第36話
あくびをしながら着替えて荷物を手に、駅前に行くと電車へ乗り込む。眠気は無くなってくれそうにはなかった。
隣駅で下車すると、徒歩で事務所へと向かう。
「あっ、おはようございます」
扉を開けるとすでに詩織さんが挨拶を。思えばまともに会話をなにひとつしていなかった気がする。
後ろ手で扉を閉めながらそんなことを考えていた。
「朝早いんですね、詩織さん」
単に私が遅いと言われればそれまでな気がするけれど。他の誰よりも先に来ているという、のもまた事実。
ふと思ったけれど。入り口から見て右手前の机が詩織さんにとっては定位置なんだろうか。他の場所に座っているところを見た記憶がない。
「そうですか? いつも大体同じ時間のつもりなのですけど」
おしとやかという言葉がこの人を表すのにもっとも適している気がする。
右奥の机に私は移動した、扉の前にずっと居るのも迷惑だろうと、思う程度の良識くらいは持ち合わせているから。
「そうですよ! 私が言っても説得力ないけどね」
妙に明るい調子で私は声を取り繕う。決して憎悪が滲み出たりしないように。
1時間もすれば事務所内は人で溢れかえる。当然と言えば当然か。
こんなもの外部の人間にでも見られたら普通に捕まるなと思いつつ手持ちのナイフを眺める。いわゆる折りたたみ式の取り回しがきくナイフ。梵字が刻んであることを除けばありふれた物だ。ポケットに直しこむ。もちろん人に危害を加えるための物として持っているわけではない。拍子木とでも呼ぶべき小さなそれを目視で確認しケースに戻してもう一方のポケットへと滑らせる。
特別意味ある行為ではなく単なる確認でしかない。気持ちを落ちつかせたいと自分自身思っているのかもしれなかった。
真実はいずれ露呈する、だから意味なんてものは何処にもない。どれだけ隠したとしても。
手を引っ込め袖を引っ張った。
取り繕ったすべてがバレたりしまわないように。
表情が固まってしまっている気がする、そんな気持ちが拭えなくて手で自身の顔を触れた。詮のないこと。
「何してんだ?」
不意に後ろから響いた声に驚き、振り返った。
「びっくりさせないでくれません?」
先輩にそう言った。
「びっくりもなにもさっきからいたわ、気づいてなかったお前の非だろうよ」
言いたいことだけ言って彼は席へ戻っていく。何の非があるというんだ、と言いたくなった。言わないけど。
「電子上の幽霊って存在するのかなぁ」
気になっていた問題が口から滑ったのは誰に聞きたいとかではなくて、本心から。ネット上に人格性を保有した存在がいるとしたとき、つまり中に人が存在する物を除いてそれに死がもたらせた場合それは幽霊足りえることが可能か否か。私にはその疑問があった。
「そんなもんあるかよ、馬鹿なのか?」
吐き捨てるように返答したのは先輩、そう答えを出すことは想定していた。なんとなくそういう答えを導き出す人種だという認識がおそらく私にはあったから。別に答えが欲しかったわけでもないが。ネット上に転がる怪異の大半はどこかに現実の生活が交差することが前提にある。だからあるわけが無いというのは別段不自然な結論ではい。けれど私には納得する気分がどうにもわかなかった。
私は何故今そんなことを考えたのかもよくわからない。ただそう思ってしまっただけ。
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