第10話 招かれざる客人達

 烏の鳴き声で目が覚めた。久々に満足のいく睡眠が取れた気がする。


「(いや、それにしても寝すぎか)」


 今の時間が既に夕方であることを唖杭は察した。眠気は無くなっているものの、空腹と倦怠感で起き上がることを躊躇ってしまう。だがそれも無駄な時間である。唖杭は大きなため息を付いて布団から出た。


 充電していたスマホを手に取り、ニュースサイトを開く。昨日、近くの公園で女性が殺されたという記事を見つけた。被害者彼女はここ半年程、ストーカー被害に合っていたことから、警察は彼女に付きまとっていた男を被疑者として捜査を進めるとのことだ。現場には被害者のものではない血痕が残っていたが、こちらも事件と関連性があると考えられている模様。


「……」


 スマホを机に置き、キッチンに移動して水道の蛇口を捻る。手で水を掬ってうがいをし、顔を洗った。元々髭は薄い方なので、今日は剃らなくて良さそうだ。タオルで顔面に付いた水滴を拭き取ると洗濯機にそのまま放り込み、洗剤と柔軟剤を入れて洗濯を開始した。


「飯でも調達するか」


 この時間帯ならそろそろ総菜や弁当に半額シールが貼られているはずだ。自室に戻ってジーンズとTシャツに着替えると、掛けられていたジャケットを羽織り、財布とスマホを持って玄関に向かう。


 シューズを履いていると、外から男のダミ声が聞こえてきた。


「おい、出てこい。金返せや、早く返さないとどうなっても知らんぞ」


 左隣の部屋の住人を訪ねてきているようだった。その言葉は剣呑だが、通報されないためなのか、声のトーン自体は落ち着いている。


「……」


 少々迷ったが、唖杭は玄関の扉を開けて外へと出た。隣の部屋の前には、鮮やかな色合いのスーツを着崩した、二人組の男が立っている。


「ああ、お騒がせしております。すいませんね」


 唖杭に気づいた片方の男が、にこりと笑いながら軽く頭を下げる。


「いえ、お構いなく…」


「この家の人、いつ頃帰ってくるか分かります?中々貸した金返してもらえんのでこっちも困ってるんですよ」


 腰は低いが、こちらを値踏みするような視線を向けてくる。唖杭はそれを恐ろしいとは思わないが、彼らを刺激するのも面倒なので、「いつも朝方に物音がしますね。日の出る時間帯に帰ってきているんじゃないですか」とだけ正直に答えた。唖杭の物怖じしない姿に、男達はつまらなそうな表情を向ける。


「おや、そうですか。ほんじゃ出直します」


 それだけを告げて、二人の男は去っていった。


「……」


 唖杭のような、現在職業不詳の人間が借りれるような安アパートだ。金銭面が極端にだらしない奴や、元々様子のおかしい奴が多数住んでいる。以前の唖杭であれば絶対に借りないような物件だったが、贅沢を言っていられない。それに、今は唖杭自身こそがこのアパートの住民の中で一番の危険人物なのはなんだかんだ間違いないので、そこまで周辺住民に怯える必要も無かった。


 二人組を見送った後、唖杭もアパートの階段を降りて目的地であるスーパーへ向かおうとする。秋も深まってきたので、これから日がどんどん短くなることが喜ばしい。唖杭はいつしか、日の出ている時間をなるべく避けて生活するようになっていた。


 さっさと食料を調達して、アパートに戻り食事を取るつもりだ。苦しみから解放されている今のうちに仕事もしなくてはならない。とはいっても、そこまで大したものではない。前の会社に勤めていた時に培ったノウハウを適当に記事にして、専用のブログサイトで数百円で販売する程度のものだ。ただただ貯金を食いつぶすだけの生活が嫌だったので、あまり稼ぎは期待せず始めたものだが、こんなものでも意外と需要があるらしく、今ではそれなりの小遣いになっている。


 空腹の中、まとめる記事の内容を頭の中で構築していると、「すみません」と、背後から声をかけられた。


「…はい?」


 多少苛立ちを覚えながら振り向くと、一人の人物が立っていた。深紫色の髪を二つ結びにしている、気だるげな目の女だ。肌の色素や唇が薄く、やや病的な印象を抱く。


 この辺りはあまり治安が良くない。身なりが比較的しっかりしていることから、近場に住んでいる人間ではなさそうだと推測した。白のブラウスに、深いグリーンのチノパン、ワインレッドのローヒールパンプス…以前唖杭が勤めていた会社の周辺で見かけるOLのようなファッションに近い。ただ、その両手にしっかりとはめられた白の皮手袋が、些かアンバランスな雰囲気を与える。


「お話よろしいでしょうか」


 凛とした声でそう尋ねながら、女は唖杭に近づいてくる。どうしようもなく、嫌な予感がした。


「あの…すべて間に合っていますんで」


 顔を引きつらせながら唖杭はそう答えるものの、女は更に距離を縮めてくる。


「別に、ナンパでも、あなたにだけ聞かせたい儲け話があるわけでも、今が幸せかどうか聞きたいわけでもありませんから。ただ、それとは別にちょっとだけお尋ねしたいことがあるだけです」


 返しこそ多少のユーモアを含んでいるが、声色が平坦で無表情なことから、どうしても不気味さがある。


「…ああ、やっぱり、そうだ」


 唖杭の顔を見ながら、何か納得したように彼女は呟いた。


 ふと、唖杭は首元に涼しさを感じた。喉のあたりに手を持っていくと、自身の皮膚に指が触れる。


「なっ…!?」


 唖杭は驚きの声を上げる。蛇が居ない。何処だ。…いや、場所は分かっている。唖杭は、少しだけ蛇と知覚を共有しているのだ。


「?あの、どうしました」


 急に慌て始めた唖杭を見て、女は表情を崩し、不審そうにこちらを見つめた。


「逃げろ!!」


 唖杭は声を荒げて彼女にそう告げる。蛇がこれからしようとすることを、唖杭は分かっていた。


「え…何ですか、急に」


「いいから早く逃げろ!」


 蛇は彼女の足元に居た。女は視線を下に向けて蛇を視認すると、目を見開く。


「…!?」


そして次の瞬間、バツッ、バツッと鈍い音が小さく二回響いた。


「…あ」


 気づけば彼女の両手の指が、綺麗になくなっていた。蛇が目にも止まらぬ速さで、彼女の指を全て噛みちぎったのだ。


「痛…あ、あぁ!?」


 震えながら、彼女は両手を上げる。白い皮手袋は真っ赤に染まっており、だらだらと赤黒い血が、先程迄指の生えていた十か所の傷口から流れ続けていた。


「(なんだ…!?いったい何の真似だ蛇…!)」


 唖杭も同様に混乱した。今まで蛇が、人の指だけを噛みちぎるなんてことは一度も無かったのだ。蛇の行動の予測は出来ても、思考回路を理解することは出来ない。


 逃げるべきか、いや、顔を見られている以上、ここで逃げたらいよいよ後が無い。蛇は、いつの間にか唖杭の方へと戻り、首元に収まっていた。


「き…軌場きばさん!!」


 女が冷や汗を流しながら急に叫んだ。誰か人を呼んでいるようだ。


「やっぱりこの人が蛇です!!早く!」


「(蛇…?)」


 何か知っているのか、と聞こうとしたがそれは叶わなかった。すぐさま後方から三回、軽い破裂音が聞こえ、背中に針が突き刺さるような鋭い痛みが走ったのだ。


「ぐっ…あ…?!」


 唖杭は急な痛みで、その場に膝をつく。


「おー、ちゃんと効いたわ。安心したよ全く」


 ざらついた低い男の声が聞こえてきた。立ち上がって振り向こうとしたが、体が痺れて動けない。


「(な、なんだ?)」


 唖杭の目の前を誰かが通り過ぎていく。恐らくたった今聞こえてきた声の主だろう。茶色のスラックスに赤いレザージャケットを羽織った、長い銀髪を後ろに結んでいる高身長の男だ。


「おう、十篠とおしの、大丈夫かよ」


「私はもうだめです…」


「よし、元気そうだな」


 十篠と呼ばれた女の方は大怪我を負っているにも関わらず、二人のやり取りは軽い。視界が霞んできた。今は蛇に首を絞められていないが、妙に息苦しい。男の方がこちらを振り向き、近づいてきた。


「よお、兄さん」


 顎鬚を生やしている彼の眼つきは日本刀のように鋭い。眼鏡をかけているが、そのガラの悪さは中和されていなかった。


「成程、流石にこいつは当たりだな。…俺達に付いてきてもらうぞ。拒否権は無いからな」


「あが…うぐ…」


 拒否権も何も、舌がまともに回らない。全身に力が入らず、唖杭はとうとうその場に倒れ込んだ。


「軌場さん、気を付けて」


「大丈夫だ、お前じゃあるまいし。それより、なるべく血を垂らすなよ」


 背中から何か引き抜かれた感触を得た後、唖杭は軌場と呼ばれた男に片手で担ぎ上げられる。彼は十メートル程先に停まっていた灰色のワンボックスカーに近づくと、運転席の窓をコンコンと叩いた。


済屋すみやさん、恐らくこいつで間違いなさそうだ。絶対何か知っているぜ」


 ウィーンと、窓が下がる音がする。


「…そのまま乗せるのかい。暴れられたらどうするんだ。十篠君が襲われたばかりだろう」


低い女の声が聞こえてきた。十篠と呼ばれた女とは別の深みのある声だ。


「その時はその時だろ。今更俺達は自分の命を気にする立場じゃねえし」


 「ふん」と、鼻で笑う音が聞こえた。


「まあ、一理あるか。後ろのドアを開ける。さっさとずらかろう、誰かに見られたら面倒だ」


 後部座席のドアが自動で開くと同時に、唖杭の体は強引に中へと投げ込まれた。


「っ…」


「兄さん。一応念押ししておくが、逃げようなんて思うなよ。ま、三発も麻酔を食らわしたんだ、その蛇はともかく、お前自身は満足に動けはしないだろうがな」


「……」


 そういえば、洗濯物を干せていない。扉が閉められると同時に、そんな他愛のないことが頭に浮かんだ。

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