第13話 金曜日

 幹に似たその高校生は、瑞穂に向かって真っ直ぐに歩み寄って来た。

 ブレザーの制服に身を包んだ、すらりとした美形。朝の光の中で、彼は天使さながら神々しく輝いて見えた。その麗姿は、初めて幹と逢った時のような鮮烈なインパクトを瑞穂に与えた。


 まさか!


 瑞穂は息を呑んで立ち尽くした。

 起こり得るはずのない仮想が、まぎれもない現実となって目の前で起こっていた。


「おはよう、パパ」


 高校生は瑞穂に呼びかけ、正面に立った。


「君は……誰?」


 動揺を抑えながら、瑞穂は尋ねた。


「僕は、沙穂さほ

「沙穂……? 沙穂だって!?」


『沙穂』


 その名前こそ。

 瑞穂はかつて沙織と交わした会話を思い出した。



『私たちに子どもができたら、あなたと私から一つずつ字を取って、沙穂、っていう名前はどうかしら。男の子にも女の子にも合う名前だと思わない?』

『沙穂か。いいね。可愛い』

『決まりね。早く私たちの沙穂に逢いたいわね』

『そうだね。俺も逢いたいよ』



 逢いたいと願っていた、その『沙穂』が、今、目の前にいる。


「君の、苗字は?」

「沢村。僕は沢村沙穂です」

 



 * * *




 あの後、高校生は前日の中学生のように人混みに紛れて姿を消した。


『沢村沙穂』


 その名前が瑞穂の頭の中で何度もリフレーンしていた。

 まさか、自分の息子がタイムマシンに乗って現われたというのか? 否、そんなことがあり得るはずがない。だとしたら、これは夢? 錯乱して白日夢か幻を見ているのか。いずれにせよ、何か異常なことが起こっているのは確かだ。


 瑞穂はこのことを幹に知らせようとして何度も端末に手を伸ばした。しかし、その度に躊躇し、結局は思い止まった。やはり幹には話せなかった。諦めてしまったことではあるけれど、未だ断ち切れぬ思いを秘めた心の内を見透かされてしまいそうで。

 自分の息子という幻想は、沙織との婚姻の継続があってこそのもの。それはとりもなおさず、幹との別れを意味していた。




「申し訳ありませんでした」


 瑞穂は業務中にミスを犯して、直属の上司・西谷にしたに雄造ゆうぞうに呼び出された。



 一週間前の金曜日、瑞穂はこの西谷からセクシャルハラスメントを受けた。会議が終わって皆が引き揚げた部屋で一人残って書類の整理をしている時、戻って来た西谷に背後からいきなり抱きすくめられた。


『可愛い。私のものにならないか』


 耳元で囁かれた粘り付くような声に総毛立った。突然の、予想だにしなかったハラスメントに戦き、瑞穂はショックのあまり硬直したように動けなくなった。それをいいことに、西谷が下肢に手を伸ばしてきた。

 そこへ折好く、女子行員がテーブルの飲み物を下げに現われ、瑞穂は救われた。

 それでも、精神的なダメージは殊のほか大きく、暫くの間、いたたまれないほどの恐怖と屈辱感に苛まれた。



「困ったものだねぇ、沢村くん。私が早く気づいたから大事には至らなかったが、本来ならば君のミスは口頭注意だけで済まされるものじゃないんだよ。重大インシデントに繋がっていたかもしれないんだ。その自覚はあるのかね?

 そもそも君は、お客様の大事な財産を預かる銀行員たる職責の重みをどう受け止めているのだ? ったく。そんなことなぁんも考えてませ~ん、みたいな顔しとるな。しかも今朝は、心ここに在らずという感じだったしな。新婚の奥さんのことでも考えていたか。え? 毎晩お楽しみか。そういえば、確か月曜日も遅刻してなかったか? ふんっ、朝っぱらからお楽しみか。

 この私が上司で幸いだったと感謝したまえ。今回のことは穏便に済ませるよう私が手を打とう。その代わり……今夜、つき合え」


 舌舐めずりせんばかりの西谷の視線を全身に感じて、怖気が止まらなかった。

 『沢村沙穂』のことがずっと頭から離れず、業務に身が入らなかったのは事実だ。

 非は全て自分にあった。瑞穂は従うしかなかった。

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