第21話 We are (not) Alone-4th

「疲労骨折。陸上選手はよくする怪我の一つだって聞いたよ」


 結果は想像通り、勝負にならないものだった。何故なら私はクラウチングスタートの体勢から走り出そうとした瞬間に右太腿に鈍痛が走ったからだ。

 現状私は、とてもではないが陸上競技者として十分な走りができない。


「症状としては腫れや軽い痛みくらいなもんだが、場合によっては安静にしてても痛みを催すこともある」


 痛む患部を冷やすため、明は校舎に入り「保健室から借りてきた」と救急箱を持って、その中にあった湿布しっぷを私の右足に張る。校舎にも保健室にも鍵はかかっているはずなのに、この勝負のためにいろんな学校の鍵まで拝借してきたようだ。


「痛むか?」

「あんた、私が疲労骨折してたってわかっててこの勝負しかけたんでしょ? そんなやつが今さらどんな顔で私の容体を心配するって言うのよ?」

「それについては謝るよ。まさか本当に勝負をしてくるとは思わなかったんだ」

「私が負けず嫌いだってこと、忘れたわけじゃないでしょ」

「そうだったな。悪かったよ」


 湿布を張った足に包帯を丁寧に巻いていく。


「なんか手慣れてるわね」

「昔はケガばっかりしてたからな。自分のケガを手当てするうちに他人の面倒もできるようになった、それだけだ」


 明の過去は両親や明の育ての親代わりになった人たちに聞いている。

 実の両親に見捨てられ、自分自身の力で生きるしかなかった明は他人を遠ざけ、一人で生きていく術を探すために必死だった。時には誰かと意見がぶつかったり、自分よりも年上で力も強い相手に向かって行くこともある。

 いつも誰かを巻き込まないように、自分だけが傷付いている姿に私はいつからか放っておけなくなった。


「お前の最近の学業成績、陸上部での戦績とかその辺も調べたよ。最近だと二学期の中間テストの点数も見たけど、お前らしからぬ点数だった」


 私の手当てをしながら、明はこれまでの私の調査結果を口にする。

 明の言う通りどれだけ見積もっても五教科の平均点が五十点を切っていたはずだ。


「五教科平均七十点は切らなかった花巻鈴子がここまでの点数の減退はありえない。担任の教師もお前に個人面談したそうだな」

「そこまで調べたんだ」

「傾が心配してたぞ」


 傾先生とは明と同じくらいの付き合いがある。明の親代わりになってくれている大人の一人でもあり、私にとっても血の繋がらない兄のような人だ。

 だからこそ、傾先生も騙していた事実に今さらながら後悔の波が押し寄せてくる。


「お前の学力低下が夜のお遊びのせいだってことはわかったんだが、お前をそうさせた理由まではわからなかった。だからお前をそうさせた理由を探しまくった」

「で、陸上部か」


 答えは私から言った。どっちにしても明は全部知っているようだし、ここまで来て隠すようなことは何もない。


「二年の一学期まで記録されていたお前の陸上に関する成績が二学期になった途端に白紙になってた。夜遊びするようになってタイムが落ちるのまでは理解できるが、それだけじゃ白紙にはならない」


 白紙と明は言っているが正確には測定不能に近い。

 だって私はそもそも走ることさえできなかったから。


「夏季休暇中、お前は練習中に右足の激痛を覚えた。顧問の先生はすぐにお前と一緒に病院に向かって疲労骨折の診断を受けた。しかもお前が患ったのは後遺症を及ぼしやすい大腿骨の疲労骨折。それがお前の最初の躓きだろ?」


 今でも鮮明に思い出せる。呪いの言葉にも近いその症状は私の恐怖をさらに加速させた。


「お前が通院している病院にも連絡をとって確認した。早期発見ができていれば数か月で治っていたんだろうけど、お前の場合は発見が遅れた。激痛を覚えた時点でお前の状態はかなり悪い状態だった。激しい運動をすることはおろか、日常生活にも影響を与えるくらいだからなおのこと効いたはずだ。少なくとも長期間のリハビリは余儀なくされた」


 まるで見て来たかのように語る明は一体どんな気持ちでここまでの言葉を紡ぎ出しているのだろうか。私はふとそんなことを考えていた。


「そして躓いてからは逆算だ。走ることができなくなっても陸上選手としてもう一度輝けることを信じリハビリも頑張った。でも大腿骨の疲労骨折は通常の疲労骨折とは別物だ」


 湿布が効いているのか腫れ上がった患部が冷えていくのがわかる。しかし冷えていくのは足だけではない。いつの間にか体全体が氷のように冷えて固くなっていった。


「一か月のリハビリをやり通したお前は、なんとか松葉杖なしで歩くことができるまでに回復した。だが走ることを取り上げられたお前に残ったのは変わらない周りからの期待。常に出来が良くて、トップに躍り出ることを周りは願っていた。そうなるとお前は外見だけでも取り繕うと必死になる」


 必死だった。闇雲に走っていた。それは物理的にも精神的にも。


「だがその必死さは結果には結び付かなかった。それどころか失敗の連続だったはずだ」


 失敗ばかりだった。何をするにも転び立ち上がってもまた転び、不安は拭われずただ汚い地面に這いつくばる日々が続いた。


「陸上だけじゃない。部活で成績不振だったお前はテストの点数も悪くなる一方だった。ストレスもたまる。で、お前が考えた逃げ道は」

「心の拠り所が欲しかったのよ」


 私の過去を見て来たように話す幼馴染の言葉を打ち消して私は半笑いで答える。


「気付いたのよ。怪我をした後に。自分の周りが期待していたのは昔の自分だって。それは同級生や先輩や後輩だけじゃない。先生や親でさえケガをする前の私に期待していた。怪我をした後の私のことなんて誰も見てくれなかった」

「あんな優しい親父さんやお袋さんが見てくれないなんてこと、俺は考えられないけどな」

「テストの答案を改ざんして見せたって言っても?」


 これは明も知らなかった内容だったようだ。だって鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているんだから。


「過去の点数をそのまま引用したの。問題の内容は毎回違うから印刷の時に苦労したけど。でも二人とも毎回喜んでくれたわ。『よく頑張ってるな』って」

「そんなことまでして、お前は何を守りたかったんだ?」

「決まってるでしょ。昔の自分よ。みんなの期待に応えられて、結果を出し切っていた自分。何をしても誰からも必要とされていた自分よ」

「そのために、今の自分を棄ててでもか?」

「棄てなきゃ今の私を誰も見てくれないからよ!」


 それは悲鳴に近かった。幸い人はいない。だからこの真っ黒い感情も止める必要がなかった。


「私が今部活でなんて呼ばれているか知ってる? 『可哀そうな人』よ。走るために努力してきたのに走れなくなった私に、足をケガした私に『可哀そうな人』だって言ったのよ。それを聞いた時、私の中で何かが壊れた。私はただ走ることが好きで陸上をしていたのに、走れなくなっただけで哀れに思われた。そのことがどうしようもなく悲しかった」


 垂れ流される黒く汚い言の葉を吐き出せるだけ吐き出したかった。今ならそれができるから。


「なのに私の周りでは誰も彼も楽しそうに生きてた。私の中の一番好きだったこと急に取り上げられて、周りから憐れみを受けて、みじめな学校生活を送ることしかできないのに、私の周りの人間はみんな幸せそうにしてた」


 明はただ黙って聞いていた。沈痛な面持ちで、痛みに耐えるように。


「わかってたわよ! こんなのは意味のない自暴自棄だって。薄汚い執着で嫉妬から来る酷い思い込みだって。でも許せなかったの。こんなに辛い思いをしているのにただ言葉だけで心配してくるみんなも、何も知らずに過去の私ばかり見てくる大人も! だから朝宮さんの格好をして遊んでいた時は倍の背徳感があった。この学校で誰よりも輝いて、楽しそうに生きてる彼女を、朝宮優っていう完璧な作品を滅茶苦茶に汚して、破って、ボロボロになっていく感じはたまらなかった。私は自分の同類を作りたかった。あの感覚を何度でも味わいたいって思った時にはもう私は駄目になっていたんだと思う」


 一呼吸おいて、明は再度尋ね返す。


「……それがお前の本音か」


 その直後、明は私の両頬を思いっきりつねった。


「い、いひゃい、いひゃい!」

「何言ってんだ?」

「いひゃいって、いっへんのよ!」

「まだ何言ってるかわかんないけど、俺もお前に言っておくことがある。正直ここまで聞かせたのは俺の本心じゃないからな。よく聞け」


 これまで散々語っておいてまだ何か言い足りないことがあるのかと思ったが、頬を引っ張られた状態では何もできない。


「俺はお前のことを、一度だって棄てたことはないぞ」


 明の一言は今まで投げかけられたどんな言葉よりも胸を打った。


「確かにお前がケガをしていたことには気付けなかった。お前が夏休み中に歩けるくらいにはケガを治したとはいえ、その変化には気付くべきだった」


 私の両頬を抓っていた明の両手はいつの間にか解かれていた。それほどに呆然と、私は明から出てくる言葉を聞いていた。そこにあったのは明の後悔。


「その後もお前の体の変化には気付いていたのに何もできなかった。だからせめて今回のことでお前を元の道に戻そうと思ったんだ」


 そうだ。私の変化に気付いたのは後にも先にも明だけだった。毎日顔を合わせている親にさえ、私の体のことは何も聞かれていなかったのに。


「お前のこれまでの行動を辿って行けば簡単なことだったのに、ここまで来るのに時間をかけ過ぎた。その点に関しちゃあどう取り繕っても何も言い返せない」

「何よそれ。それじゃまるで私のためにこれまで色々していたみたい」

「当たり前だろ。誰のためだと思ってたんだ?」

「朝宮、さん?」

「そんなわけあるか。誰があんな演劇バカにあれこれしなきゃならん」


 そこまで言い捨てなくてもと私はここにいない朝宮さんに少しだけ同情する。


「明は、その、朝宮さんのことで私に怒っていたんじゃ」

「人に迷惑をかけるっていう意味じゃそこにも腹が立った。でもそんなことは些細なことだ」


 私がしでかしたことだけど、些細なことじゃないと口にしようとしたが変に話の腰を折るのもはばかられたので口をつぐんだ。


「もっと腹が立ったのは、俺の知ってる花巻鈴子は、いつもウザいくらいに俺に接して来て、頼んでもないのに友だち作れと助言してくるほど面倒見がいいお人好しなやつなのに、誰からも見られていないって勘違いしただけで勝手に堕ちていくところに腹が立ったんだ」

「えっと、私今貶されてる?」

「褒めてんだよ」


 明は気付いているのかわからないけど、確かに彼の言葉の端々が震えていた。


「辛かったはずだ。いくら努力しても前みたいに走れない。もしかしたらもう二度と陸上ができないのかもしれないっていう恐怖がお前を襲ったんだから。その時のお前の状況を考えれば、夜遊びに走ったことを責めることはできない」


 でもな、と明は語気を強めて告げる。


「俺は、お前さえいてくれればそれで良いんだ」


 絞り出すように、懇願するように明は私に訴える。


「お前がしてきたこと、全部が全部許されることはない。やってきたこと全部清算できるかどうかはこれからのお前次第だ。でも今ならまだ、間に合うから」


 込み上げてくる感情を押し殺しながら、明は言葉を紡ぎ出す。ただ伝えるためじゃなく、本当の意味で私に届かせるように。


「まだやり直せるから」

「やり、直す……」

「お前の努力を誰も見ないって言うなら今度は俺がお前をしっかり見てやる」


 彼が投げかける言葉は、行動は近しい人なら簡単なことかもしれない。


「お前が頑張ったら目一杯構ってやる。サボったら思いっきり罵倒してやる」


 現に友だちなら、もしくはそうでなくとも気が利く人ならしてくれそうなことばかり言っている。


「何か賞を取ったら、ええと、アイスの一本は驕ってやる」


 けれど、今の私にとってそんな些細なことが本当に嬉しくて。


「だからこれ以上、一人でなんでもかんでもするな。親友の命令だ」


 私にとって明が投げかけてくれたものこそが恋い焦がれ、それでいて諦めていた光。私はそんな言葉をずっと誰かに言ってほしかった。


「はは、何が親友よ。友だちいないくせに」

「……まったくだ」


 今まで聞いたことがない発言を聞いて私は自然と笑みと涙をこぼしていた。でもそれは今まで出して来た渇いた笑みでも冷たい涙でもない。

 心から湧き出た温かな何かだった。


「……約束して」


 私は口にしていた。しかも自分で呆れるほど幼稚なお願いをするために。


「私のこと、ずっと見てるって」

「だからそう言って」

「言葉だけじゃわかんない」


 照れくさそうにする明は羞恥心を振り切るように私を力いっぱい抱きしめた。


「……痛いんだけど」

「痛みを感じるほど、真実味は増すだろ」


 何秒、何分そうしていたのか数えていなかったけど、私が今まで感じたことのない時間が一気に流れて行った気がした。いっそこの時間が永遠に続けばいいとさえ思う。抱きしめる明を私の方からも抱きしめようと両手を背中に回した。

 頭を上げ、私は心中を吐露する。それは罪の告白に近い。


「私ね、陸上が好き。家族も好き。親友はまあ、そこそこ」


 明は私の言葉を遮ることなく、ただ黙って聞いている。


「でもここ最近はそんな好きな何かにずっと嘘を吐いてた。足をケガした時、本当に怖かった。陸上ができなくなるかもしれないって言われた時は特に。でも何も言えなかった。言ったら自分が弱くなったと思われるから。それで心配されたり、ましてや失望されたりするのはもっと嫌だった」


 息継ぎも忘れるくらい話し続ける。息苦しいが大事な言葉を私に聞いてほしかった。


「でもそんなことしなくても良かった。私には一人でもこうやって私を見てくれる人がいてくれたんだってわかった」


 今の私にはこのくらいのことしかできないけど。


「今は立ち止まって考える。無茶なことばっかりして来たから」


 私は明に向けて心からの笑顔を見せた。


『…………あの。もう終わりました?』


 そこに。唐突に割って入ってきたのは明がピストル代わりに使っていた携帯だった。


『日比野君。そちらの状況がまったく、ちっとも、これっぽっちも伝わらないのですが』

「ああ、悪い。今伝える」


 明は焦りながら携帯の音声拡散状態を通話状態にして対応にあたる。そんな幼馴染をよそに私は聞こえた相手の声に聞き覚えを感じた。


「鈴子。お前と話したいって」


 すると明は私に携帯を差し出してくる。私の予想が外れていなければ私はこの相手にもけじめをつけなければならない。恐る恐る明の携帯を受け取り電話口に出る。


『初めまして、花巻さん。私の格好で色々していただいたようで』


 生唾を飲み込んで私は電話口の相手の名前を口にする。


「……朝宮さん」


 朝宮優。私が憧れ、羨んだ生粋の選ばれた人間。


『あなたのことは日比野君を通してある程度は知っています。何せ今回起こった騒動の被害者ですからね。率直に言って私はあなたが私にしたことを、一生忘れないと思います』


 当然の言い分だった。彼女はその言葉を言う資格がある。


「私が、あなたに対して取り返しのつかないことをした。それは理解しているつもりです」

『でしたら、あなたがしなければならないことはわかりますね?』


 どんなことでも私は受け入れるつもりだ。彼女がどんな無理難題を言ったとしても私はその言葉を飲み込む責任がある。


「あなたが罪を償えと言うなら、それに従います」

『そんなにかしこまらないでください。私が提案したいのは二つです。その二つを呑み込んでいただけるなら私はあなたのしたことに目を瞑りますし、何も意見しません』


 命令ではなく提案と彼女は告げた。言葉の意味を捉えるなら聞こえはいいが、向こうがどのような提案を持ち掛けるのか私は緊張しながら耳を傾ける。


『まず、あなたがこれまで私の格好でされてきたこと、全て教えてください。正確に』


 最初の内容はそこまで酷いものではなかった。自発的に夜遊びをしていた分、罪悪感も喪失感も私の心に響かなかった。それゆえに私も自然な口調で「わかった」と答えた。


『意外ですね。あまり話したくない内容のはずですが』

「私は自分の言ったことは曲げない。さっきも言った通りどんな要件も呑む覚悟よ。それだけのことを私はしたんだし」


 なるほど、と朝宮さんは納得したように答えた。


『ところで話は変わるんですけど花巻さん、日比野君のこと好きですよね?』

「はぁ⁉」


 あまりにも早く言い放たれたからとか、一つ目よりもあっさり言われたからとか理由は色々あったが、いろんな突然がない交ぜになって、脳で理解できた時には私は大声をあげていた。


『答えてください。日比野君のこと好きですよね?』

「な、なんで、あなたにそ、そんなこと!」

『彼のこと、好きなのに今回のようなことをしたんですよね?』


 朝宮さんの言葉は電話越しでもわかるほど冷えた声で紡がれていた。


『彼は私に自分自身のことを話してくれました。全てではありませんが、それでも少しだけ彼は私に話してくれました、自分自身の過去を。そんな彼があなたに何もできなかったことをずっと悔やんでいました。自分は友人がこんなになるまで何も気付いてやれなかった、と』


 どこまで今回のことを知っているのか、そんな愚かな問いを考えたことすら恥じたかった。朝宮優は私どころか明のことまで知っていた。

 しかも性質たちが悪いことに重要なことだけ。


『でも私は、あなたこそが自分をもっと大事にするべきだったと思っています。彼のあなたへの献身は異常です。それは自身がそうされなかったことへの裏返しとも取れます』


 ここまでの会話だけで、私は理解した。理解してしまった。


『あなたは私以上に彼の過去を知っているはずなのに彼を悲しませ、あまつさえ彼にまた重いものを背負わせた』


 彼女もまた、日比野明という存在を意識している。


『もしこれ以上、彼を傷付けるというなら、今のあなたの居場所は私が代わりに務めます。そしてどこへなりとも消えてください』


 しかも、私が必死に守ろうとした繋がりすらも奪い取ろうとしている。


「……えらく、好き勝手言ってくれるじゃない」

『あなたが私の格好をして好き勝手したお返しですよ。で、この希望は通るのでしょうか?』

「通るわけないでしょ!」


 私は頭の中の血液が沸騰するほどの激昂をも催した。


「私は二度と傷つけない! 背負わせない! 金輪際こんなバカな真似はしない! だから私の居場所を取ろうとするな!」


 私の叫びに朝宮優は何も言い返さなかった。一呼吸おいて彼女は続ける。


『良いでしょう。ならもう一つの希望はあなたの連絡先を教えてもらう、ということにしておきます。今後お話する機会は多くなりそうですし』

「私、あなたとはいい友だちになれるかもしれないわ、朝宮優さん」

『私もです。これを機にお互い良い関係を築きましょう、花巻鈴子さん』


 そして私の連絡先を教えてこの会話は終了した。たった数分の出来事だったが、今まで経験したどんな数分よりも濃く、熱くなった数分だった。


「なんか白熱してたな。何言われたんだ?」


 だから明に話しかけられるまで明がいたことすら忘れかけていた。


「そうね、簡単に言うなら宣戦布告かしら?」


 話の内容を完全に理解していなかった明にとっては何のことだかわからないだろうけど、それでいい。もしわかってしまっても少し、いやかなり困ったことになるから。


「今の鈴子を見て、俺も思い出したよ」

「何を?」

「お前と一緒にバカみたいに走り回ってたこと」


 ふいに言われたそれは私と明が出会って間もなかった頃のこと。お互い知らない者同士だったけど、知り合ってからは私がいつも明を引っ張り回していた。


「今度は俺がお前を引っ張り回してやる。覚悟しとけ。まずはいろんなところへお詫び行脚だ」

「行脚はもちろんするけど明、昔のこと、覚えてたの?」

「覚えてるに決まってるだろ。あんな必死こいて走り回らされた記憶、そう簡単に忘れられるか」


 明が悪態を吐いて私が笑う。いつものことでいつもの風景。でも今はこの瞬間さえ愛おしく、尊いもののように見えてならなかった。


 空が白み始める。この世界に朝がやってこようとしている。そして私にも。

 私の悪夢のような現実は終わりを迎えた。

 最後に待っていたのは私を見てくれていた男の子の潤んだ瞳だった。

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