episode 2 白猫ルナの過去

 ルナがうぇっと何か吐きそうになり、赤い首輪の鈴をちりちり鳴らす。

「うう……もうっ、ああ嫌だ」

 彼女は不機嫌な顔で僕すなわち『交叉點の黄色い矢印』を振り返った。

「話戻すけど、あたしたち第二章まで読み終えたじゃない。シェリーの知らない本の帯に、『第三章で深い人間の闇が明らかに!』ってあってね」

 ――だから、人間の闇なんて怖くないんだよ。

 僕がいらだって答えると、ルナは「だからあっ」と強く返してくる。

「じゃあ次はあたしの過去を教えてあげる」

 ――えっ、何でルナの話?

 僕はその唐突さに驚いたけど、彼女はかまわず続ける。

「あたしね、小さい頃というか、生まれてすぐに公園に捨てられてね」

 ――捨てられって、捨て猫じゃないか。

「そう。お母さんがたくさん子供産んで、飼いきれないからって」

 ルナがしっぽで机の上をぱたんと打ち、橙色の目に哀しみを帯びる。

 ――人間は助けてもらえるのに、猫には生きる権利がないのか。

 怒りは僕の率直な感情だったが、彼女は「人間だって、生きる権利すら奪われる子供が後を絶たないよ」と言った。話は進む。

「あたし、置き去りにされた箱から見たの。あたしたちを捨てて去ろうとする女の子を上級生が取り囲んで、『おまえの物置から出た汚物捨ててんじゃねーよ』って気味悪く笑った。奴らは命令したんだ、『物置に帰りたかったら汚物を殺してからにしろよ』って」

 ――物置って、飼い主の家のことか。

 その子はもはや「飼い主」とは呼べなかったけど、暗い記憶が悪いかルナは身震いしてうなずいた。

「あたしはまず自分たち子猫を捨てる女の子を恨み、次に女の子をいじめる奴らが許せなくなった。だけど、誰もいなくなってから思い出したの、いじめっ子のリーダー格が父親から虐待されてるって噂を」

 ――虐待って何?

 初めてふれた気味の悪い言葉について問うと、彼女は小さく首をひねって「この場合は……、親が子供をいじめること」と教えてくれる。なるほどいじめっ子の上にも強敵がいるわけだ、世界は広い。

 ところが、ルナの話は終わらなかった。

「まだ続きがあるの。その後あたしを拾った人がまさかの虐待男の上司でね、電話で話してるのを聞いて分かったんだけど、その部下に仕事を全く与えないっていうひどい嫌がらせをしてるみたいなんだ」

 さらなる闇の存在を知り、世界は広いどころか狭く恐ろしいものだと驚く僕。闇の連鎖は止まらない。そして現在の飼い主なら、僕の近くに人間がいるということ。彼女は本をそのままに数歩離れ、振り返って「人間の闇って深いでしょ?」と不安げな顔をした。

 ――でもだからって、第三章を怖がる理由にはならないよ。

 僕の反論で、ルナは猫なりにほほ笑んでみせる。

「頑固なんだね、良かった。あたしはこの本の第三章に深い人間の闇が書いてあるって話したけど、そもそも闇の話で怖がらせてシェリーに続きを断念させたいんじゃないの」

 ――ちょっと待った。僕、この本に棲んでるのに残りを断念とかありうるわけ?

 僕は彼女の話を止めた。否定してるんだから断念させられることはないにしても、僕は自分の周りに未知の部分を残したまま過ごすのは嫌だった。

「大丈夫、その時は他の本に移ればいいから。シェリーの感覚はページを移るのと一緒」

 ――ページを移るって、そうか。

 僕は『交叉點の黄色い矢印』の中で移動をくり返している。ルナと二ページ読み終えるごとに次の見開きに移るのだけど、本を閉じた時とは逆に視界が真っ白に飛ぶ、その程度ならさして怖がることもなかろう。

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