悪食の蛇縄呪縛
采宮
第1話 悪食の蛇
新緑が生い茂る広々とした公園は、家族連れや散歩する人々で賑わい、自然の美しさが溢れ、穏やかな時間が流れる。しかし、それは日が出ている時間の話だ。夜になると、その美しさは一変する。淀んだ空気が公園全体を包み込み、普段の爽やかな雰囲気はどこか不穏なものに変わる。木々の影が濃く伸び、風が吹くたびに木々の囁きが静寂を破り、夜の公園には人を寄せ付けない、不穏な気配が立ち込めていた。
雲が空全体を覆い、湿気た空気が辺りを包み込んでいる。風が吹くたびに、濡れた草の匂いや湿った土の香りが立ち上り、これから大雨が近づいていることを予感させる。
公園の奥から微かに声が聞こえた。か細く切なげな声が風に乗って届き、「助けて...」という叫びが響く。
助けを求めているのは、作業着に身を包んだ中年の男だ。男は、巨大な蛇に体を締め上げられている。その状況は、誰がどう見ても異様であった。
全長は10メートルを優に超えており、太さも人間の胴体を軽く上回る大蛇だ。異常性はそれだけではなく、蛇の鱗はまるで深い闇を纏ったかのようで、光を全く反射していない。目のような部位は見当たらず、それは闇そのものが形を成しているかのような漆黒の姿をしていた。…例えるならば、『生物』と言うよりも『怪物』と呼んだ方が相応しいだろう。
「ごぽっ、だすっ…だすけ、助けでぇ……!」
尿を流し、口からは胃液を吐きながらも男は力を振り絞り再度助けを求める。締めつけられていることによって肺を膨らませることが難しく、骨にはヒビが入り、鈍い痛みが全身をじわじわと犯していく。だが男はまだ死ねず、故に生存の希望を失うことが出来なかった。
蛇には、このように『餌』を痛めつけてから食す習性があった。そんな光景を、街灯下のベンチに座りながら眺めている人物が一人居た。
「(この蛇、相変わらず楽しんでいるな…)」
年齢は比較的若い青年と呼べるその人物は、蛇の悪癖に苦い顔をしながら様子を伺っていた。襲われている男の涙に濡れ真っ赤に充血した目がしっかりとこちらを見つめてくる。しかし、青年は彼を助ける気など無かった。
「無理だ」
彼がそう一言だけ告げると、助けを求めていた男の絶望が一層濃くなる。
「ぞんなっ、だすけで!だすげて!うげぇ!」
顔を赤黒く染めながら必死に蠢くその姿は痛々しいが、青年は顔を僅かに伏せながら首を振る。
「…でも、アンタさ」
青年は、茂みの奥をゆっくりと指差す。
「あの子がどれだけ助けと許しを求めても、無視したんだろ」
指差した先には、若い女が横たわっていた。彼女は黒のリクルートスーツに身を包んでいる。サイズのやや合っていないジャケットに、真新しい黒のパンプス…彼女が新卒の社会人か、就職活動中の学生であったことは想像に難くなかった。
スカートからはショーツが膝まで下げられ、白のブラウスはボタンが引きちぎられてはだけており、ブラジャーに包まれた豊満な胸が覗いている状態だ。しかし、光の無い瞳と、完全に弛緩し一切動かない手足は、彼女の魂が既にこの世に存在していないことを証明しており、青年はそんな彼女に性的な興奮を覚える趣味は無い。
「じっ、事故だった!げほっ、ごぽっ!ちょっと強めに押さえつけたら動かなくなっただけなんだ!おえっ、俺達は両思いだったのにあの女が嫌がるから…!」
必死に自己弁護を始める男を見て、青年は呆れた。二人の関係性は知らないが、恐らく男側の一方的な恋慕だったのだろうと推測する。
十五分ほど前、女の亡骸と『お楽しみ中』であった男。既に動かない女に暴言を吐きながら動かぬ下腹部に腰を打ち付け振る…。何より『蛇』のお眼鏡に叶ったこの男が、善人側の人間であるとは到底思えない。
こんな場所で無惨に殺された女の方は勿論だが、これから蛇の餌となる男の方にも、青年は哀れみを覚えていた。
人には多かれ少なかれ、誰かに愛され、庇護された時期があると青年は考えている。その時期が一切無ければ、赤子から成長すること等不可能だからだ。しかし、男はその成長の過程で歪んでしまった。その歪みが生来的なものなのか、何かしらの経験によるショックなのかは不明だが、きっとどこかにあった僅かな選択肢さえ間違わなければ、今日ここで二つの命を無駄にすることも無かっただろう。
「(…いや、こんなことを考えても無駄だな)」
青年は自嘲し、俯きながら頭を横に振った。選択を間違え、今まさに歪みの中に居るのは自分自身だと自覚する。青年は別に、殺された女の無念を晴らすために蛇を従え現れた懲悪のダークヒーローではないのだ。
ぽつり、と水滴がベンチに落ちた。そして次に、冷たく鋭い感覚が青年の首に当たりぞくりとした感覚が背筋を走る。緩やかなリズムで、雨粒が地面を叩き始めていた。
「蛇、これから雨が強まる。遊ぶのはそこまでにしておけ。俺が風邪をひいたら餌を探す時間が減るぞ」
青年は蛇に声をかけた。
「……」
蛇は一瞬動きを止め、何かを考えるような素振りを見せた後、ぐっ、と、男の体を強く締め付けた。
「…うぎっ…ぐぎょっ…びゃぎゃ!!」
男の奇声と共に、バキッ、という鈍い音が鳴り響いた。体を締め付けられていた男はぐったりと動かなくなり、彼の体から、血がダラダラと流れ、血溜まりを作り始める。
「…はぁ」
その光景を見て、青年は憂鬱になった。人の死ぬ瞬間は何度見ても慣れない。蛇は青年の様子など構わず、息絶えた男をどさりと地面に降ろすと、口にあたる部分をがばりと開けて、ゆっくりとその亡骸を飲み込み始めた。強くなる雨と共に憂鬱さが増す。
蛇が男を食い終わると、女の亡骸の方には目もくれず、シュルシュルと青年の方へと近寄った。近寄りながら、蛇の巨体は質量を無視するようにどんどん縮んでいき、四十センチメートルにも満たない小さな姿になる。そのまま、青年の体を這いながらよじ登ると、蛇は彼の首元へとまるでアクセサリーのチョーカーのようにしっかりと巻き付いた。自身の皮膚が巻き付いているような妙な感覚だが、蛇が力を入れて首を絞めてくる様子は無い為まず安堵する。
「…行くか」
犠牲となった女の亡骸と、餌となった男の血溜りがこの場に残っている。雨はどんどん強くなり、青年の衣類に水気を含ませ続けていた。青年がこの場に居た微かな痕跡は、雨が綺麗に洗い流してくれるだろう。監視カメラが少ない場所も人通りの少ない場所も常に把握してある。このまま雨に紛れて人目に付かず帰途に就くことが出来れば、何者も青年とこの惨劇の場を結びつけることはないはずである…そう信じたい。
振り返って、もう一度若い女の遺体と中年の男の倒れ込んでいた血溜まりを見つめた。希望と可能性に満ちた未来を閉ざされてしまった女と、歪み切ってしまった男の末路が憐れで仕方が無い。
しかし、こんな同情心も、ただの偽善及び防衛機制に過ぎないことを青年は理解していた。我が身可愛さと、刷り込まれた倫理観の狭間での不毛な自己正当化と客観視をもう何度繰り返してきただろう。この自動思考を完全に停止させるにはまだ時間がかかることが推測できる。
一度人の気配が周囲に無いことを確認すると、全身を雨で濡らしながら、青年は自身のアパートへと逃げ帰る。年季の入ったアパートの二階に到着すると、鍵が掛かっていない自宅の扉をガチャリと開け、玄関の電気をつける。雨に濡れた自身の姿が、備え付けられている鏡に反射していた。顔色の悪い己の顔を、青年はじっと見つめる。
濡れたダークグリーンの髪の隙間から、暗褐色の瞳が覗いている。両目の下には長年のコンプレックスでもある蛇の鱗に似た痣が浮かび上がっており、それを覆うように、何日も続く寝不足を物語る隈が濃く刻まれていた。
…今夜は餌を強請る蛇に首を絞められることも無い。しばらくは、まともに眠れる。
青年、
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