第6話 二つの記憶

 まだ幼稚園にも通っていなかった幼い頃、幹は沙織が最も気に入っていた熊のぬいぐるみで、一度だけ遊んだことがあった。撫でたり舐めたり顔をうずめたり、ぎゅっと抱きしめたりして。

 それを見た沙織は激昂し、幹は危うく殺されそうになった。

 幸い、母がいち早く気づいて事なきを得たが、沙織の怒りは収まらず、ぬいぐるみは目の前で無惨にも焼かれた。『穢れたから』という理由で。

 爾来、その恐怖ゆえに、幹は姉のものをほっすることはなかった。


 なのに、決して欲してはならないものを欲し、ついには我がものとした。



 そして、もう一つの記憶。

 それはごく最近のこと。よくあるような姉弟のありきたりな会話から始まった。


『姉さん、本当にいい男性ひと見つけたね。義兄にいさん、優秀で性格いいし、イケメンだし』

『それに、私をとっても大事にしてくれるのよねー』

『幸せなんだね』

『もちろんよ。数多あまたの企業の内定を断った甲斐があったわ』

『え?』


 初耳だった。内定が取れないと大袈裟に嘆いていたのは瑞穂に求婚させるための芝居だったのか。幹はその時初めて腑に落ちた。それを聞くまでは、沙織ほどの人材が企業に必要とされない現実社会の厳しさに兢々としていたのだ。

 しかし、まんまと騙された。この姉ならやりかねない。

 そして、自分も同じ穴のむじな。スポーツ推薦の地元の大学を蹴り、義兄を追って、敢えてこのまちの私大へ進んだのだから。血は争えないということか。


『瑞穂はおとなしくて控え目だけど、綺麗で優しいから本当にみんなから好かれてたの。だから、大学の四年間ずっと私がガードしてたわ。誰にも手出しができないように。卒業後は何としても完全に自分のものにしたかった。それで、彼の方からプロポーズするように仕向けたのよ。あ~どこか私を永久的に就職させてくれるとこないかなぁ、なんて上目使いに瑞穂を見ながら言ったの。ふふっ』

『……愛してるんだね、義兄さんのこと』

『当然よ。言葉では言い尽くせないほど』

『じゃあ、もしも……もしも、義兄さんが誰かに盗られたら、どうする?』

『あり得ないわ』

『仮定の話だよ』

『許さない。その時は、殺す』


 何の躊躇もなく真顔でそう答える沙織に、幹は心底恐怖した。何故そんなことを訊いてしまったのかと後悔するほどに。

 これで、はっきりした。姉がこの世にいる限り、義理の兄弟の、この愛の末路は、ただ一つ。

 破滅。それだけだ。




 幹は傍らにまどろむ瑞穂を強く抱きしめた。闇に潜んで機を窺う恩讐の念の、そのまごうかたなき殺意から義兄を守る決意を新たにして。

 もしも今、姉が突然帰って来たとしたら、それこそ好機。この現状を見せつけ、瑞穂は自分のものだと宣言する。幹はそう心に誓った。


「ん、幹……少し、寝かせて」

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