第3話 開けてはならぬ■■■■の箱
唖杭が小包を手にしたまま宅配ボックスの前で立ち尽くしていると、前方の、出口側にある自動扉が開く音がした。はっとして顔を上げると、仕事終わりであろうスーツを着た壮年の男性がやってきてこちらに会釈をする。
同じマンションの住民だ。彼はそのまま唖杭の脇を通り過ぎ、エントランス前の自動扉の前に立つ。上質なポロコートのポケットから皮財布を取り出すと、自動扉の手前に置かれている認証用の端末へそれを当てた。財布に入っているであろうカードキーに反応して扉が開き、彼はエントランスへと入っていく。
ここはあまり長居するような場でもない。唖杭も、とりあえず自室へ戻ることにした。同じくカードキーを取り出して自動扉を開けてエントランスへと入る。先にエレベーターに乗り込んだ男性は唖杭の姿を確認すると、扉を開けたまま唖杭を待ってくれていた。
「すみません、ありがとうございます」
軽く礼を述べて、唖杭はエレベーターに乗り込む。
「いえいえ。何階ですか」
「十五階でお願いします」
男性は微笑みながら十五階のボタンを押す。扉が閉まり、エレベーターがゆっくりと上昇していく。これから止まる階層のランプ確認すると、十五階と二十三階に明かりが灯っていた。このマンションのニ十階以上には、ファミリー向けの広い部屋が配置されている。男性の家族が、きっと彼の帰りを待ってくれているのだろう。
十五階に到着し、扉が開く。もう一度男性へ会釈をして唖杭は廊下へと出た。エレベーターの扉が閉まると一人取り残された気分になる。吹き抜けに充満するひやりとした空気が堪らず、行きと同様に小走りで廊下を渡り、自室前へと到着した。カードキーでドアのロックを解除してノブに手をかけようとすると、 隣の部屋から微かに悲鳴が聞こえてきた。
「ぎゃあっ!ごめんなさい!」
子供の、許しを求める声だった。
「なんでアンタはいつも私の邪魔をするのぉ!!!」
続けて、ヒステリックな女の声が響く。防音対策が施されている建物のため、唖杭の耳に入る声自体はそこまで大きくない。しかし、廊下へ声が漏れている時点で、実際は互いにかなりの声量で叫んでいることが伺えた。
「(……またか)」
唖杭は暗い気持ちになった。
右隣の部屋には、今年の夏ごろから母子が二人で入居しているようだった。昨今は隣人同士の挨拶もあまりしないものなので、まともに会話をしたことは無い。しかし母親とは玄関口やマンションの廊下、エントランスで何度かすれ違っていた。その度に唖杭は軽く挨拶をしていたが、今まで彼女から返事が返ってきたことは無い。
長い茶髪を巻いて目元と口元がはっきりした濃いメイクを施し、濃い色のキャバドレスに身を包んでいる彼女は、カツカツとヒールを鳴らしながら、唖杭が帰宅する夕暮れ時にキツイ香水の匂いを纏って早足でどこかへと出かけている。きっと夜の職に就いているのだろう。美貌と金銭的な余裕はあっても精神的な余裕はない、唖杭はそんな印象を抱いていた。
子供の方は直接この目で見たことは無かったものの、時折悲鳴に似た泣き声と女の怒号が唖杭の部屋へ届いてくることがあった。
『痛い!ママごめんなさい!ごめんなさい!』
『五月蠅い!死ね!死ねガキ!死ねぇ!』
聞こえてくるそのような内容から、母親が躾を越した虐待を行っていることは明らかである。それが一度くらいならまだ静観の余地はあったものの、毎週二、三度もそのようなやり取りがされていれば唖杭もいたたまれなくなり、何度か警察や児童相談所に通報を試みた。
しかし世間というものはいつだってそれなりに冷たく、どちらもさほど真剣に取り合ってはくれなかった。警察は「民事不介入なので」という言葉を題目のように唱えてハナから相手にしない。児童相談所からは「調査に時間がかかりますので少々お待ちください」という曖昧な回答が返ってくるばかりである。
仕方ないので唖杭自身が、母親が不在であろうタイミングを見計らって、子供の様子を伺うために部屋を訪問しようとしたこともあった。しかし、いつインターフォン鳴らしても反応は返ってこず、扉も開かれることはない。
そうなると、他人である唖杭にこれ以上できることは無い。以降、隣人に対しては唖杭は今日に至るまで不干渉を貫いている。
「……」
声が収まり静かになった。
握りっぱなしだったドアノブを引き、扉を開けて部屋に入る。片手に持っていた小包を一旦靴箱の上に置き、コートを脱いでウォールハンガーに掛け、玄関脇にある脱衣所の方へと向かった。
浴室前の洗面台の前に立つと、手を石鹸で洗った後に棚に置かれていたクレンジングオイルを手に取る。手の指にオイルを少量出して目の下を指でくるくると擦り、痣を隠していたコンシーラーを綺麗に落とした。顔を洗い終えると、タオルで手と顔を拭いて脱衣所を後する。小包を回収してリビングへと戻り、テーブルの上へそれをそっと置いた。
酔いはすっかり冷めてしまっていたが、新しく缶を開ける気にもならない。 唖杭はソファに腰掛けて腕を組み、目の前の箱を睨みつける。
「……はぁ」
配送ラベルに綴られているゴシック体を何度確認しても、差出人として記載されている名前は双子の姉のものであった。
差出人が姉本人だとするのなら…あの悪魔は今、自分の居場所を知っている。唖杭の全身から一気に血の気が引いた。どうにか頭を整理しようと、 ソファから立ち上がり、うろうろと部屋内を歩き回る。
「(落ち着け…ここはオートロックだから部屋までは簡単に入ってこれないはず…いや、でも外で待ち伏せされていれば一緒だ。くそっ、今更姉貴が何の用なんだよ…!)」
点けっぱなしだったテレビから聞こえてくる笑い声が煩わしくなり、テーブルの上に置かれていたリモコンをひっ掴んで電源を切る。しん、と静寂が訪れると、些か冷静さを取り戻した。
そしてそこから五分程経過した後、
「腹決めるか…」と、唖杭は箱を開封する決心をした。
どんなものが入っているか分ったもんじゃない。キッチンへ向かうと、使い捨てのビニール手袋を二枚とり、両手にしっかりと嵌めた。気休めでしかないが、素手で開封するよりはまだ安心できる。
リビングへ戻ると、ペン立てに立てていたカッターナイフを取り出し、慎重に構える。
「よし」
手が微かに震えるのを感じながら、刃をゆっくりと箱の中心に当てた。深呼吸を一つして、慎重に刃を滑らせる。段ボールを切り裂く音が静かな部屋に響き渡った。端まで刃物を滑らせた後にカッターナイフを置くと、細心の注意を払いながら、ゆっくりと蓋を開けた。
箱の蓋が開くと、そこには黒いリング状の何かが、中心にぴたりと収まっていた。
「はぁ?」
あまりにも想定外かつ意味不明な品物であった為、素っ頓狂な声が出る。最悪爆発物あたりが入っていることも覚悟していたが、そもそもが何なのかも分からない。
「なんだこれ、蛇みたいな…」
その輪は、全長ニ十センチメートル程の蛇が、自らの尾を噛んでいる姿を表しているように見えた。ウロボロス…確か死と再生を意味する神話的な象徴だったか…そんな考えが頭に浮かぶ。光を通さない漆黒の輪は、生物とはかけ離れた不気味さと、微かな神聖さを感じさせた。
それを手に取ってよく観察しようとした瞬間―
ピンポーン。
インターフォンが、唖杭の部屋に鳴り響いた。
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