、上目遣いで彼の目を見つめる。…かなり整った顔立ちをしている。そんな風に近づかれると少々気恥ずかしい。
「その、部屋に来てくれませんか?困ったことになって…」
「困ったこと?」
「はい、寒いですし、詳しくは入ってからで…」
彼女は唖杭の右手を優しく両手で包み込んだ。その温もりに唖杭は一瞬ドキリとする。しかし彼女は先程、ヒステリックな声を上げて自身の子供へ暴言を吐いていた張本人だということを思い出す。
「でも、待ってください。お子さんいらっしゃいますよね?僕が入っていってはお邪魔になるんじゃ」
「その、お願いします」
「…わかりました」
訪問客が姉で無いことに多少気が緩んでいた唖杭は、流石にこうも弱々しく頼まれると、強く拒否する気にはなれなかった。言われるがままに彼女に手を引かれ、隣部屋の玄関へと連れこまれる。靴箱の上には瓶のアロマディフューザーが置かれており、フローラルな薔薇の香りが室内に充満していた。女性はカチャリと扉を閉め、サンダルを脱いで土間から上がる。
「こっちです」
「ゴキブリでも出たんですか?」
「……」
返事はない。仕方なく唖杭も靴を脱ぎ、彼女の後ろをついていく。
ダイニングへと通されると、そこに広がっている光景に唖杭は目を疑った。
「なっ…!?」
子供だ。六歳くらいの男の子が、床に仰向けで倒れている。すぐ傍にある大理石の机の角には僅かに血が付着しており、子供のこめかみから血が流れていることから、彼がそこに頭を打って倒れたことを物語っていた。
「大丈夫か!!」
これが現実であることを認識すると、すぐさましゃがんで子供の体を叩く。だが、反応は無い。右手首を持ち上げて動脈に指をあてるが、鼓動は一切伝わってこない。
「くそっ」
唖杭は慌てて両手を少年の胸元に押し当てて、心臓マッサージを開始した。
「(力加減はこれでいいのか!?なんのリズムで押せばいいんだったか!?人工呼吸は必要なのか…?そもそも、倒れてどれくらい時間が経っている?!!頭の止血の方が先か…!?)」
以前会社で行われた救命救急講習の知識と記憶を必死に引っ張り出そうとしながら措置を試みる。しかし、はっと、あることに気づき、処置を続けながらも、女性…母親の方へと唖杭は勢いよく振り向いた。
「な…何してるんだ、早く救急車を!」
母親は不気味なまでに冷静さを保ちながら、目に光の無い我が子と、座り込んでいる唖杭を交互に見下ろしていた。
「その子、どこかに隠すの、手伝ってください。どうせ無理。もう助かりません。だってそれ、こうなってからもう十分以上経ってるし」
「…は?」
母親から発されたあまりに冷酷な言葉が心を冷やしていく。心臓マッサージの手は止めないようにしながらも、彼女からの『お願い』に唖杭は混乱するばかりであった。
「か、隠すって、ふざけてんのかよ!」
「山かどっかに埋めてもらえませんか?一人では抱えて持っていくのは無理だし、そもそも私、車持ってないし。ねえ、お願い」
唖杭の部屋へ訪問した際に見せた柔和な表情は何処へ行ったのやら。こちらを値踏みするような視線を向けながら、頼みを伝えてくる母親に怒りを越して恐怖を覚える。子供への心臓マッサージをどうにか続けるが、その小さな体が息を吹き返す様子はない。言葉に詰まっていると、母親はスッと唖杭の隣に屈んで、彼の体を軽く抱きしめた。
「!」
唖杭の手が止まる。彼女は唖杭の腕に、豊満な胸を押し付けた。
「お願い…聞いてくれたら、何でもしてあげるから」
彼女の目には、先程とは打って変わって、妖艶な色が宿っている。「何でも」…通常なら、その言葉に多少の魅力を感じないこともない。しかし、この状況で性欲が湧くほど、自身はイカレていない。
子供の様子を確認する。…蘇生は難しい、いや、恐らく無理だ。その事実に唖杭は歯噛みしながら、自身に巻き付いていた母親の腕を取り、立ち上がった。
「警察に行きましょう。過失致死なら、まだそこまで重い罪にはならないはずです」
「…ねえ。本当に何でもするから。言うこと聞いて?一緒に逃げて?今、貴方しか頼れる人が居ないの…」
彼女は露骨な上目遣いで唖杭を誘惑しようとする。ずっと、その方法で上手くやって来たのだろうが、流石にそこまで人生は甘くないという事を教えなければならない。唖杭は視線を逸らし、重く首を横に振る。
「何でもするというのなら、警察に出頭してください。それが、互いのためです」
「……」
母親から表情が消えた。十秒ほど、この場に沈黙が流れる。
「……ぎ、ぎいいいいやあああああああああああああああああああ!!」
「!?」
急に彼女は目を見開き、耳を劈くような金切り声を上げた。唖杭は思わず後ずさる。
「どうして、どうしてこの子を!!!人殺し!!人殺し!人殺しィ!返してよ…私の子供を返してよおおおおお―――――!」
一見狂乱したように見える母親だが、その目には冷静さと狡猾さの光が灯っている。
「あ、あんた…まさか…!」
唖杭は瞬時に状況を理解した。子供を死なせてしまった罪を、この女は唖杭に全て擦り付けるつもりだ。最初から、それが目的で部屋に連れ込んだのかもしれない。
「いやあああ―――!!リリオン!リリオン―――――!!誰かぁ――!!」
彼女は息子の名前らしきものを叫びながら玄関へと向かおうとする。唖杭は思わず母親の右手を掴んだ。
「ま、待て!」
「きゃあああああああああああ!殺されるぅ!ごろされるぅう!放してぇ!」
暴れた彼女の左手が唖杭の顔面を掠める。その指先が、唖杭の右目に突き刺った。
「っ!」
激痛が走り、思わず掴んでいた右手をぱっと放してしまう。母親はにやりと口角を上げ、一目散に廊下を駆けた。
「誰かああ――――――!」
玄関前に到達すると、彼女は扉のノブに手をかける。痛みによって足が止まり、目を押さえている唖杭の脳内では様々な思考が浮かび上がってくる。
「(落ち着け…警察に冷静に説明すれば、きっと俺が子供を殺していないと分かってもらえる!でもあの女の演技に連中が騙されて俺が犯人に仕立て上げられない保証は無い…。いや、科学捜査をしてもらえば流石に…。だが待てよ、聞いたことがある。そもそもこの国では科学捜査自体されるのは稀で、大半は怪しい人物を捕まえて自白を強要するだけだって…。俺には今、親しい身内も居ない、一度拘束でもされたら誰も俺を守ってはくれないんじゃないか…!?とにかく他の住民が騒動に気が付く前に、あの女を追いかけなければ…!)」
「ヒィィ!」
冷たい風が前方から吹くと同時に、悲鳴が上がった。その声は逃げようとした母親のものに違いないはずだが、先程発せられたような迫真の演技による金切り声とは異なる、短く、息を呑むような悲鳴だ。
「?」
唖杭は片目を押さえながら玄関側へと顔を上げる。玄関の扉は開かれており、母親はこちら側に背を向け尻餅をついていた。
扉の先には、光を一切通さない暗黒の世界が広がっているように見えた。しかし、よく目を凝らすと、廊下の景色がその暗黒の背後から微かに覗いており、光を通さぬ闇と景色が境界線を作り何らかの形を伴っている。
「な、あば…な、にこれ…なによこれぇ!!」
彼女が腰を抜かしながら叫んでいると、その暗黒は、扉を潜って、玄関へずるりと滑り込んでくる。その動きと造形は、何かに似ていた。それに近しい形のものを、唖杭は少し前にこの目で見ている。
「(―――蛇だ)」
唖杭が確信した瞬間、暗黒の蛇は母親をぐるりと締め上げる。
何故か一瞬、唖杭の脳裏には双子の姉がこちらへと邪悪な笑みを向ける姿が写った。
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