いつか猫より人間に

海来 宙

episode 1 人間の本に棲むシェリー

 気がついたら人間の本に棲んでいた。人間の家にじゃない、本にだ。そして〝人間〟の本にもかかわらず僕の棲まいを人間が開くことはない。読むのは猫のルナだけ、ありえない。ここ、これは人間の本で人間のために書かれているのに、何故って本に使われる言語が人間語で、登場人物が人間だから。ああ、「登場人物」と表現してる時点で人間前提か、でもルナが「人間用の本だ」、「猫語じゃない」って言うから。話を戻して人間のために書かれているのに、これまで僕が生身の人間を見ることはなかった。

 僕には願いがある。この本を誰か人間に読んでほしい。僕が棲む、ほかでもないこの『交叉點こうさてん黄色きいろ矢印やじるし』を読んでもらいたいのだ。見慣れた可憐な白猫とは違う、話に聞く人間様の姿をはっきり見てみたい。ルナから「一年中続く発情期を隠すために服を着ている」と聞かされた時はぎょっとしたが、人間の本に棲んでいる以上僕は本物の人間を知るべきだった。読んでもらえないのはどうしてだろうか。

「ああこんばんは、シェリー」

 今日も気だるそうにやってきた白猫ルナ。僕を「シェリー」と呼ぶ彼女が人間語を解する理由は分からず、まさか本当は猫語で本の文章も人間語なんて嘘なのか? 人間は本に描かれた空想の存在で、この世のどこにもいやしないのでは? しかし彼女は僕の妄想を否定するように人間の話を始めた。

「ねえ、これから読む第三章には人間の闇が描かれてるらしくてね、シェリーにはきついかもしれないの」

 ――それがどうした? そんなおどかしには負けないよ。

 強がってみせる僕に、ルナは背中のしっぽをくねらせて言う。

「シェリーは人間の恐ろしさを知らないくせに」

 ――知ってる。いや、知らないけど問題ないよ。

 本当の僕は器用に〝顔を洗う〟猫の気持ちすら分からず、勘にすぎなかった。ただ今まで『交叉點の黄色い矢印』を読んで学んできたことが役には立つだろう。

 ――ふん、どうせ想定の範囲内ってね。

「もう、シェリーは……」

 ため息でうつむきかけたルナが「その根拠はどこから来るのかしら?」と訊ねる。

 ――さあ、ねえ……。

 本当の僕といえば、僕は自分が何であるかまだ知らない。もしかしたら僕自身も人間で、こうして一ページ一ページ中で暮らす振りして外から読んでいるのかもしれない。しかし僕はそれを馬鹿げた妄想だと知っており、猫のルナを問いつめはしない。僕は開いたページからしか本以外の何をも見ることができず、よってその興味は本の置かれた世界にいつ生身の人間が現れるかに向いていた。永遠に顔を拝ませてもらえない? 勘弁してよ。

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