第11話 火曜日の朝

【沢村瑞穂:視点】



「いってらっしゃい」

「いってきます。幹も遅れないようにな」


 瑞穂は久しぶりに、白米に味噌汁といった純和風の朝食で送り出された。

 幹が気を遣ってくれるのが申し訳なくもあった。何も怒ってなどいないのに。

 昨夜、ほんの思いつきで幹にデリカシーに欠けるような質問をした。しかし、返事を聞くいとまもなく眠りに落ちた。それを幹は不機嫌ゆえの無反応と勘違いしたのだろう。

 改めて聞かずとも答はわかる。彼ほどの男なら経験があって当然だ。ベッドでのれたリードがそれを物語る。

 それでも、沙織が処女でなかったと知った時でさえ覚えなかった悋気を、幹の過去の経験に対して覚えた。


 想像するに。もしも同級生としてふたりが出逢っていたらどうだっただろうか。

 例えば、サッカーの試合の応援に行った先で。

 相手校のボランチ・久能幹の華麗なプレーに魅了され、目が離せなくなる。そのうち、何らかの偶然で彼がこちらを振り向く。一瞬、目が合うかもしれない。しかし、他校の平凡な男子生徒のことなど、幹は一瞥するだけに終わるだろう。当然、両者の間には何も生まれず、何も始まらない。そもそも例え同級生であったとしても、サッカー部のスタープレイヤーと他校の美化委員が知り合って仲良くなり、ましてや恋人同士になるなど非現実的で全くの夢物語に他ならない。

 やはり、沙織の存在なしには幹との出逢いもなかったのだ。その沙織を裏切った自分はどれほど罪深いのか。いったんは顧みることをやめたアンチテーゼが、またしても瑞穂の胸に自責の念を抱かせ始めた。




「ん?」


 大勢の人々が行き交う駅に差し掛かる大通りで、一人の幼児が流れをかい潜るように瑞穂に駆け寄って来た。

 三歳くらいの可愛らしい男の子だった。その子は瑞穂の元に辿り着くと、脚にしがみ付いて上目使いにじっと見つめてきた。

 そして、舌足らずの可愛い声を発した。


「ちゅき! だーいちゅき」

「どうしたの?」


 瑞穂は幼児の目の高さまで屈み込んだ。


「パパ」


 瑞穂の目をじっと見て幼児がそう言った。


「パパ?」


 父親を捜しているのだろうか? 瑞穂は立ち上がって辺りを見渡した。

 しかし、子どもを捜していそうな父親らしき人物は見当たらなかった。


「迷子……えっ?」


 視線を落とすと、足元にいたはずの幼児の姿はなかった。目を離した一瞬の隙にいなくなっていたのだった。


 


 就業中も、瑞穂は幼児のあどけない表情と声を幾度となく思い出した。

 あれから、あの子は無事に父親と会えただろうか。あの子が言っていた『ちゅき』というのは、おそらく『好き』という意味なのだろう。ならば『だーいちゅき』は『大好き』で、『パパ』というのは……。

 それらの言葉を繋げると、『好き! 大好き、パパ』となる。自分があの子の父親に似ていたのだろうか。可愛い子だった。子ども、か。


 沙織の行方を捜して実家に電話をした時、気の早い母から『子どもはまだなの?』と訊かれ、返事に窮した。『まだ』というより、『もう』……。

 沙織と決別し、幹との愛を貫くことを決めた自分には、もう子どもは望むべくもない。母に孫を抱く喜びを与えられないことを瑞穂は心の中で詫びた。 

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