1章-縛られし過去

第2話 最も遠い半身より悪意を込めて

 二年前まで、唖杭は総合商社の社員として日々邁進していた。職場の雰囲気は悪くなく、忙しくありながらも頑張りはしっかりと評価される。給与も同年代の平均と比べて多く貰っているし、最近自分の下に付いた後輩の美人女子社員とは何だかいい感じ。


 しかしそんな充実していた彼の生活は、ある冬の夜に一変する。


 その日は普段よりも早めに帰宅することが出来た。当時の自宅はタワーマンションの十五階であり、相場より安めな家賃にもかかわらず、部屋も広くて夜景が綺麗なところであった。


 入浴と軽い夕食を済ませた後、右手にはハイボール缶を、左手にはスマートフォンを持つ。テレビを付けて内容の薄いバラエティー番組から聞こえてくるタレントの笑い声をBGMにしながら、ハイボールで喉を適度に潤しつつスマホのニュースアプリで時事ニュースを確認する…穏やかな一時であった。


 近年多発している災害関連の記事を眺めながら、今のプロジェクトにどう響いてくるかを思案していた時、メッセージアプリから通知が届く。


「おっと、何だ」


 詳細をチェックするために通知に表示されている送信者を確認すると、その相手はいつも頻繁に利用している宅配会社であった。通知のアイコンをタップしその詳細を確認すると、唖杭宛の荷物をこのマンションの一階の宅配ボックスへの配達が完了したという内容が書かれている。


「(ああ、そういや朝に連絡が来ていたな。…何買ったんだっけ?)」


 その日の午前中、確かに唖杭は宅配会社から荷物が到着予定であるというメッセージを受け取っていた。「どうせいつもの日用品だろう」と、あまり詳細を確認せず配達先を宅配ボックスに指定していたことだけは覚えている。


 ため息を付きながら、重い腰を上げて玄関先へ向かう。外はきっと冷えているだろう。風呂上り、暖かい部屋で気持ちよく酔いが回り始めていたこともあり、部屋から出るのは少々憂鬱だが仕方ない。放置しておくと荷物の存在を忘れる可能性もある。


 ウォールハンガーにかかっていた濃いグリーンのコートを羽織った後、靴箱の上に置いてある鏡を手に取って自分の顔を見つめた。唖杭の両目の下には、生まれつき蛇の鱗に似た痣が薄っすらと浮び上がっている。同じく靴箱の上に置かれていた小さな籠からスティックコンシーラーを取り出すと、ちょいちょいとその痣に液を乗せた後、指で液をぼかして痣を隠していった。二、三回首の角度を変えながら、満足できる仕上がりになったことを確認する。これで他の住民とすれ違っても大丈夫だ。


 シューズを履き、ドアのロックを解除して外へと出た。 予想通りのキンとした寒さと冷たさが体を縮こませる。


「寒ッ」


 堪らず小走りで廊下を駆けていきエレベーター前まで到着すると、扉の脇に付いていた下降ボタンを二、三回、軽く押した。エレベーターのランプが「15」に灯るのを、唖杭は足踏みをしながら待つ。この時間が意外と長い。


 エレベーターが到着し、扉が開くと、唖杭はその体を滑り込ませて素早く「閉」ボタンを押す。エレベーター内には暖房と、ゆったりしたヒーリングミュージックがかっており、ようやく訪れた温かさに唖杭は一息つく。少し酔いが醒めてしまったので、戻ったら冷蔵庫にあるハイボール缶を開けようかなどと考えながら、目的地である一階のボタンを押して、壁に背中を預けた。


 一階のエントランスに到着すると、掃除の行き届いた白い大理石の床を進む。部外者とマンション在住者を隔てる自動扉を通り抜け、長い風除室へと出た。左側にはシルバーの郵便受けが、右側には、モダンなデザインの宅配ボックスが並んでいる。


 唖杭は宅配ボックスの前に立つとスマートフォンを操作し、指定されたボックスの番号と、四桁の番号を確認した。対象のボックスに備え付けられている電子キーに暗証番号を入力すると、扉がカチッと音を立てて開く。そこには小さな段ボール箱が、中心にぽつりと置かれていた。


「…本当に何頼んだんだっけか?」


 日用品は定期的にまとめて注文する為、こんな小ぢんまりとした荷物には覚えがない。不審に思いながらも、唖杭は送り主とその住所を確認しようとボックスからその小包を取り出し、配送ラベルを確認する。


「っ!」


 唖杭アグイ 痲寧マムシ…送り主を見て彼は息を飲んだ。それは十年以上会っていない、行方不明だった双子の姉の名前である。懐かしく、そして恐ろしい名だ。唖杭は頭を片手で押さえながら、その場で軽くよろめいた。


「なんで、今頃…?!」


 冷や汗が流れてきた。なるべく思い出さないように封印していた姉にまつわる記憶が、次々と蘇ってくる。


 泥や虫や土を丸めた団子を無理やり口に詰め込まれ。水辺に行けば突き飛ばされて溺れかけ、私物は隠されボロボロにされ…幼少期の時点で姉から受けた仕打ちは数えきれない。姉と傍に居る時、唖杭が笑顔でいれたことなど、一度も無かった。


 そして彼女の悪意の矛先は、弟であった唖杭のみに留まらなかった。詳細は省くものの、母親が毎日のように電話で誰かに何度も何度も謝り続けていた光景を唖杭は覚えている。


 そんな姉の所業の数々に心の折れた母親は、唖杭らが小学校を卒業する間近でどこかへと失踪した。元々父親は金だけを置いていくような人間で、家には殆ど寄り付かず、近所の人も凶暴な姉のいる唖杭家に関わろうとしない。唖杭は姉と二人きりで過ごさざるを得ず、毎日空腹と痛みで支配される日々を送っていた。


 中学に上がると、姉の凶悪さと邪悪さは増していった。


 一番肉体的に辛かったのは、唖杭が自室で寝ている間に部屋の鍵を壊され侵入してきた姉にそのまま手足を縛りつけられ、全身を裁ちばさみでズタズタに刺されたこと。痛みで悲鳴を上げながら目を覚ますと、「五月蠅い」と言われ、その鋏で舌を縦に切り裂かれた。大人になった今も傷口は綺麗に治っておらず、舌先も二つに割れたままだ。


 精神的に一番辛かったのは、初恋の女子が、当時姉の言いなりだった不良の集団に性的な暴行をされ、それを苦に自殺してしまったこと。不良たちは全員、刑期の差はあれど少年院送りになったが、指示をした狡猾な姉には疑いの目が向けられることは無かった。しかしその女子の葬式後、絶望しながら自宅に戻った唖杭に、姉は笑いながら彼女自身が主犯であるという事実を伝えてきた。


 他にも色々とあるが、これ以上は本当に思い出したくない。


 …姉を一言で説明するのなら、性悪説を証明するような人間である。何故こんなことをするのか、と必死に姉に尋ねたことがあったが、彼女の回答は「だって、あたしの目の前に居るんだから、当然でしょ」とのことだった。


 同じタイミングで、同じ家の下に生まれ、同じ親に育てられた最も近い存在であるにも関わらず、何故ここまで精神の構造が異なるのか…。理解の及ばない、ただ自身を苦しめる姉の存在に絶望していた唖杭だったが、中学三年の冬、突如平穏が訪れることになる。


 ある休日の朝、警察から父親が車の自損事故で亡くなったことを電話越に伝えられた。元々顔をあまり合わせることも無かったので、別に悲しさは感じない。ニュースを聞いている時と同じような気分だった。


 その時姉は何処かへ出かけており、仮に家に居たとしてもそこまでアテに出来そうにも無いと判断した唖杭は、手続きを済ませるために一人で警察署へと向かった。


 そして数日経っても、姉は帰ってこなかった。学校を休みながらも時間をかけて諸々の手続きを済ませた唖杭は、一週間以上連絡の取れない姉に不信感を覚える。よく家を開ける人物であったものの、それでも不在にする期間は長くて三日程であり、家に戻ってきては、唖杭へ精神的及び肉体的な暴力を振るっていた。


 父親の火葬の時まで、姉は戻ってこなかった。唖杭は自宅に戻ると、意を決して姉の部屋の前に立ち、ドアノブへと手をかける。ゆっくりと右へ回すと、鍵がかかっていなかった。


「……」


 部屋に入ろうとしたことが彼女にバレれば本当に殺されるかもしれない。このタイミングで帰ってこないことを祈りながら扉を引くと、そこには勿論姉の姿は無く、暗闇に包まれた部屋が広がるだけであった。


「…姉貴?」


 恐る恐る声をかけるものの、当然返事は無い。壁に取り付けられているスイッチを押して明かりをつけると、浪費家で雑貨好きだった彼女の部屋には、殆ど何も置かれておらず、机や椅子、ベッドといった大きな家具だけがその場に残っていた。


 彼女の気紛れで部屋へ連れ込まれ暴力を振るわれた際には、色々な雑貨小物がごちゃごちゃと空間を彩っていたことを唖杭は覚えている。部屋の変わり様に驚いてふと足元へ視線を移すと、部屋の入り口に一枚のメモ書きが置かれていることに気づいた。筆跡から、姉の書いたものに間違いない。


「なんだ、これ…」


 拾い上げて内容を読む。


『もっと楽しいことを探しに行きます。世界一可愛い姉より』


 書かれていたのは、ただそれだけだった。


 姉は帰ってこなかった。主な相続主である母親が行方不明だったため、父親の遺産を唖杭は殆ど受け取ることは出来なかったが、彼は誰にも縛られない自由を手に入れる。穏やかで、かけがえのない、幸せな時間だった。


 そう、幸せな時間だったのだ。

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